連載長編小説『楽聖』第四楽章3
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五条千本の交差点を東に進み、少しして目的地に到着した。五条通りから路地に入ったところの駐車場にスクーターを駐車し、大通りに面した正面玄関から建物の中に入った。
古都コンサートホールの建設と並行して行われていた古都フィルハーモニー交響楽団の稽古場。それがここだった。ホールのほうには二度足を運んだけれど、稽古場に来るのは初めてだった。こちらはホールよりも一足早く完成したのだった。楽団の楽器や楽譜などはすでに移されているそうだ。稽古場というと壁のベニヤ板が剥がれていたり、床がやけに軋んだりと至るところに傷を負っているイメージが強いけれど、新築なだけあって壁は一面真っ白で続いており、大理石の廊下はピカピカだった。
稽古室に入ると古都フィルの奏者らが揃っており、各々が自身の楽器を鳴らしていた。チューニングをしている人がほとんどだったけれど、中には数人で小曲を奏でている者もいた。僕に気づいた何人かが目礼したため、僕はそれぞれに笑顔を返した。
「高辻さんは?」
壁沿いに立っていた楽団事務員の男性に訊ねた。
「楽団長は今、取り込み中です。この数日ちょっと慌ただしくて……」
歯切れの悪さが気になったものの、僕は詮索をしなかった。楽団内での出来事に部外者である僕が首を突っ込む必要はないと思ったのだ。それに、奏者たちはリラックスした雰囲気だし、それほど大きな問題ではないのだろう。
杮落とし公演の第一部でオーケストラの指揮を執る浜野さんが僕に気づき、笑顔で手招きした。僕は笑みを浮かべて彼のほうに駆け寄った。浜野さんが僕のことを紹介する。もちろん面識はあるけれど、言わば舞台稽古の初顔合わせみたいなものだ。僕は拍手の一つ一つに会釈で応えた。
杮落としに出演する者にはすでに僕の書いた交響曲第一番『聖人』の楽譜が配られている。すでにそれぞれが各自の演奏パートを読み込み、さらっていることだろう。今日の稽古で、早速一度合わせてみるのだ。いったいどんなアンサンブルが生まれるのか、それが今から楽しみでならない。
全員が元の体勢に戻ると、オーケストラの輪から少し外れたところに雅楽奏者の姿があった。雅楽を取り入れた楽曲を書いたのは自分自身なのに、クラシックの稽古場に雅楽奏者が混ざっていることがイレギュラーで、どこか滑稽だった。が、『聖人』を演奏すれば、どことなく違和感を持たせる雅楽奏者たちの存在も調和して馴染むだろう。
ようやく僕の紡いだ音楽が形になるのだ、と少しの興奮を覚えながらフィリックスの姿を探した。彼は第一ヴァイオリン――コンサートマスターを務めるはずだが、その姿がどこにもない。フィリックスなら僕を認めたらすぐに声を掛けるだろうし、今この場にいないことはわかっているのに探してしまう。稽古室を見回していると、僕の視界に異質なものが映ったような気がした。日本人の中にいてはあまりに目立つ金色の髪――それが見えた気がして、僕は咄嗟に同じ場所を見返した。
そこにはやはりいた。しかしなぜ――。あらゆる可能性を頭の中に思い浮かべるが、どれもしっくり来るものではなかった。考えている内に、美しく長い金髪を揺らしながらどんどん距離が詰まる。長い足が踏み出す歩幅は僕が想像する一歩よりも大きい。その足が止まった時、反動のせいか良い匂いがした。僕の目を、スカイブルーの瞳はまっすぐに見つめていた。
「よろしくね、ムッシュー」
「どうして君がいるんだ? 杮落としで招致されたヴァイオリニストはフィリックスだったはずだろう?」
クリスティーヌは柔らかく口元を曲げた。
「それが、私にもよくわからないのよ。とにかくフィリックスの都合が悪くなったらしくって、本人から直接代役を頼まれたのよ」
取り込み中というのはクリスティーヌのことだったのか。伸也さんはさっき彼女と話をしていたのだ。事務員が言った、最近慌ただしいというのはフィリックスが出演できなくなったことへの対応のためだろう。
「詳しいことは何も知らないの?」
「フィリックスからは何も……。不気味よね。今まで出演を見合わせたことなんてあったかしら。だけどムッシュー・タカツジから事情を聞いて納得したわ。彼、今頃ウィーンにいるわ。もう少しでアメリカに渡るみたいだけど」
「アメリカ? どういうことだ?」
「別に物騒な話じゃないわ。私はもうオケに合流しないと……詳しいことはムッシュー・タカツジに聞いて」
クリスティーヌは颯爽と僕から遠ざかり、オーケストラの輪の中心に入ると温かい拍手に包まれた。明るく親しみやすい態度で周囲とコミュニケーションを取っているけれど、彼女の顔にはフィリックスの代役という重圧を抱えた恐ろしさが滲み出ているような気がした。それに、彼女が背負う重圧は「フィリックスの代役」だけではない。杮落とし公演には彼女の父――ヴァイオリン名家の当主が招かれているのだ。父親に自分の実力を認めさせる機会だと言えなくはないけれど、作曲家として実績のない僕の新曲をコンサートマスターとして成功に導かねばならない。コンサートが成功すると約束された楽曲ではない中で、ロベーヌ家の当主が認める演奏となるかどうか。その不安も抱えているだろう。ロベーヌ家の娘として、誇りと威信を掛けた戦場に出向くような覚悟を僕は彼女の表情に見た。
一旦僕は稽古室を出て、伸也さんのいる応接室に向かった。二度ノックをすると伸也さんの声で「どうぞ」と返事があった。
「稽古を見に行かないんですか?」
「ちょっと今はな。少し気疲れしてるんや」
フィリックスのことだな、と僕は察した。伸也さんは、杮落とし公演でフィリックスがコンサートマスターとして出演することを心底喜んでいた。僕の交響曲を披露することも大そう喜んでいたけれど、それと同等か、あるいはそれ以上に楽しみにしていたはずだ。それもこれも、フィリックスが伸也さんの息子同然の存在だからだ。
伸也さんの心中を察すると、何とも声の掛けようがない。慰めの言葉も見つからない。
「フィリックスの降板の件は聞いたか?」ややあって伸也さんが口を開いた。
僕は頷いた。
「クリスティーヌから聞きました」
「そうか。……彼女には緊急で来日してもらった。既存の楽曲のように何度も演奏されているものなら公演間際に数回オーケストラと合わせるだけでもコンサートは成立するやろうけど、今回の目玉は奏介の書いた新曲やからな。一度や二度の合奏では絶対に音楽として成立せん」
僕は伸也さんの言うことがよくわかる。フィリックスの根回しもあって代役探しにはそれほど手間取らなかっただろうが、やはり精神的には厳しいものがあるだろう。
「フィリックスは、俺じゃなく夢を追いかけたんや。それでいい、あの子の選択は正しい。今目の前のチャンスを逃せば次のチャンスはいつ来るかもわからへんからな」
伸也さんはハキハキと話しているが、僕には自分に言い聞かせているようにしか聞こえなかった。
「その……フィリックスが出演を見合わせた理由というのは何ですか?」
伸也さんは泣きそうな顔で笑った。嬉しいのか哀しいのか、判別がつかない表情だ。
「あの子はなあ、こっちのコンサートと日程の被ったウィーン・フィルのステージにコンマスとして立つんや。しかも、会場はカーネギーや」
勝ち目がない、と言うふうに伸也さんは弱い笑い声を発した。もし僕がフィリックスの立場だったら、やはり心は大きく揺れるだろう。しかし、初めから結論は出ているはずだ。世界最高のカーネギーホールに、夢だったウィーン・フィルと、それもコンサートマスターとして立てるのだから。
この世界では、他人の様子など窺ってはいられない。今しかないのだ。伸也さんも次のチャンスがいつやって来るかはわからないと言った。伸也さんも、この世界の厳しさを重々承知しているからこそ、フィリックスの決断を肯定するのだ。ただ、本音を言えばフィリックスと共に羽化したかったはずだ。古都コンサートホールの始まりの羽ばたきをフィリックスと共に体感したかったはずだ。
しかしもう決まったこと。いつまでも立ち止っているわけにはいかない。切り替えて前を向かなければ、クリスティーヌに対してあまりにも失礼である。
「大丈夫です」
なぜか僕はそう言った。僕が言ったというよりも言葉が口を衝いて出たというほうが正しい。今伸也さんを支えられるのは僕だけだと思ったのかもしれない。音楽の世界で、長い年月波乱万丈の人生を送った歴戦の猛者高辻伸也を支えるのにはあまりにも脆弱な柱だけれど、真下から支えるのではなく、そっと寄り添うことならできる。
「そうや。大丈夫やな。奏介の書いた曲やし、ロベーヌの娘さんがコンマスを引き受けてくれたことやし。俺はコンサートホールの船出を託した身や。後は信じて待つだけやな」
「はい、どっしり構えといてください」
伸也さんは立ち上がり、僕の肩をぽんぽんと叩いて応接室を出て行った。僕も伸也さんのすぐ後に続いた。稽古室に通じる重いドアを開けると、杮落とし公演第一部の演目、ドヴォルザーク交響曲第九番『新世界より』第四楽章の冒頭が響いていた。
「どう? 耳の調子は」
「補聴器がないと音なんて聞こえないよ。でも前からそんな状態だから、良くも悪くもなってないんだ。クリスティーヌはどう? クラシックに雅楽が組み込まれているのにはもう慣れた?」
「そうね。二週間経ってようやく……。だけど、何度演奏しても、何度聴いても、斬新な曲だと思うわ。私たちにはとても思いつかないし、思いついたとしても、ソウみたいに最大限に活かすことなんてできないもの」
僕はクリスティーヌに褒められて、体が熱くなるのを感じた。久しぶりに赤ワインを口にしていることもあって熱に浮かされているようなふわふわとした気分だった。
ただ、とクリスティーヌは上品にローストビーフを切りながら言った。「ソウの交響曲は杮落としでお披露目するまで聴きたくなかったっていう思いもあったの。やっぱり、せっかくなら楽しみに待ちたいじゃない? もちろん、今回のコンサートに参加できるのはとても嬉しく思っているけどね。それもプレミア・ヴィオロンよ。光栄だわ」
「そういえば、フィリックスの代役の話は、彼から直接連絡があったんだって?」
クリスティーヌは、僕に一瞥もくれずに「ええ」と返事だけした。薄くスライスしたローストビーフを口に運ぶ。
「その時、フィリックスは嬉しそうだったかい?」
「どうして嬉しそうにしてると? 彼は降板する人間よ。代役を頼むための電話で嬉しそうにする人なんていないわ。彼は申し訳ないと何度も言ったわ」
「君も知っているだろう、フィリックスがウィーン・フィルと共にカーネギーに立つことを。申し訳ないと口にするのは当然だ。でも声色は明るかったんじゃないか?」
僕はクリスティーヌに電話を掛けた時のフィリックスの様子を鮮明に思い浮かべることができた。幼い頃から追い続けた夢を掴む千載一遇のチャンスなのだ。いくら感情に蓋をしても、その隙間から歓喜の声が漏れ出る。心の声は、意図せず声色を変化させるものだ。
しかし彼女はかぶりを振った。
「明るくなんてなかったわ」
「本当か? ウィーン・フィルはフィリックスの夢だぞ。それもカーネギーホールだ。これ以上の舞台はない。それなのに、喜ばないやつがいるもんか」
「本当よソウ。フィリックスは電話でこう言ったの。――僕はまだウィーン・フィルに認められていない。僕は僕の力でこの実力を認めさせる。そのためにウィーン・フィルの招致に応じるんだ。僕の向かう先は楽園じゃない、戦場だよ」
「戦場……」
「それくらいの覚悟は持って当たり前よ。フィリックスは、ウィーン・フィルとソウが共演したコンサートを観てる。ウィーン・フィルについているクラシックファンは耳が肥えているわ。プレミア・ヴィオロンとしてコンサートで大成功を収めればウィーン・フィルもフィリックスの実力を認めるでしょうね」
クリスティーヌは何の違和感も抱かずに話しているようだったが僕には引っ掛かる点があった。
「フィリックスはウィーン・フィルに認められていないのか? 彼の実力を知っているからウィーン・フィルはカーネギーコンサートにフィリックスを招致するんだろう?」
そうでなければ、ウィーン・フィルがフィリックスをコンサートマスターとして招致する辻褄が合わない。実力を認めていないヴァイオリニストをコンサートマスターとして招く道理がない。
「フィリックスがそう言ったの。私に聞かれても困るわ」
クリスティーヌは刹那表情を歪めてから、ワイングラスを口に運んだ。
「でも、フィリックスがそう思うのもわからなくはないけど」
「どうして?」
「だって彼がウィーン・フィルに招かれるきっかけとなったのはヴァガノフとのコンサートだから」
「マキシムか……」
「この話はお終いにしましょう」
マキシムの名前が出たからか、クリスティーヌは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
彼女と同じようにフィリックスもマキシムのことを蔑視している。マキシムのコンサートにおいてフィリックスは言わば招かれざる者。それは彼らの立場を逆転させても同じことが言える。フィリックスにとってもマキシムは招かれざる者なのだ。その招かれざる者と共演したコンサートでフィリックスはウィーン・フィルの目に留まった。つまり彼は、マキシムと渡り合った自分が認められただけで、自分個人としては実力を認められていないと考えているわけだ。
そう考えると、フィリックスの受けた屈辱が理解できなくもない。そもそも当時のウィーン・フィルの関係者はマキシムを目当てにコンサートに足を運んでいたはずだ。フィリックスは一共演者でしかなかったというわけだ。
それでもその後コンサートマスターとして声が掛かるのだから、僕だったら実力が認められたと喜ぶ。
きっかけがマキシムでなければ――そこまで考えたところで僕の頭の中で不吉な考えが繋がった。
クリスマスの夜のことだ。僕たちは四人で小さなパーティーを開いていた。その夜、マキシムの発言をきっかけに全員で大揉めになった。そしてその夜、マキシムは何者かに襲われ大怪我を負わされた。犯人は、フィリックスだったのではないか……。
動機はもちろん、マキシムが僕を、そして日本のクラシック音楽を侮辱したことだ。フィリックスは伸也さんという存在もあって大変な親日家だ。マキシムの発言は許せないものだっただろう。しかしそれは殺意の萌芽に過ぎない。そこに、ウィーン・フィルの夢を掴むきっかけとなったマキシムとのコンサートの記憶が上乗せされたのではないか。殺意はみるみる内に芽を伸ばし、瞬きする間もなく結実したのだ。
僕たちは解散と同時にそれぞれが帰路に着いた。フィリックスとは途中まで一緒だったが、その後のアリバイは、ない。
しかしフィリックスが犯人だとして、マキシムはなぜ彼を庇うのか。なぜフィリックスが犯人だと警察に話さないのか。釈然としないまま、時間だけが流れた。
「明日、マキシムの見舞いに行かないか? そろそろ退院だろうし」
食事を終え、店を出たところで僕は言った。
「ヴァガノフの顔なんて見たくないわ。申し訳ないけど、私は行かない」
顔の包帯も取れて、容態はずいぶん回復しているようだった。夜道で襲われた当人だというのに、表情からはどこか吹っ切れたように見えた。刃物を刺された箇所を自慢げに見せられたけど、大柄なマキシムの肉体に痛々しい傷跡が残っているとただならぬ気配を感じさせる。
しかし刃はマキシムの腱を切ったようにかなり深いところまで届いており、手を握って開くまでは回復したものの、ピアノを弾ける状態にはないらしい。
「フィリックスのことは聞いたか?」
僕は漠然とした問いを投げ、マキシムの様子を窺った。外見からは感情の変化は読み取れそうになかったけれど、じっと瞳を見据えていると、眉がぴくぴくと痙攣した。
「あいつが何だ?」
「じつは、古都コンサートホールの杮落としコンサートを降板したんだ」
「……そうか」
「ウィーン・フィルのコンサートと日程が被ったらしいんだ。それでフィリックスはあっちに行った」
マキシムは百二十度くらいまで折り曲げたベッドに身を預けた。数秒天井を見上げた後、あいつらしいな、と言った。
それを見て、僕は確信した。マキシムを襲ったのはやはりフィリックスだ。
「フィリックスらしいか? フィリックスの過去を知っているだろう? それなら伸也さんよりも自分の夢を優先したことをどうしてフィリックスらしいと言えるんだ。何事もなければフィリックスはウィーン・フィルではなく伸也さんを選んだはずだ」
マキシムは目玉だけをぎょろりと僕のほうに向けた。
「何が言いたい?」
彼の眼力に一瞬全身が強張ったけれど、僕は歯を食いしばった。
「異常事態が起きたから、フィリックスはアメリカに逃げたんだ。異常事態、そうだ、マキシムを襲ったことだ。フィリックスは、もう日本にはいられないと考えたんだ。事情を知らないとはいえ、息子同然に面倒を見てもらっていた伸也さんに犯罪者である自分が関わるのは失礼だと考えたんだ」
「証拠はあるのか? あいつが俺を襲った証拠は!」
「そんなものはいらない。マキシムは、真実を警察には話さないつもりなんだろう? どういうつもりかは知らないけど、それなら僕だって真実を知れたらそれでいい。フィリックスが逮捕されなくても、真実だけを知れればいいんだ」
「警察には言わないと約束しろ」
僕はマキシムの言葉に力強く頷いた。それを見て、マキシムは自分の腕を叩いた。ちょうど刃物で刺された辺りだった。
「俺は犯人の顔を見た。それはたしかにあいつだった。だが不思議なことに、あいつは俺を襲う時に涙を流していた」
フィリックスの涙は、おそらくマキシムに呑まれた自分を憐れんだものだったのだろう。あまりの悔しさに、衝動が抑えられなくなったのだ。
「それだけだ。しばらくして病院に運ばれた」
「どうしてフィリックスのことを庇う?」
「それは……そんなことはどうだっていいだろ。もう帰れ」マキシムはベッドから起き上がった。「リハビリに行かなくちゃならんのでな」
マキシムはスリッパを履くと、大きな体を揺らしながら病室を出て行った。
4へと続く……
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