【最終回】連載長編小説『楽聖』第四楽章5
5
ホール内客席の照明が点灯し、古都フィルハーモニー交響楽団が舞台袖に消えていくのをモニターで確認して僕は立ち上がった。白いシャツの袖口のボタンを締め、燕尾服を羽織り、襟首を正した。姿見で髪形、服装などを点検してから楽屋を出た。
アーティストラウンジに出ると、奏者たちが各々楽器の手入れや水分補給をしていた。その中で、クリスティーヌは一際険しい面持ちで椅子に腰掛けていた。モニターで見ていた限り演奏は上出来だった。やはり緊張が抜けきらないのは客席に座る父親を意識してのことだろう。本番前の緊張感とはとても思えなかった。
クリスティーヌの座る椅子に近寄ると、僕に気づいた彼女は咄嗟に笑顔を広げた。
「素晴らしかったよ。モニターで確認してた」
「そうかしら? 私なんてパパの視線に委縮して……いいえ、この話はやめましょう。もちろん私以外の人たちの演奏は素晴らしかったわ。この調子で本番を迎えられたら最高ね」
「大丈夫だよクリスティーヌ。次の演奏には僕がいる。お父様の目が気になったなら僕のほうを見るんだ。そうすれば少しは緊張も和らぐんじゃないか?」
「そうね。そうするわ」
「でも演奏を見ている限り悪い緊張ではなさそうだ。僕は何の心配もない」
そう言いながら、時計の針に呼応するかのように僕の足はがくがくと震え始めていた。プロとしてステージに立つのはずいぶん久しぶりだ。緊張に押し潰されそうなのは、じつはクリスティーヌではなく僕のほうだった。
本番前のゲネプロとはいえ、伸也さんが招待した著名人たちはすでに客席に観客として座っている。クリスティーヌの父親はもちろん、すでに客席にはマキシムの姿があるはずだ。それもあって、僕はもうすでに交響曲第一番、それから赤穂奏介という作曲家の品定めが始められているのだと感じていた。
本番と同じく二十分間の休憩を挟み、クリスティーヌらオーケストラは舞台袖からステージに出て行った。指揮者である僕はステージ袖からではなく舞台中央の二階、パイプオルガンの脇から伸びる螺旋階段を通って登場することになる。
二階に移動し、ステージへと繋がるドアの前に立った。全身の感覚が鈍い。ふと不安に駆られて脇に持つ楽譜と指揮棒を確認した。ちゃんとある。深呼吸を繰り返していると、「ご準備は?」とドアを開閉する係員に声を掛けられた。
僕は最後に一つ大きく息を吐いてから頷いた。
演奏を終えてから、いや、演奏を始める前から耳にはいつもと違う感覚があった。補聴器が合っていないのか、僕はどうにも気持ちが悪くなって楽屋に戻ると補聴器を外した。演奏はうまくいった。客席にまばらに座っていた観客たちにも受け入れられたという感触があった。一つ、自信になった。
コンコン、とドアを叩く音が聞こえた。僕はすぐに返事をした。来訪者はクリスティーヌだった。
「ソウ、ステージに来て。杮落としの記念に今日の関係者全員で写真撮影するみたい」
吹っ切れた様子のクリスティーヌを見て、僕の胸の内が温かくなった気がした。わかったと答えると、僕はすぐに楽屋を出た。
「ソウ……補聴器はつけなくていいの?」
僕は首を傾げた。
「聞こえてる? 何か書くものを――」
「いや、書くものはいらないよクリスティーヌ。……聞こえてるよ」「嘘……」
信じられない、というように何度も首を横に振りながらクリスティーヌは僕に近づいた。目を潤ませながら彼女は両手で僕の頬を包んだ。シャンプーの良い匂いが僕を心地よくさせる。
「よかった……」
クリスティーヌのスカイブルーの瞳が霞んでいく。僕はそっと彼女の肩に手を載せた。
「泣いちゃだめだ。今から写真撮影なんだから。このホールの始まりの日に涙はいらないだろ。それに僕は、君の笑った顔のほうが好きだ」
「そうね」クリスティーヌは指先で丁寧に涙を拭いながら言った。「早く行きましょう。遅れてるのは私たちだけだわ」
僕たちは舞台袖からステージに出ると、すでに百名以上の関係者らが集まってできた輪の端に立った。中央には古都フィルに囲まれた伸也さんが、古都フィルの後ろには事務員たち関係者らが、そしてその輪の端に僕とクリスティーヌが立っている。伸也さんは全員が揃ったことを確認すると、パイプオルガンがきちんと入るようにカメラマンに画角の指示を出した。
画角が決まり、カメラマンがカメラを構えた時、ふと耳元でクリスティーヌが囁いた。
「言ったでしょう? ソウは私がステージに引きずってでも上がらせるって。今日がその日よ」
たしかにそんなことを言われたことがあった。まさか本当にステージ上に戻る日が来るなんて。当時は夢にも思わなかった。
僕はクリスティーヌのほうに顔を捻った。そして名前を呼んだ。
「愛してるよ」
「あら? 私もよ」
カメラマンがシャッターを切った。同じ写真を五枚撮り、輪は解けていった。クリスティーヌと目を合わせると、軽く口づけをした。
楽屋に戻ろうとしたところを伸也さんに呼び止められ、パイプオルガンを背に何枚か写真を撮った。クリスティーヌと同様に補聴器をつけていないことを訝られたけれど、今は耳の調子が良いことを話すとひどく喜んでくれた。
「まさに新たな一歩を踏み出したんや。ええこっちゃ」
「新たな一歩なんてそんなええもんじゃないですよ。僕の耳は治りません。たまたま今日に限ってすこぶる調子が良いんですよ」
「今日に限ってっていうのが大事なんや。作曲家としても指揮者としてもデビューの日に耳の調子がええなんて縁起がええやないか」
僕が納得すると伸也さんは鼻歌を歌いながら他の関係者に声を掛けに行った。伸也さんが歌っていたのは『聖人』の第一楽章だった。どうやら気に入ってくれたようだ。
さて、と楽屋に戻ろうとしたところ客席で父親と話をするクリスティーヌの姿が見えた。彼女の金髪は照明が半灯状態の客席でもよく目立つ。ヴァイオリンの指導だろうかと思ったのだが、彼女の表情は明るいように感じた。父娘のほうをぼんやり眺めていると、クリスティーヌの父親と目が合った。僕はどきりとしたけれど、クリスティーヌの父親は愛想の良い笑顔を浮かべて僕に会釈した。僕は慌てて彼に倣った。クリスティーヌが僕のほうを見て嬉しそうに笑っているから、僕とのことについて父親に話しているのかもしれない。
挨拶に行こうかと思ったけれど、滅多にないであろうロベーヌ家の親子水入らずの時間を邪魔するのは億劫だった。きちんと挨拶をするのはコンサートが終わってからでも遅くはない。そう思い、舞台袖へと足を向けた時、ステージのすぐ下で仁王立ちしている大男の姿を捉えた。
いつからそこに立っていたのか。マキシムはじっと動かずに僕を見上げている。何を言われるのかと些かの怯えはあったものの、お客様を無下にはできず僕はステージから客席へと降りた。
「もう元気そうだね」
マキシムの姿を見て僕は言った。最も重症だった腕もすでにギプスが取れており、リハビリの成果もあってか歩くのも問題なさそうだ。
「生活する分は支障がない」
「ピアノは……?」
マキシムは僕の倍以上ある大きな手を握って開いた。それを二度繰り返した。
「腱をやられてる。まだしばらくは弾けない。だが待っていろアコウ。俺はおまえとは違う。必ず這い上がってみせる」
口調は厳しいものがあったけれどマキシムの表情は穏やかだった。僕はマキシムというピアニストの一日も早い回復を願って静かに頷いた。
「どうだった、交響曲は?」
恐る恐る僕は訊いた。僕は、彼のほうから交響曲の話題を口にするのを躊躇っているように感じたのだ。それが交響曲の出来に不満があるからなのか、むしろその逆なのか、マキシムの表情からは読み取れなかった。
「驚いたよ。まさかアコウがこんな大曲を書き上げるとは」
僕は素直に喜んだ。マキシムの口から他人を肯定するような言葉が出るのは貴重だ。彼は思ってもいないことをわざわざ気を遣って口に出すような男じゃない。殊僕に関しては。
だが、とマキシムが続けたのにはぞくりとした。僕は彼の口から飛び出る文句に対して身構えた。
「ピアニストとしての誇りがまだあるなら、交響曲ではなくピアノ協奏曲を書くべきだった。俺ならそうした」
僕は頭をぼりぼり掻いた。
「今度は協奏曲を書くよ。その時は、マキシムがピアノを引き受けてくれるんだな?」
「ふん、調子に乗るなよ。だがまあ、考えておいてやる」
そう言うとマキシムは背を向けてホワイエに繋がるドアへと歩いて行った。僕はその背中に、素直じゃないなあ、と日本語で言った。
楽屋に戻った僕はまず水分補給をして時刻を確認した。午後二時三十分から始まったゲネプロは五時に終了し、その後の写真撮影などもあってすでに午後五時四十分を回っている。開場して観客がホールに入り出すまで残り十五分ほどしかなかった。
ひとまず燕尾服を脱ぎ、テーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。いくつか通知があったので確認すると、いずれも静香からだった。三度の着信の後、メールが届いていた。メールを開くと、十八時半まではホールに入らず楽屋口付近にいるので時間があれば外に出てきてほしいということが記されていた。
僕は慌てて楽屋を出、楽屋口からホールの外へと出た。外はすでに陽が暮れかけており、空には月が目立ち始めていた。薄暗い周囲を見回すと、静香だと思われる長い足のシルエットを見つけた。そして彼女の周りにはさらに人影が二つあった。僕は思わず口元を緩め、三人に駆け寄った。
僕の姿を認めた三人はそれぞれに明るい笑顔を浮かべた。僕が近寄ると知里はまっすぐ駆けて来て僕の腕にしがみついた。森沢は恥じらいがあるのか、ポケットに手を突っ込んだまま僕を待っている。
「ついさっきまでリハーサルやってて、メールも電話も今気づいたんです」
そう言って頭を下げると、静香は「忙しいのにごめんね」と生徒の前にも関わらず敬語を使わなかった。そういえば、と思い当たり、僕は頭を下げた。
「卒業式、行けんくてごめん」
卒業式にはぜひとも参列したかったのだが、今日のための稽古がどうしても外せず、祝電を送ることしか叶わなかったのだ。
「いいよ、先生には先生の事情があったんやろうし」
森沢が言った。彼に目礼した時、森沢と知里の私服姿を見て新鮮味を感じた。二人とは学校でしか関わりがなかったため制服以外の格好を見るのは初めてだ。知里は、少し化粧をしているだろうか。じっと知里を見つめていると、何ですか、と恥ずかしそうに知里は言った。
「でもすごいね」静香が言った。「音楽家って感じ。奏介君ってやっぱり私たちにとっては音楽の先生っていうイメージが定着してるから、こんないいシャツ着てこんな立派な建物から当たり前に出てきて、この後二千人近いお客さんの前で指揮するって思うと……すごい人なんだなって」
静香はそう口にしてから、僕が補聴器をつけていないことに気づいた。慌てて会話帳を取り出そうとする静香を僕は手で制し、耳の調子が良いことを話した。
その後で、僕は話題を戻した。
「すごいかどうかはわからんけど……」
「先生はすごいよ」言ったのは森沢だ。僕のほうをじっと見て「先生はすごい」ともう一度言った。
森沢の家庭の事情を知り、約一年前の様相を知っているからこそ、彼の成長を見てその成長のための一部に携われたと思うと、森沢の言葉が重く僕の中に沈んでいく。
三人から卒業間際の話を聞き、僕は稽古の話などをしているとすぐに時間が過ぎてしまった。僕は時刻を確認し、そろそろ入場しなくてはならないと三人を促した。楽しみにしていると言い残しホールに向かおうとする中、知里だけがその場を離れようとしなかった。
「紀乃さん?」と静香が声を掛ける。
しかし知里は、静香の声が聞こえていないかのように「先生」と僕に向かって言った。「私、音大に行こうと思うんです。ピアニストになろうとか、そういうのは考えてないけど、高校の三年間でたくさん練習をして、音大を目指そうと思います」
そんなことを考えていたとは、僕は知里の音大を目指すという発言に大きな衝撃を受けた。もしかしたら、あの時カノンではなく愛の挨拶を弾いたのはすでに三年後を見据えた練習の成果を見せるためだったのかもしれない。
「だから、時々ピアノを教えてくれませんか?」
「もちろんや」
僕は微笑み、知里の肩をぽんぽんと叩いた。
「さあ、急がなコンサート始まってしまうで」
頷くと、知里は静香と森沢の元に小走りで駆け寄った。僕は三人がロビーへと入るのを確認してから楽屋へと戻った。
第二部の開始五分前を告げるチャイムが客席に、そして僕が控えるアーティストラウンジに鳴り響いた。第一部の様子はモニターで確認していたけれど、客席は満席だ。当然、人数の違いからゲネプロの時とはホール内の熱気はまるで違う。記念すべきこのステージで、僕はその熱気に呑み込まれずにいられるだろうか。
肩が強張っているのが自分でもわかる。まだ冷静さは保っているようでひとまず安心した。ラウンジのテーブルに置いていた楽譜とタクトを手に取った時、がしっと肩を掴まれた。強張っていた肩はそれ以上力が入らないらしく巨大な岩のようにちっとも動かなかった。僕の心だけがどきりとした。
振り返ると伸也さんがいて、しかし心配そうな顔色は浮かべていなかった。僕と目が合うと、僕の肩を掴んだままの両手で肩を揉み解してくれた。三十秒ほど僕の肩を揉むと、伸也さんは黙って頷き、どこかへ行ってしまった。僕は焦点が合わないぼやけた視界を宙に向け、一つ深呼吸をした。
二階に移動すると、僕はちらりと客席の様子を窺った。すでにほとんどの観客が席に着いている。まだ手元のスマートフォンやパンフレットに視線が落ちているけれど、オーケストラがステージに現れれば観客たちの視線はステージを捉えてじっと動かなくなるのだ。中には挑戦的な目で演奏の品定めをする者もいるだろう。そう思うと、数十分もの間客席に背を向けているのが恐ろしく感じた。こんな緊張は僕がまだピアノを弾いていた時には感じたことがない。
あれこれ考えていると、古都フィルの奏者とクリスティーヌがステージに姿を見せた。客席は照明が落とされているが、オーケストラを迎える拍手を打つ手がくっきりと見える。
始まってしまう、ステージに立てるような顔色ではないのではないか、そんな僕の不安はよそに、係員はドアを開けた。
その瞬間、ステージ下手側の客席から一層大きな拍手が起こった。それが伝染するようにして中央の、そして上手側の客席まで拍手は広がった。僕は静まらぬ興奮と鳥肌を、唾を呑み込んで鎮めようとした。が、だめだった。鳥肌は収まらず、興奮はむしろ僕の体温を上昇させる。螺旋階段を下りる一歩一歩が、僕の内側から緊張を消し去っていくようだった。
そうだ――ステージの上は、こんなだった。ピアニストの時だって、僕はいつも一身に拍手喝采を受けていた。聴衆の歓迎はいつだって温かく、期待は僕の力を引き出してくれる。ああ、僕を照らす照明が眩しい。前が見えない。
螺旋階段を下り切り、鳴り止まぬ拍手の中を進む。指揮台の前で立ち止り、コンサートマスターのクリスティーヌと握手を交わす。客席に向かって立つと、やや照明が絞られた。白む視界の中で、下手側から順に視線を向ける。再び、満員の観客に包まれていることを認識すると、下手側ボックス席に聡志とその両親の姿を見つけた。彼らと同じボックス内にいるのは僕の両親だ。いずれも僕が招待したのだ。そのまま視線を動かすと、上手側ボックス席に静香と森沢、そして知里の姿を見つけた。
ホール内を見渡した僕は首を捻ってオーケストラに合図を出し、客席にお辞儀をした。そして拍手はまた一段と大きくなる。顔を上げると、僕はすぐに指揮台に上り、楽譜を準備した。
ページを繰ると、第一楽章と書かれた余白部分に「大丈夫。きっと成功する。」という文章を見つけた。
あの時の、静香の言葉だ。本番直前、いや、演奏直前の予期せぬ激励に僕は目が潤みそうになった。今日まで気がつかなかったのは、稽古では原本ではなく皆と同じ楽譜を使っていたからだ。この一文を見ただけで、本番に原本を持参してよかった、と心底思った。
そしてその一文は僕の中で、良いスイッチを押してくれた。すうー、と息を吸い、クリスティーヌとばっちり目が合うと、僕はタクトを構えた。
僕の指揮に合わせて、金管楽器の重低音が鳴り出した。耳は、聴こえている。
赤穂奏介 交響曲第一番『聖人』
ホルン、トロンボーンの背を追うようにティンパニーが音を刻む。オーケストラ第二の指揮者と呼ばれるティンパニーのリズムに合わせて、第一ヴァイオリンが揃って和音を鳴らす。そこから第二ヴァイオリン、チェロにコントラバスと管弦楽器が加わり、さらに木管楽器が合流して力強い音が生まれていく。
クリスティーヌを中心に、ここから一気に最高潮へと向かう。体の内側が熱い。こんな感覚は初めてだ。しかし体全体は軽く、力感なくタクトが振れている。奏者たちの表情がよく見える。僕の求める音を手繰り寄せるように体を左に捻った時、僕のすぐ脇で演奏するコンサートマスターと目が合った。今は難解なフレーズを弾いているはずだが、ヴァイオリニストの表情は和やかだ。一歩引いてオケを見ると、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリンが踊るように弓を動かしている。ヴィオラの旋律が第一ヴァイオリンと重なり、音に奥行きも出ている。
間違いなく、亜希の健気さが表現されている。明るく、そして芯の強い女性。それは病気を患う前も患った後も変わらなかった。むしろ人前で肩を落としたのは彼女以外のすべての人間だった。それは余命宣告を受けた時も同じで、常人では受け入れ難い現実を彼女は笑って受け止めたのだ。真夜中に涙が溢れたかもしれない、心が空っぽになりかけたかもしれない。しかし陽が登ると、彼女は普段と変わらず笑った。それは無理をして顔面に貼り付けた笑みなどではなく、心の底から溢れ出る温かさに裏打ちされた健気なものだった。
なぜそんなふうに笑えるのか。僕にはまるでわからなかった。だが今ならわかる。亜希は残された時間をよく理解して、だったら流れゆく刹那刹那を全力で楽しもうとしたのだ。それは現実逃避などでは決してなく、激しい葛藤の末に出した極めて現実的な結論だったのだ。
何と強い女性か――曲のテンポが上がり、第二ヴァイオリンの存在感が増す。今まで後ろで支え続けてきた音が、端々で前面に出始める。そこに第一ヴァイオリンの主旋律が重なり、しかし音の粒子は喧嘩することなくお互いに融和し合って伸びていく。さらに管弦、金管、木管それぞれの音が三重の輪を生み出すように僕はタクトを振るう。激しさの増す第二ヴァイオリン、力強くも優美な音を奏でる第一ヴァイオリン、それらが生み出す音は、聖人というタイトルにふさわしい雄大な心の広さを見事に表現した。展開していた主題が、再び元の形で戻ってきたのだ。
第一楽章が終わった。シャツの中はすでに汗でぐっしょり濡れている。僕はさっと額の汗を拭うと、すぐに第二楽章に入った。第一楽章では出番のなかった雅楽奏者らの顔に緊張の色が滲む。僕は、すかさず視線を送り、柔らかく目で頷く。
第一楽章とは打って変わって暗い旋律である。命の儚さ、しかし死の間際の人間の底力、コントラバスとチェロにフルートとピッコロが重なり、明暗の均衡を保つ。さらに第一ヴァイオリンの主旋律が徐々に存在感を見せ始め、部分部分で力強い和音が目立つ。その後で、雅楽のソロ演奏である。
西洋の文化であるクラシック音楽の中に日本の伝統文化が存在感を示す。それは若くしてその実力を世界に認められた亜希の人生そのもののような気がした。西洋クラシックとは正反対と言っても過言ではない雅楽の音色がたゆたい、ホール全体にうっとりとした空気が作られた。
雅楽の上にフルートによる主旋律、さらにオーボエとヴィオラが加わる。西洋と日本の音が徐々に融合していく。しかしその音は、完璧に噛み合っているとはとても思えず、この先の展開にどことなく不安を与える。しかしそれでいいのだ。ここでのテーマは将来への不安である。
若くして才を認められた亜希に将来の不安などなかっただろう。しかし突然告げられた命のタイムリミット、不安を通り越す不安だ。そんな中自分に何ができるのかを考え、彼女は死の間際に一度だけ復活を果たした。もしも僕が亜希なら、死ぬその瞬間まで生きる望みを見出せず、ベッドの上で蹲っていただろう。
しかし第三楽章に入ると、そんな不安を拭うため、窮屈な世界を笑い飛ばすために速いテンポで曲が進行していく。まるで考える暇を与えんとするように、今は生きろと神に告げられているかのように。
駆け抜けるような曲が一度音を消し、続いて流れ出す音が静かなのは沸々と体の中で湧き上がってくるものがあるからだ。僕は腰の高さにタクトを据え、細かく振る。そして四小節の後、僕はタクトを大きく振った。第一第二ヴァイオリン、チューバ、トランペットによる和音。主旋律を展開し、やがて元の静かな音に戻る。
決意が固まったのだ。そしてその決意を浄化していくように、静かで叙情的な調べが流れる。瞑想をして集中力を高めるように、音の粒子たちはそれぞれの中で音の密度を高めていく。
穏やかなままフェードアウトし、第一ヴァイオリンによる迫力ある一音で第四楽章が幕を開ける。今まで抑えていた感情を爆発させるように、速いテンポで華やかな音楽を形成する。我々は、苦難と向き合う覚悟をしたのだ。晩年になってようやく評価されたハイドン、生涯教会という籠に入っていたバッハ、若くして倒れたモーツァルト、そして――僕と同じく難聴を患ったベートーヴェン、いかなる大家も苦難の壁と戦い続けたのだ。苦難あっての人生である。それは病気か、怪我か、貧困か、それとも早過ぎる死か、いずれにせよ、苦難から逃れることはできないのである。ならばいじけていても仕方がない。運命を甘受せよ、瞼を伏せるな、障壁あってこその人生である。負い目を感じることはない、苦難と向き合う覚悟さえ決まれば、どこまでも行ける。
力強い演奏は、やがて歓喜へと変わる。苦しみから逃れたのではない。苦難と向き合うことを決意した今、目の前には無限の人生が広がっているのだ。どこまでも続く、宇宙の如く。
目覚めた聖人は、自然な形で主題を変奏させる。第四楽章冒頭で流れた主題と限りなく似ている、しかし確かに違う旋律。第二ヴァイオリンによる副題が絡み合い、オーケストラは一段と調子を上げる。
ああ、終わってしまう――。今夜の演奏は最高だった。頭を上下に、腕は孔雀が羽を広げるように、上半身は筋肉全身を使って縦横無尽に振りながら、しかし足はがっしりと指揮台を掴んでいる。
顎から首筋に滴る汗でふと我に返った。音がまとまっていく。終幕に向けて一つになろうとしている。よく見ると、奏者たちも僕と同じように汗だくだった。それはクリスティーヌも例外ではない。それなのに、彼女は僕の指揮を涼しい顔をして見上げている。目が合うと、彼女は微笑んだ。僕は泣いてしまいそうだった。タクトを握る手に力が入る。これで終わりだ。渾身の力でタクトを振り上げた。同時に、一斉にオーケストラが鳴り止んだ。
が、拍手がない。ブラボーもない。ゲネプロでは成功したのに、本番では失敗していたのか? ウィーンでの悪夢が蘇る。また同じ思いをするのか……。
振り返るのが怖かった。しかしオーケストラはすでに立ち上がっている。僕も、指揮台を下りなければ――。
振り返ると、満員の観客は立ち上がって拍手を送っていた。中には、パンフレットを高く掲げて何やら叫んでいる人もいた。僕は思わず目を見開いた。永遠に、ここにいたいと思った。
ふらふらの足で指揮台を下り、コンサートマスターと軽い抱擁を交わした後、オーケストラに僕から賛辞を送った。その後で、僕は両手を広げて客席にお辞儀をした。顔を上げてからも、僕はしばらく虚空を見つめていた。
ずいぶんと長い間拍手は絶えなかった。しかしいつまで待っても、僕がその拍手を耳にすることはなかった。
FIN!
最後までご覧いただきありがとうございました。これからもっと面白い作品が書けるよう頑張ります!
次の作品をお楽しみに~
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?