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連載長編小説『楽聖』第二楽章4


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 合唱コンクールの指揮、伴奏が決定して一週間が経ち、午後の授業が廃止された。廃止といっても一時的なもので、合唱コンクールを終えれば午後の授業は再開される。生徒にしてみれば午後の授業がないのは喜ばしいことかもしれないが、急激な時間割の変更に僕はあたふたしていた。うっかり普段通り過ごしていると、いつのまにか生徒が音楽室に集合しているのだ。授業が始まってしばらくしてから僕が顔を出すと、怪訝そうに首を傾げていた。
 練習方法は各クラスに委ねられているため、今も何通りもの練習を耳で覗くことができた。ソプラノ、アルト、バス、男声にわかれて練習しているクラス。さっそく合唱に取り組むクラス。聞こえてくる歌はどれも下手くそだった。特に男声は音がこもる上に僕のいる場所との距離があるせいで非常に目立った。
 夏休み前にクラスごとの課題曲が決定していたこともあり、二学期に入ってからは音楽の授業で合唱コンクールのクラス課題曲を歌わせ、指導してきた。そのため本番に向けたクラス練習はスムーズに始動するだろうと考えていたのだが、どこのクラスも苦戦しているようだ。音楽に無知な担任教諭がでたらめな指摘をしている様子を想像した。
 あまり気は乗らないが、僕は腰を上げた。音楽室を出て一年生のクラスルームの前を素通りする。もちろん横目で練習の様子を確認しながらだ。そして階段を下り、今度は二年生のクラスルームの前を通った。また階段を下り、最後に三年生の様子を見て音楽室に戻った。
 いくつかのクラスで、やはり僕が想像したように担任教諭が何やら指摘をしていた。ちらっと聞こえた指摘は、もっともらしく言われているがでたらめだった。
 そんなことはどうでもよかった。僕が気になったのは森沢だ。彼は指揮者としてクラスをまとめることができているのか。が、堀江学級の前を通った時、まだ合唱練習は行われていなかった。堀江先生が教室前方のテレビの前に座り、パソコンを使って課題曲を流していた。それを生徒たちは座席で大人しく聴いていた。他のクラスは早速意気込んで練習を始める中、焦らず落ち着いて曲に馴染もうとする堀江先生に感心した。妙な噂があるせいで、あまり彼女に目をやれなかったが。廊下を歩く僕を見て、含みのある笑みを浮かべる生徒が何人もいたのだ。
 三十分ほど間を空けて、僕は再び巡回に向かった。どのクラスも、やる気のある生徒と気怠そうな生徒の半々だった。すべてのクラスに共通して言えるのは、一番張り切っているのは担任教諭という点だった。主役は生徒であり、ステージに立つのは担任教諭ではないのに、負けん気を前面に押し出している姿はどこか滑稽だった。
 三年生の階まで下り、教室の前を通り抜けるのは億劫だったが僕は進んだ。
 堀江学級では各パートに分かれて練習しているようだった。きっちりと管理された練習計画が黒板に書かれている。黒板によると、まもなくパートごとの練習は終わりらしい。次の練習は、男声は引き続きパート練習を、女声はソプラノとアルトを混声するようだ。森沢の姿は男声パートの中にあったが、何か指示を出しているようではなかった。彼の代わりにクラスメイトの前に立っているのはピアノ伴奏を務める知里だった。思えば厳しい吹奏楽部で二年半を過ごしたのだ。念願の府大会金賞を獲得した知里なら、これくらいの練習計画は立てて然るべきものだった。
 堀江学級を通り過ぎたところで、教室から生徒が出てくるのがわかった。振り返ると、肩を落とした森沢が立っていた。
「どうした? 練習中やろ?」僕は歩み寄り、訊いた。
 森沢は答えようとしない。僕がここへ来た直後の森沢に戻ったかのようだった。クリスティーヌのコンサートに行った後、森沢が塞ぎ込むのは初めてだった。
「指揮者がおらんと、合唱は成り立たへん。戻らんと」
 森沢が委縮しないよう、僕は努めて柔らかい口調で諭した。
「……成り立ちますよ」
「え、どういうこと?」
 森沢はちらっと教室に視線をやった後、僕の顔を窺い見た。
「俺が何を言っても……あいつらは、聞こえないふりを……する、んです。頑張ろう、って声を掛けたけど……誰も、返事をしない」
 僕は鼻から長い息を吐き出しながら両手を腰にやった。教室後方でパート練習をしている男子生徒の集団を僕は睨みつけた。森沢が出て行ったことに気づいているはずなのに、誰も彼に見向きもしない。クリスティーヌのコンサートの後、森沢の中で何かが変わったけれど、学校での生活は何一つ変わっていないのだ。今もまだ、孤独と卑劣な扱いに苦しんでいる。
「それで森沢君が折れたら、それこそ負けや。全体で歌うことになったらみんな森沢君のほうを見る。だから今は我慢や。我慢強く、真摯に指揮に向き合ってたら必ず人はついてくる。気づけば森沢君の支配する空間になってるから」
 首を小さく縦に動かした森沢の頭を僕は撫でた。その時教室前方のドアが開いた。出てきたのは知里だった。
「先生、ちょっとアドバイスしてください」
 森沢と話をしているほんのわずかな間にソプラノとアルトによる混声練習が始まっていた。知里の指示でキビキビ動いているのだろう。素晴らしい統率力だ。教室の中央は女子生徒によって占領され、男子生徒は端に追いやられていた。
「行くけど、ちょっと待って」
 知里は頷き、踵を返した。
「今日この後、音楽室に来たらいい。話したいことがあれば、何でも聞くから」
 僕は知里に続いて教室に入った。その瞬間、室内の全員の視線が交錯して見えた。ある者は僕を見、ある者は堀江先生を見、僕から堀江先生へ、あるいは堀江先生から僕へと好奇な視線は向けられていた。

 翌日、僕は昨日と同じように各階を歩いて回った。昨日はほとんど声を掛けられなかったのだが、今日は次から次へと教室に引っ張り込まれた。今日も練習を見に行くと知里と約束していたのだが、あまりにも多忙で、僕が堀江学級に出向いた時にはすでに全体での合唱練習が始まっていた。
 が、僕が最初に耳にしたのは混声三部による見事なアンサンブルではなく、「何でそんなこと言うの」という知里の声だった。
「何があった?」
 教室前方のドアを開けながら僕は言った。机はすべて教室の後ろに移動させてあり、広くなった中央に左からソプラノ、アルト、男声という順に並んでいる。指揮者である森沢とピアノ伴奏の知里は教室前方の教壇に立っていた。室内を見回したが、堀江先生の姿がなかった。
「堀江先生は?」
 僕が彼女のことを訊いたからだろうか、生徒の輪の中でからかうような微笑があった。僕は彼らの笑いを無視して、教壇に立つ知里の横に立った。
「さっき職員室に行きました。すぐに戻るらしいです」
「そうか。それで、これは?」
 知里は立ち並んだクラスメイトのほうを睨みつけた。特に、男子生徒の並ぶ右側を見ているような気がした。
「森沢君が練習をしようって言ったら、おまえが指図すんなって……。おまえは俺たちよりも下等な人間なんだって……」
 男子生徒を睨む知里の目は醜い怪物を見ているようだった。ただ怒っているのではなく、憎悪の混じったものだ。これまでの森沢に対するいじめもあって、男子生徒の発言を彼女の正義感が見逃すことを許さなかったのだろう。
 昨日の放課後を思い出す。森沢が音楽室にやって来た時のことだ。彼が姿を見せてすぐに、知里も姿を見せた。
「どうした?」
 知里が音楽室に来るのは珍しいことでもないから、偶然鉢合わせになったのだろう。僕はそう思ったのだが、じつは違った。
「先生が森沢君に話したいことがあれば何でも聞くって言ってたから」
「聞いてたのか?」
「聞こえたんです」
 知里の来訪は予想外で困ったが、森沢はそうでもないらしかった。むしろ彼女を見て胸を撫で下ろした様子だ。知里が、森沢の受けるいじめに反感を抱いていると言っていたのを覚えているのだろう。
 知里がいるせいか、森沢は何も話そうとはしなかった。
「明日はパート練習の後、全体で合唱する予定です」森沢の代わりに知里が言った。「明日も来てくださいね」
「森沢君、紀乃さんは味方やから、何でも相談したらいい。きっと力になってくれる」
 ややあって、森沢は頷いた。
 森沢が指揮者に立候補したこと、それを僕が提案したこと、二人でいじめに対する復讐を果たそうとしていること、それらを知里には打ち明けたほうがいいと僕は思った。彼女は元々森沢の味方であり、合唱においてもピアノ伴奏という独立した存在なのだ。彼女に事情を知ってもらっておけば、僕が他クラスの練習を見ている時でも森沢の力になってくれるはずだと考えた。
「そうやったんや……」
 話し終えると、知里は首を上下に動かしながら言った。
「紀乃さんに負担を掛けるつもりはないけど、とりあえず心に留めといてほしい」
「協力します。森沢君が受けてきたいじめは理不尽で卑劣やったから、その仕返しに携われるなら喜んで」
 僕は森沢に視線をやった。彼はぎこちなく笑ったので、僕は頷き掛けた。
「復讐、仕返しと言っても暴力的なことをするわけじゃない。森沢君が指揮台に立ち、クラスメイトを指揮することで精神的に服従させる。そして合唱コンで結果が出れば、森沢君の立場はがらっと変わる。目的はいじめからの解放。暴力行為は厳禁だと、固く誓ってくれ」
 知里はそれを認めた。
 それもあって、知里は早とちりしたのだ。たしかに彼らの発言はどう考えてもおかしい。知里が是で男子生徒は非だ。しかし状況によって冷静な判断を下さなければ取り返しのつかないことになる。知里とクラスメイトの関係性が悪化することがあってはならない。
 男子生徒の一人が、うるせえな、と言った。彼がリーダー格なのだろう。大柄で力はありそうだ。彼に続いて金魚の糞たちが、黙れ、などと暴言を吐いてくる。知里はその場を動かないが、表情は険しいものだった。
 僕は力いっぱい柏を打った。それで尖った言葉の波は途切れた。僕は今、教育者なのだ。客観的に見た間違いは正さなくてはならない。
「俺たちより下等な人間っていうのは、どういうことや?」普段よりも一層低い声が出た。意識してのことではないが、威圧感はあったように思う。「言うてみい!」
 誰も答えないので一喝すると、ほとんどの生徒が体を強張らせた。その中で、リーダー格の男子生徒は挑むような目を僕に向けた。
「先生後からここに来たから知らんのやろ、森沢の家のこと」
「事情なら知ってる。知ってるけど、森沢がみんなより下等なんてことは一つもない。それよりも、森沢の苦しみを理解せずに思いやりのない言葉を投げかける自分らのほうがよっぽど下等な人間と違うか? どうやねん」
 男子生徒は不貞腐れて、ふん、と鼻を鳴らしたが僕にはそれが虚しく見えた。どうしてこんな中身のない人間に森沢は苦しめられなければならないのか。
「そうやわ、言い過ぎやわ。謝りいな」
ソプラノに属する女子生徒が言った。男子生徒からは少し離れているからか強気な口調だ。
 いいよ、とか細い声がした。口を開いたのは森沢だった。「謝らんで、いい……よ」
「今日は合唱練習中止。各パートに分かれてそれぞれ練習」
 今の状態で声を合わせるのは無理だと判断したのだろう。知里が大きな声で言った。女子生徒の中には元々不満を持つ者がいたのだろう、男子生徒のほうに敵意の滲んだ視線を向けていた。男子生徒のほうからは何回か舌打ちが聞こえてきた。彼らはきっと真面目に練習をしない。
 僕は森沢の肩を揺らした。微笑むと、「えらいぞ」と言った。「よく頑張った。よく声を出したな」
 森沢は黙って頷くと、微かに笑みを浮かべた。
 ちょうどその時、堀江先生が戻ってきた。「あら、全体での練習は?」と訊く声にはあまりに緊張感がなく、僕は膝から崩れ落ちそうになった。


5へと続く……

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