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黄金の歌乙女

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#サスペンス

【最終回】連載長編小説『黄金の歌乙女』16

【最終回】連載長編小説『黄金の歌乙女』16

 

        16

 

 目の前に、捕らえられたポリオーネがいる。ポリオーネとの子供を殺して自らも死のうとしたノルマだが、愛する子供を殺すことはできず、ドルイッド族の巫女長としてローマ人との戦いを宣言した。そしてガリア地方のローマ人代官ポリオーネが捕らえられたのだ。
 しかしノルマはポリオーネを殺せない。憎悪と嫉妬、そして恋心が胸にひしめき合い、決心がつかないのだ。ノルマは、アダルジー

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連載長編小説『黄金の歌乙女』15

連載長編小説『黄金の歌乙女』15

 
        15
 
 圧巻の三重唱。これが二人の寄宿生と無名のテノールによるものなのかと疑いたくなるほどに素晴らしい。アダルジーザが登場した時、愛梨はこんなに歌えたのかと驚愕させられたものだが、一幕最後の三重唱では驚愕を超え、衝撃を与えるほど白熱した歌声を披露した。志帆と渡り合う、そういった意気込みが声に滲み出ていた。
 しかし志帆はさすがだ。ノルマの憤激の歌声が、アダルジーザを、そして

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連載長編小説『黄金の歌乙女』14

連載長編小説『黄金の歌乙女』14

 
        14
 
 劇的な展開を匂わせるオーケストレーションで『ノルマ』序曲は始まる。幕はまだ下りたままだ。しかし激情的な、しかし叙情性を感じさせる美しい旋律は歌手に厳かな緊張感を持たせる。幕が上がって始まる儀式が本当に執り行われるような。
 序曲は一旦落ち着く。観客を圧倒するかのような壮大で激しい旋律が、少女の無垢な神聖さを表すような、愛撫のような音色に変わる。そこで幕が上がった。

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連載長編小説『黄金の歌乙女』12-4

連載長編小説『黄金の歌乙女』12-4

 水を一口飲んだ。神聖な森のセットが組まれた舞台は大きく分けて三方から照明に照らされている。今影を作っているのは歌手ではなく、さっきまで客席で稽古を見つめていた演出家や美術係だ。稽古の様子を確認して、小道具等の配置を話し合っている。
 ビューネンプローベ初日は無事に終えた。立ち稽古と比べれば、喉を使う回数は圧倒的に少ない。初日は特に、舞台上での立ち位置や対人での動きの確認が主だった。これはいつもの

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連載長編小説『黄金の歌乙女』12-3

連載長編小説『黄金の歌乙女』12-3

 いざ告白しようとすると、胸が張り裂けそうなほどの緊張を感じた。沢木は自分を待ってくれている。それでも気持ちを伝えるというのは、決して簡単なことではなかった。結局志帆は、覚悟を決めるまでに一週間を要した。
 こんな想いに打ち勝って告白してくれたというのに、あたしは何て惨い仕打ちを……。
 沢木と結ばれた直後、クリスマスパーティーで彼から距離を置いた自分を愚かしく思った。彼の気持ちなど、あの時はまる

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連載長編小説『黄金の歌乙女』12-2

連載長編小説『黄金の歌乙女』12-2

 稽古が終わったのは午後一時を過ぎた頃だった。出演者やスタッフは皆腹を抱えるようにして食堂に向かったが、志帆はあまり食欲がなかった。エネルギーを消費していないわけではないのだが、何だか周囲よりも稽古に身が入っていないような気がしてしまう。
 午後からも稽古は続く。早くも本格的な立ち稽古になる。演技を交えて、場面ごとの出来栄えを向上させるのだ。体力の消費も激しくなる。食欲がなくても、しっかり食べてお

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連載長編小説『黄金の歌乙女』12-1

連載長編小説『黄金の歌乙女』12-1

 
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「短い期間でしたけど、楽しくお話ができてよかったです」
 志帆は寄宿舎を出ると言った。煌子はキャリーケースを引いていた。舗装されていない劇場の畔でそれはカタカタと音を立てている。
「あたしも楽しかった。同じ舞台に立てたら最高だったんだけど」煌子は軽やかに笑った。公演を終えて、ほっと一息吐いているのだろう。清々しい笑顔が、美貌を際立たせた。「でもいろいろ話ができたし、志

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連載長編小説『黄金の歌乙女』11-2

連載長編小説『黄金の歌乙女』11-2

 懐かしさを感じている余裕はなかった。胸には焦燥感だけが募っていた。ノックの後、ドアは開けられた。沢木は支配人室に入った。
「今日は観劇されないんですか?」
 そうだね、と貴島支配人は微笑み、頷いた。「今日は仕事の都合で開演に間に合わなかった。途中から劇場に行ってもいいが、劇を途中から観るのはあまり好きじゃない」
 同感だった。「俺もそうです」
 支配人は小さく頷いていた。
「それで、今日はどうし

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連載長編小説『黄金の歌乙女』11-1

連載長編小説『黄金の歌乙女』11-1

 
        11
 
 鞍馬山の雪化粧が、新年を祝福しているかのようだった。『カヴァレリア・ルスティカーナ』のチケットはほぼ完売のようだった。ほんの僅かだけ、残席がある。
 およそ一三○○人の観客の入場を沢木は屋上から眺めていた。曇天の下は底冷えだ。鞍馬は京都市最北部に位置していて、山の麓ということもあって京都市内よりも一段と寒い。吐き出す息は、雪だるまのように大きい。その息のせいで鞍馬街

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連載長編小説『黄金の歌乙女』10

連載長編小説『黄金の歌乙女』10

 
        10
 
 白味噌の雑煮を啜ると、年が明けたのだと実感する。毎年のことだ。しかし白味噌の中の丸餅に九条葱が降り掛けられたこの雑煮を食べられるのも、今年が最後だ。それを思うと、志帆は早くも名残惜しくなった。
 煌子さんみたいに、卒業した後も寄宿舎で新年を迎えることはあるやろか。このお雑煮を、誰かに囲まれて食べることはできるやろか。
 将来は、やはり不安しかない。志帆は自分の実力を

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連載長編小説『黄金の歌乙女』9-2

連載長編小説『黄金の歌乙女』9-2

 待ち続けるというのは、想像以上に苦しい時間だった。そこには希望も絶望も見えない。何もない、無の境地のようにも思われた。焦らされているようで落ち着かないが、むしろこの期間が永遠に終わらないのではないかという諦めに似た思いもあった。
 危うく発狂してしまいそうだった。
 志帆に二度目の告白をした翌々日の夜、沢木は夢の中で発狂した自分と一体になろうとしていた。しかし発狂した自分に触れた瞬間、現実に引き

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連載長編小説『黄金の歌乙女』9-1

連載長編小説『黄金の歌乙女』9-1

 
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 朝食の後、鞍馬街道を貴船口まで下った。そこから貴船神社へと向かった。貴船神社は水占いの御神籤が有名だが、沢木は御神籤を引かなかった。 昨夜のことを思うと、恋愛運で不吉な信託を受けるのは嫌だった。貴船神社をぐるりとした後は、ハイキングコースをたどって鞍馬山へと入った。奥の院の魔王殿を参拝し、それから木の根道を歩き、義経の背比べ石を撫でて鞍馬寺へと戻って来た。
 およそ四

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連載長編小説『黄金の歌乙女』8

連載長編小説『黄金の歌乙女』8

 
        8
 
 朝食を終えて部屋に戻ると、ノックがあった。
 御曹司だろうか。そう思うと、なぜか肩に力が入った。昨日沢木に刃物を向けていた姿が脳裏を過った。あれは、現実に起きていたものなのだろうか。
 志帆は慌ててかぶりを振った。
 現実だとしても、甲斐野充が言ったように、あれは七面鳥を切るために持参したナイフであり、護身用に携帯しているとか、誰かを傷つけるためといった、物騒なもので

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連載長編小説『黄金の歌乙女』7

連載長編小説『黄金の歌乙女』7

 
        7
 
 クリスマスなのに、閑静としている。まさに森閑という言葉がぴったりの鞍馬街道の中で、帝都歌劇場だけが異彩を放っていた。
 そもそもその存在すら異様なのだが、今日は垂れ幕が下がっていたり、出入り口に電飾付きのリースが飾られていて、クリスマスらしい赤と緑の旗が風にそよいでいた。その帝歌の入り口に、沢木は煌子を見つけた。
 沢木は思わず立ち止った。足音を殺すためだ。煌子は劇場

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