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連載長編小説『黄金の歌乙女』8

 
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 朝食を終えて部屋に戻ると、ノックがあった。
 御曹司だろうか。そう思うと、なぜか肩に力が入った。昨日沢木に刃物を向けていた姿が脳裏を過った。あれは、現実に起きていたものなのだろうか。
 志帆は慌ててかぶりを振った。
 現実だとしても、甲斐野充が言ったように、あれは七面鳥を切るために持参したナイフであり、護身用に携帯しているとか、誰かを傷つけるためといった、物騒なものではないはずだ。御曹司が、そんなことをするはずがない。
 志帆は返事をした。喉の調子は悪くないが、声が震えた。ドアを叩いたのが沢木ではないことは確かだった。彼には、彼だとわかるようノックの回数を指定していた。
 来客は、煌子だった。志帆は思わず安堵の笑みを広げ、そのせいで体中から力が抜けた。気が付くと、転んだようにベッドに横たわっていた。
「散歩に行かない?」
 煌子の誘いに、志帆は体を起こした。「お願いします」と立ち上がると、手早く支度を済ませた。
 寄宿舎を出た二人は、鞍馬街道が走る表側ではなく、鞍馬山の麓に当たる裏側を歩いた。そこをぐるりと歩き、一周すると寄宿舎に戻って来る。それから帝歌を一周し、また寄宿舎に戻って来るのだろう。
 志帆も時々、この道を散策する。山の麓を歩きながら、煌子は、志帆の今日の予定などを訊いて来た。煌子も自分の予定を話した。どうやら今日から『カヴァレリア・ルスティカーナ』の稽古は舞台に移るようだ。今日はオーケストラプローベが予定されており、明日明後日はオーケストラとは分離して、ビューネンプローベが行われる。その後は、ハウプトプローベまでの間、オーケストラプローベが実施されるそうだ。
 いよいよ本番まで一週間である。稽古の熱量も、ますます上がっていくだろう。『カルメン』の時はオーケストラプローベに入ると緊張が蘇ってきたが、『つばめ』の時はその緊張感を楽しむことができた。主役という重圧はあったが、不思議と委縮しないでいられた。
「昨日のことだけど」
 鞍馬山の麓を一周し、帝歌沿いを歩き始めたところで煌子は話題を変えた。志帆は昨日のどれのことかわからず、煌子の次の言葉を待った。
「遼一のこと」
「ああ……はい」
「御曹司の申し出に戸惑うのはわかる。でも遼一から距離を取ったのは、あれでよかったのかな?」
 志帆は足元の小石に躓いた。いつもなら苦笑いでも浮かべる状況なのに、表情筋は強張ってしまい、可動しなかった。志帆は首を傾げもせず、黙ったままだ。
 しかし煌子が気に掛けてくれているのに、黙殺することもできない。志帆は囁くほどの声で言った。
「わかりません……あたしには、何もわからないんです」
「自分の気持ちに、嘘は吐かないほうがいいよ。志帆言ってたでしょ? 好きな人との再会って素敵だって。今も遼一が好きだって。その気持ちが志帆でしょ?」
 志帆は頷いた。しかし甲斐野充との交際に魅力を感じるのも、やはり志帆自身なのだ。かつての恋仲である沢木との再会も、孤児である志帆を見出してくれる御曹司との恋愛も、幼い頃に抱いた夢なのだ。
 まさかその夢を、どちらか選べと突き付けられる日が来るなんて、思っても見なかった。それに御曹司との恋愛は、志帆の胸の中で今も煌めく夢を叶えるだけではない。
「あたし達のために一億円も出資してくださるなんて、恐れ多いことです。でも一億円の出資があれば、あたしだけじゃなくて、舞台に上がるみんなの衣装は豪華にできるし、セットや装置も大掛かりなものを作れます。あたしが甲斐野さんの申し出を受け入れたら、みんなはきっと喜んでくれます。みんなのためにも、甲斐野さんを敵に回すことはできません」
 それに、と何か言おうとした煌子を制し、志帆は続けた。
「お父さんが甲斐野さんとの結婚を望んでいるのなら、その願いを叶えてあげるのも一つの幸せなのかもしれないって考えてます」
 亡き父の話をしたからか、煌子は口を噤んだ。しかし十秒もしない内に意を決し、噤んでいた口を開いた。
「そこに志帆の幸せはあるの? 誰かの幸せのために自分を犠牲にして、それで志帆は幸せになれるの?」
「犠牲って……」志帆は苦笑した。「煌子さん、大袈裟ですよ」
 煌子はアーモンド型の目で志帆の目を覗き込んだ。くっきりと刻まれた二重瞼が、これは深刻な問題なんだと訴えて来るようだった。煌子は、ゆっくりと首を横に振った。二度三度と振られる華奢な首に、怒気が含まれているようだった。
「全然大袈裟じゃない。誰かのために自分を犠牲にして幸せになれるのは、自分が本当に愛せる相手である時だけ。それ以外は、献身とも呼べない。一億円は、志帆にとっては途轍もない金額かもしれない。でも卒業公演の一億円のためだけに志帆は御曹司と結婚をするの? 今は満足できるかもしれない。でも将来、志帆は幸せになってると思う? お父さんのために御曹司と結婚して、後悔しない自信はある? こんなことを言うのは酷だけど、御曹司と結婚した時、喜んでくれるお父さんはこの世界にはいないのよ」
 煌子さんは、どうしたって遼ちゃんの肩を持つんだ、と志帆は思い、俯いた。もちろん沢木と結ばれる運命も、志帆にとっては魅力的だった。だからこそ、こうして悩みに悩んでいるのだ。
「幸せになってると思います。甲斐野さんは優しいです。あたしを一番に考えてくれます。それに歌手としての活動にも協力的で、誰よりも応援してくれます。一人の女性としても、一人の歌手としても、きっとあたしは幸せになれます」
「遼一と結ばれた場合は?」
「幸せになってると思います」志帆は即答した。「それは間違いありません。遼ちゃんとは、どこにいても繋がっている気がするんです。きっと遼ちゃんは、どこに行ってもあたしを見守ってくれてる。それにあたし達はお互いの苦労も知ってるから、お互いを尊重し合える。いつか家庭を持ったら、きっと温かい場所になると思います」
「志帆にとって、魅力的なのはどっち?」
 志帆は黙り込んだ。選べないのだ。志帆が答えられないまま、劇場を一周して隣接された公園に入った。そこのベンチに、二人は並んで腰を下ろした。
「あたしはどうしても、御曹司との幸せには金の臭いがしてくるんだけど。本物の愛はそこにないと思う。それに昨日の彼、あたしには受け入れられなかった。志帆が求婚を断れば支援金はなしだなんて、如何にも金に物を言わせてるって感じ。昨日のあの一言に、御曹司の本性が出ていたわ。金持ちなんて、みんな同じなのよ。善良な心で近づいてくる人なんていない。欲に塗れてて、それを金か権力で解決するのよ」
「甲斐野さんも、そういう人だと思いますか?」
 煌子は頷いた。
「志帆はまだ何も知らない。だから御曹司に魅力を感じてしまうの。でも仕方がないわ。あたしも志帆くらいの時はそうだったから。パトロンみたいなお金を持っている人達の暮らしは、輝いて見えた。でもその輝きに目が眩むと、確実に後悔する」
 あたしは、と志帆は呟いた。「卒業公演で一億円の支援を受けて、黄金の歌乙女になりたいです」
 志帆は煌子の顔をまっすぐ見つめた。散歩を始めてから、志帆のほうから煌子の顔を覗き込むのはこれが初めてだった。煌子は志帆の想いを正面から受け止めてくれた。
 しかし煌子は、小さくかぶりを振った。微笑んだ口元は、悲しげに曲がっていた。
「黄金の歌乙女なんかにならなくても、志帆なら大丈夫。自分に嘘を吐いちゃだめ。自分を持って、自分らしく生きていきなさい。卒業公演も、志帆らしく歌えばそれでいい。志帆が黄金の歌乙女になる必要なんてない。あなたはとっくに、あたしの寄宿生時代を追い越してるんだから」
 志帆は、首を傾げた。しかし煌子の目から視線は外さなかった。なぜか煌子の瞳が泳いでいた。美しい微笑を帯びていた口元だが、鼻孔が僅かに震えている。そこに動揺が見て取れた。
「煌子さん……」
 何を言おうとしたわけでもなく、志帆は呟いた。煌子は遂に、視線を逸らした。志帆も煌子の横顔から視線を外した。
 二人の見つめる先に舗装された鞍馬街道に、車が現れて、停まった。下りて来たのは、甲斐野靖史と充父子だった。それを見て、煌子は立ち上がった。
「それじゃああたしは稽古の準備があるから。しっかり考えて、簡単に決心しちゃだめよ。忖度はいらない。あなたの人生なんだから」
 煌子は一足先に寄宿舎へと向かって歩き出した。長い足が、みるみる内に遠のいていった。その背中に、志帆は自分の運命を見た気がした。
 煌子が寄宿舎に入ったのを見届け、振り返ると、すでに甲斐野父子は志帆の側に来ていた。挨拶を交わすと、甲斐野充はジャケットの内ポケットから真っ白な封筒を取り出した。どうやらそれが、生前父から預けられた遺書のようだった。
 それを御曹司は、志帆に手渡した。表紙に書かれた「遺書」という筆跡は、亡き父のもので間違いなかった。志帆も自室に、父の遺書を持っている。表紙に書かれた文字はもちろん、中身に並ぶ達筆な文字は、間違いなく父の字だった。
 そしてそこには、昨夜御曹司が口にしたように、充が受け入れてくれるなら娘を妻に迎えてやってほしい、と書かれていた。
 志帆はますます迷うことになった。父の遺志が本物である以上、軽々しく退けるわけにもいかない。それにこれは、甲斐野充にとって大きなアドバンテージになる。
 しかし志帆の胸に、昨夜の御曹司の姿が引っ掛かった。煌子が指摘した、「志帆が結婚を断れば支援金はなし」と言い放った時のことだ。まるで値踏みされているような気が、今になってしてきた。それに刃物を他人に向けていた昨日の光景は、人間性を疑うものだったと、志帆は感じ始めていた。
 昨夜の一幕は志帆の心を決するのに重大なものだったのではないか。
「どうして父は、あたしを帝歌の寄宿舎に預けたんでしょう? 今のあたしからすれば、ヴァイオリニストの娘だった当時のあたしは、令嬢のようなものです。ならば父の死に際して、あたしを引き取ってくれる家に養女として入り、片瀬さんのように甲斐野家に嫁ぐための教育を受けさせればよかったのではないですか? あたしを甲斐野さんの許嫁にしてしまえばよかったのではないですか?」
「それもお父さんの意思ですよ」甲斐野靖史が答えた。「あなたにも音楽の道に立ってほしかったからです。ピアノやヴァイオリンを習わせるのも夢に見ていたでしょう。実際あなたは寄宿舎に入るまでどちらも習っていましたからね。でもより音楽に打ち込むために最適な環境だったのが、帝歌の寄宿舎に入るという選択だったのです。もしかするとお父さんは、あなたの歌手としての才能を見抜いていたんじゃないかな」
 志帆は、手に持つ遺書を見つめた。自室で大切に保管している遺書には、無理に音楽を続けなくてもいい、と綴られている。十五歳になったら音楽の道を諦めて、普通の女の子として生きていくのもいいと書かれているのだ。とにかく父は、志帆の想いを尊重しようとしてくれていた。その証拠に、自分の決めた人生を歩めと書かれていたのだ。
「それは差し上げます」甲斐野靖史が言った。
「頂けません。これは父が、甲斐野さんに残したものですから」
「いや、受けってもらいたい。それは紛れもなくあなたのお父さんの意思ですから。それを踏まえて、息子との結婚について考えてくだされば」
 それでも志帆は遺書を返そうとしたが、甲斐野靖史はそれを拒んだ。
「結婚のことは、少し考えさせてください。時間を頂けないでしょうか」
 甲斐野充は怪訝そうに眉をひそめたが、パトロンは快く受け入れてくれた。甲斐野靖史が背中を向けると、息子もそれに倣った。どうやら今日は、仕事で忙しいらしい。二人は公園を出ると、車に乗って出発した。
 志帆は御曹司から受け取った遺書を几帳面に折り畳み、公園を出た。しかし寄宿舎に戻る前に、帝歌の出演者専用出入り口から声を掛けられた。
 見ると千恵がいた。
 今日から『ノルマ』の合唱団は稽古を開始する。その合唱団に千恵は名を連ねていた。『カヴァレリア・ルスティカーナ』の本番が終われば、早速愛梨達も合流してプローベへと移っていく。準備期間はちょうど一ヶ月だった。
「ちょっと時間ある?」
「はい。大丈夫です、けど……」
「一緒に舞台稽古見ない? 私、合唱の稽古まで少し時間あるから」
 志帆もエチュードまでは特にすることはない。録音機に自分の声を吹き込んで、それを聴きながら修正しようかと考えていたくらいだ。志帆は小さく頷いた。
「わかりました」
 どうやら千恵はまさに舞台稽古を見に行こうとしていたらしく、そのため志帆は御曹司から受け取った遺書を寄宿舎に置きに戻る時間も取れなかった。二人は並んで劇場をぐるりと半周し、正面出入り口から入場した。その間、千恵は、志帆のタイトルロールでまた同じ舞台に立てる喜びを口にしていた。志帆はその期待に応えられるように頑張らねば、と身が引き締まった。
 ロビーでは、昨夜の後片付けが行われていた。毎年恒例のクリスマスパーティーを千恵は懐かしい目で思い出していたが、志帆は昨夜の一幕が脳裏に蘇り、胸が重くなった。
 誰かが誰かに刃物を向けている様は、やはり衝撃的なものだった。
 二階に上がると客席へと続く入退場口があるが、今は誰もいない。二人は閉じられたドアの鍵を開け、ホワイエへと進んだ。ホワイエからは二階席に続くドアがあり、そのまま通路を下れば一階席にも行ける。しかしホワイエから一階に下る階段も備えられている。三階席四階席へは、入退場口を入ってすぐのエスカレータで三階ホワイエに行き、そこから客席内に入る必要がある。
 二人は二階席中央に腰掛けた。
 一階席中央付近に演出家が座っており、舞台監督、美術、衣裳など各スタッフが並んでいる。今日は一度伴奏つきの舞台稽古にため、オーケストラ・ピットのせり出た淵が、ちょうど節で切られた竹のようで、そこから光が漏れているせいでかぐや姫の入った竹のように見えた。
 その向こうの舞台には英雄と女神の銅像が建てられた広場が広がっている。志帆と千恵が客席に入った時、ちょうどローラを追ってトゥリッドゥが教会へ向かうところだった。
 トゥリッドゥは成宮だ。その成宮がローラを追って舞台からはけ、残されたのはサントゥッツァを歌う煌子だけだ。成宮トゥリッドゥが煌子サントゥッツァを置き去りにする光景が、志帆には可笑しかった。小さく笑うと、千恵に不思議がられた。
 まもなく、ローラへの嫉妬心に駆られたサントゥッツァは、ローラとトゥリッドゥが不倫関係にあることをローラの夫アルフィオへ打ち明ける。トゥリッドゥとローラは元々恋人同士であり、ローラの結婚が決まってからも二人は密会を続けていたのだ。トゥリッドゥに想いを寄せるサントゥッツァはそれに嫉妬心を燃やしたのだった。
 しかしこの行為が、後の悲劇を生む。サントゥッツァはトゥリッドゥとローラの関係を打ち明けたことを後悔するが、もう遅い。この後、ローラを巡ったトゥリッドゥとアルフィオの決闘へと移る。
 その前に、間奏曲だ。マスカーニは『カヴァレリア・ルスティカーナ』の台本を書く前からこの美しい旋律を作っていたという。それをクライマックスへと移行する間の間奏曲として採用し、それが『カヴァレリア・ルスティカーナ』の顔になっている。劇的なオペラの中で、間奏曲の持つ効果は絶大だ。むしろこの間奏曲がなければ、『カヴァレリア・ルスティカーナ』は今日まで生き残らなかったのではないか。劇的な物語だけが聴衆の印象に残り、血生臭さが拭えない。しかし甘美な旋律にオルガンが荘厳さを加える間奏曲を入れることで、マスカーニはオペラとして昇華することに成功したのだ。
 しかし、普段は淑やかで上品な煌子だが、その美貌の持つ魔力からか、気性の荒い役を演じさせてこれほど花のある人はいない。重厚感のあるメゾソプラノ、それが燃え上がる嫉妬心にぴったりで、観客を惹きつける。煌子のカルメンが高く評価されているのも納得だった。志帆は客席に座ってから、煌子だけに目を奪われていた。
「あなたから見て、煌子さんの実力ってどう思う?」
「上手です。感情を載せるのが滅茶苦茶上手だと思います。それに煌子さんは見た目も華やかで、スタイルも抜群なのに、……どうして海外に出ないんだろうって思うくらいです。海外でもきっと成功するのに」
 千恵は、ふくよかな横顔だけを志帆に見せていた。間奏曲の美しい旋律が流れる、誰もいない舞台上に千恵は視線を注いでいた。
「あの人は、海外に行かないんじゃない。行けないのよ」
 志帆を思わず首を傾げた。
「何でですか? 煌子さんほどの実績があるのに」
 行けない意味がわからなかった。千恵はわざわざ「行かないのではなく行けない」と言った。そこには何か事情があるように志帆は感じた。しかし千恵は、志帆の問いに答えなかった。まるで間奏曲に聴き入るように肉厚な瞼を伏せるだけだ。
 志帆は千恵の肩に触れ、再び訊いた。しかし千恵は答えなかった。
 しばらくしてようやく口を開いた時、千恵は思いもよらぬことを言った。
「パトロンの御子息に言い寄られてるみたいだけど、関係を強要されたりしてない?」
「関係?」
「言うことを聞かないと寄宿舎にいられなくするとか言って、胸を触られたりキスをされたり、そういうこと今までなかった?」
「ありませんよ」しかし志帆の笑顔は強張った。昨夜の支援金の一幕が瞼に浮かんだ。あれは脅しだったような気がしなくもない。
「本当? さっきもパトロン父子が来てたじゃない?」
「見てたんですか……」
「正面出入り口に向かおうとしたら車が停まって……」
 志帆と煌子が公園に入る前に千恵は帝歌に到着したのだろう。おそらく裏山を散策している時に入れ違ったのだ。
「べつにあれは、何かを強要されたりしてたわけじゃありません」
「でもパトロンの息子に言い寄られてるのは事実でしょう? 志帆の気持ちはどうなの?」
 志帆は俯いた。
 あたしの気持ちは、なぜかあたしが一番わからない。煌子が言うように沢木を想う気持ちは本心だ。しかし御曹司の志帆に対する優しさも心地よく、まるで蕾の中で花弁の数が増えていくように、志帆の本心は奥深くに見えなくなっていく。
 二者択一、それを今すぐ決意するのは不可能だった。しかし志帆の胸の中で、ずっと揺るがない強い思いが一つあった。それは今も、変わらない。
 志帆は座り直し、千恵の顔を見据えた。千恵も何かを察して、こちらを見た。
「あたしは、黄金の歌乙女になりたいんです。煌子さんが卒業公演で主演を歌ったように、あたしも主演を歌います。そして煌子さんが伝説の象徴となったように、あたしも長く語り継がれる、そんな存在になりたいんです。甲斐野さんなら、そんなあたしの願いも叶えてくれます」
 千恵は顔をしかめ、振り子のように頭を振った。志帆はそれを見て、顔を背けた。舞台上は、場面が変わっていた。
「なるもんじゃないよ、黄金の歌乙女には」
「何でですか? 千恵さんは煌子さんの卒業公演を観て、自分もああなりたいとは思わなかったんですか?」
 千恵は志帆の五歳上だ。当時は十六歳だったが、合唱団の一員として舞台に上がっていた。煌子の栄光を間近で見て、憧憬や欲望を持たないはずはなかった。もし黄金の歌乙女に憧れなかったのだとしたら、それは闘争心に欠けるとみなされても文句は言えないのではないか?
 弱肉強食の世界では、それは致命的だ。闘争心は、向上心に直結している。
 しかし刹那的に、煌子に憧れたことくらいはあるだろう、と志帆は先輩に希望を残した。しかし千恵は、その希望の芽を摘むように、首を捻った。
「あんなものになったら汚されて、縛られるだけだから」
「どういうことですか? どういう意味ですか?」
 千恵は志帆をちらりと見ると、溜息を吐いた。視線を逸らす千恵が何を見ているのか、志帆にはわからなかった。しかし舞台上に煌子が躍り出たことは、すぐにわかった。憧れの的は、意識せずとも捉えることができる。
「あの像は、煌子さんの等身大だから……。だから、薄汚れてるの」
 志帆は目を剥いた。千恵の言葉の意味が理解できなかった。そればかりか、今の言葉は煌子への侮蔑であり、冒涜でもあった。
 立ち上がった千恵の腕を、志帆は掴んだ。
「待ってください」
 しかし千恵は、志帆の腕を優しく払った。
「志帆は志帆のまま卒業しなさい。それがあなたのため。今のあなたのためでもあり、将来のあなたのためでもあるの」
「煌子さんと同じことを言うんですね」
 そう言うと、頭上に去ろうとしていた足音が止まった。
「あの人は、あなたを後悔させたくないんだよ。今回ばかりは、私はあの人の言葉を支持するわ。間違った道を進むと、次の合流地点なんていつ見えるかわからないのよ。路頭に迷うと、引き返すこともできない」
 千恵は立ち去った。志帆は演出家の指示を受け、細かな動きの確認を繰り返す舞台を見つめていた。煌子を見ると、なぜか涙が溢れて来た。
 何も考えられず、虚空を見つめながらも、焦点はばっちり煌子を捉えていた。光る竹のピットからはオーケストラが鳴っているはずだが、音は聴こえない。煌子が舞台を右に左に動き、やがて地面に崩れ落ちた。
 それを見て、何も思い当たっていないのに、何か思い当たったみたいに志帆は立ち上がった。立ち上がると、素早く客席を抜け出していた。
 寄宿舎に戻ると、志帆は父の遺書を抽斗から取り出した。父が亡くなった後、看護師から受け取った、志帆が元々持っていたほうの遺書だ。そこにはやはり、後悔のない生き方をするよう書かれている。志帆らしく生きるよう書かれている。
 あたしらしい生き方って何? ……お父さん……。
 遺書に涙がぽとりと落ちたが、そこはすでに滲んだ痕がついていた。

9へと続く……

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