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連載長編小説『黄金の歌乙女』9-2

 待ち続けるというのは、想像以上に苦しい時間だった。そこには希望も絶望も見えない。何もない、無の境地のようにも思われた。焦らされているようで落ち着かないが、むしろこの期間が永遠に終わらないのではないかという諦めに似た思いもあった。
 危うく発狂してしまいそうだった。
 志帆に二度目の告白をした翌々日の夜、沢木は夢の中で発狂した自分と一体になろうとしていた。しかし発狂した自分に触れた瞬間、現実に引き戻されたのだ。あと一歩で、二人は融合するところだった。
 寝ても覚めても、沢木は苦しんだ。そんな中、時間を忘れさせてくれたのは志帆の歌声だった。広間や稽古室前、時には志帆と愛を誓い合った帝歌の屋上に上り、録音機で志帆の歌声を再生した。
 拙い沢木の伴奏を、諸共昇華していく透度の高い歌声。至高の領域へと繋がるドアを押し開けようとする、芸術の声。それは沢木の心に安らぎと、妙な心地よさを与えてくれた。志帆の歌声を繰り返すことだけが、沢木を無の苦しみから解放してくれた。
 目を閉じて音の快楽に溺れると、暗い瞼の裏側に、稽古室で揚々と歌う志帆の姿すら見えた。あるいは舞台で喝采を浴びる志帆の姿が見えた。
 気がつけば、年の瀬は目前に迫っていた。長いようで短い、何とも気持ちの悪い日々だった。だが未だに、志帆は決断を下さない……。まだか、まだか、と沢木は焦燥感に駆られた。
 沢木にできることは何もなかった。待つと言った以上、待つしかないのだ。今日も沢木は耳にイヤホンをして、広間で志帆のアリアに浸っていた。
 そこに、舞台稽古を終えた『カヴァレリア・ルスティカーナ』組が戻って来た。煌子と愛梨が何やら話しているのが見えた。二人は談笑しながら、稽古室のほうへ向かって行った。
 少し遅れて、成宮が寄宿舎に入って来た。沢木は成宮のほうを気にしなかったが、成宮は沢木を見つけると、大股で駆け寄って来た。
 肩を叩かれる前に、沢木はイヤホンを外した。
「今いいかな?」と成宮は囁いた。
 彼にしては珍しい話し方だった。広間には、すでに沢木と成宮以外の人はいない。それでもテノールは、囁くほどの声で言った。
「煌子さんのことで、訊きたいことがある」
 沢木は煩わしそうに相槌を打ち、録音機をポケットにしまいながら言った。「俺に答えられることかはわかりませんけど」
 成宮は了承した。
「彼女の噂について、知ってるかな?」
「噂?」沢木は顔をしかめた。「どんな噂ですか?」
 成宮は、誰もいない広間を丹念に見回した。意外と神経質な人なのだろうか、と沢木は思ったが、どうやら煌子に配慮してのことらしい。他人の目を憚って、というよりは、煌子の姿がないことを確認したように、沢木には見えた。
 煌子は愛梨と稽古室のほうへ消えた。その心配は不要だった。
 やはり囁くほどの声で成宮は言った。
「彼女が寄宿生時代、枕営業をしていたという噂だ」
 枕営業、と耳にした瞬間、沢木の全身に電気が走った。思いもよらぬ成宮の発言に不意打ちを食わされ、口元が強張った。それだけでなく、足はがたがたと震え、全身が固まった。
「……枕営業?」
 辛うじて、首を捻った。
 成宮は頷いた。まっすぐの瞳で沢木を見据えている。「彼女が枕営業をしていたという噂を聞いたことは?」
「さあ」沢木はまた首を捻った。衝撃的な発言に、そう応じるのが精一杯だった。沢木は口の中で深呼吸を繰り返し、冷静さを取り戻そうと心掛けた。
「黄金の歌乙女の一件だと耳にした」成宮は続けた。「彼女が寄宿生時代、寄宿生として初めて主役を任されたのは、彼女がその美貌を駆使してパトロンと寝たから……」成宮は軽蔑を含んだ目を瞬かせた。「パトロンとの愛人関係があったから、黄金の歌乙女像なんてたいそうなものが設置された。この噂は本当なのか?」
「知りません」沢木は頬を掻いた。「煌子さんが寄宿生だった時、俺はまだ小学生です。そんなこと、知るわけないじゃないですか」
「でも寄宿舎にいたんだ。もしかしたら小耳に挟んだことくらいは――」
「ありません。煌子さんのそんな噂を聞いたとしたら、忘れるはずがありません」
「そうか」と成宮は神妙な顔つきになって言った。「そうだよな……」
「もしその噂が事実なら」沢木は唇を噛み締めた。自尊心が傷つけられるような歯痒さが、全身を貫いた。しかし言った。「帝歌の栄光の象徴は、帝歌の汚れの象徴になってしまいます」
 成宮は刹那沢木を睨んだ。しかし沢木の言葉の妥当性と、沢木を侮蔑したところでどうにもならないということを冷静に判断したらしく、その瞳はすぐに敵意を消した。成宮は、小さく頷いた。
「本当に、知らないんだね?」
「はい」
 成宮は黙り込んだ。ちらちらと沢木の表情を窺いながら、何か思案を巡らせていた。
 沢木はそんな成宮から目が離せないまま、溜息ばかりを吐いていた。同時に、早まる鼓動が鼓膜にどくどくと響くのを感じていた。腋の下に、じわりと汗が滲んだ。
 数分間、二人は身動き一つ取らなかった。成宮はじっと考え込んだまま、沢木はそんな成宮を茫然と見つめ、しかし何も考えられないでいた。
 沈黙を破ったのは成宮だった。
「俺はこの噂の真偽を確かめたいと思う」
「何のために?」
「むろん、煌子さんを救うためだ。噂が嘘偽りならこれを断ち切り、噂を流した者には流した噂を撤回してもらう。こんな噂がまことしやかに囁かれていては、彼女の今後に大きく関わる」
「噂が事実だったら?」
「事実だったら、彼女を守る必要がある。非難は避けて通れないだろう」
 沢木はじっと成宮を見つめた。沢木を見返す張りつめた彼の目は、決然としていた。自らが盾となる決意が燃えていた。今更覚悟について訊くのは愚問だった。
「噂の真偽を、どう確かめるんです?」
「それはもちろん」成宮は人差し指を立てた。「君だ」
「俺?」沢木は自分を指差した。「俺は知らないって言ってるじゃないですか」
「それはそうなんだろう。当時君は小学生だ。噂を知らなくても仕方がない。でも今なら、噂の真偽を訊ねることはできるだろう」
 沢木は眉間に皺を寄せた。成宮を見る目が、大きく見開かれていった。
「まさか、煌子さんに直接訊くつもりですか?」
「それしかないだろう。調査に時間を掛けることはできない。公演が終われば俺はすぐに別の公演が控えている。その後はまたヨーロッパに戻る。噂の真偽を確かめるには彼女に直接訊くしかない。どうせ最後は本人に確かめるしか方法がない。噂とはそういうものだろう?」
「時間を掛ければいいじゃないですか。成宮さんが今度日本に戻って来た時に結果を伝えるのではいけませんか? それに結果だけならメールでも電話でも伝えられるじゃないですか」
「俺は結果がわかったら、すぐに煌子さんと話がしたいんだ」
「だったら自分で訊けばいいでしょ」
「俺は君とは違う。彼女とは去年知り合ったばかりだ。それに俺は、煌子さんに惚れている。こんなことでヘマはしたくないし、そもそもこんなデリケートなことを訊けるほどの仲じゃない。だから君にお願いしてるんだ」
「俺だってそんな仲じゃありませんよ」
「でも君達は昔からの知り合いじゃないか。俺からすれば姉弟のようにも見える。気心の知れた仲だろう? だから頼む。噂の真偽を確かめてくれ」
 沢木は渋った。だが成宮は退かなかった。
 埒が明かない。そう思った沢木は、不承不承ながら受け入れた。しかし煌子に直接訊ねるつもりはなかった。噂を事実と決定づける証拠でもあれば、それを持って確認するくらいはできたかもしれない。だが今はまったくの手ぶらである。否定されれば、どんな顔をすればいいのか。
「確認はします。でも、確かめる必要なんてありますか? 証拠がないから噂なんでしょう? きっと否定されて終わりです」
「それでもいい。その時の彼女の様子をしっかり見ておいてくれ」
 成宮は立ち去った。そのまま寄宿舎を出たところを見ると、どうやら沢木を求めて寄宿舎に入ったようだ。
 沢木は立ち上がった。そろそろ志帆の稽古も終わるだろう。広間から、稽古室の前へと移動した。
 稽古室の一室のドアが開いていた。中には煌子と愛梨がいて、舞台稽古の後だというのに、居残り練習をしていた。稽古室のドアを開けっ放しにするのは煌子の癖だ。閉鎖的な空間を嫌い、開放感を求めるのは昔から変わらない。
 沢木は、目を閉じて歌う煌子を見つめた。
 日本人離れした美貌も、昔から変わらない。ふと日食のように、愛梨の顔が煌子の顔と重なった。煌子の顔が愛梨の後頭部に隠れた。しかしちらちらと、煌子の高い鼻が見え隠れした。
 沢木は立ち尽くした。
 七年前の、奈落――。
 小道具を奈落に続く階段に落として、沢木はそれを取りに行った。小道具を回収した時、奈落の底で声を聞いた。男と女の声だった。
 沢木は階段を下り、物陰が奈落を覗いた。一幕から二幕への場面転換が頭上で行われている中、男は女に迫っていた。闇の中で、煌子の顔が煌めいた。頬を濡らした涙が、舞台から差し込む灯りに照らされて、その美貌を闇の中に浮かび上がらせた。
 煌子に迫る男は、こちらに背中を向けていた。こちらには気が付かないようだった。
 男は何かを囁いた。声は奈落に反響したが、沢木にはその声を聞き取ることができなかった。男は煌子に接吻した。煌子は無抵抗で、何度も接吻を浴びていた。男に抱き締められ、煌子も抱き返した。しかし男の背に回した手は、拳を作っていた。そしてまた、男は接吻を始めた。
 沢木は吐き気を催した。足音を殺して階段を上がり、蒼白としたまま舞台に立った。煌子も何食わぬ顔で舞台に戻って来た。客席からはわからなかったかもしれないが、側にいた沢木は、煌子の目元が赤く腫れ上がっているのを確かに見た。
 終演後のカーテンコールで、煌子は涙を流していた。溢れ出る涙に、観客はこれ以上ない賞賛を送った。その涙は、あまりに美しく語り継がれ、一つの伝説となった。
 しかし沢木には、とても美しくは見えなかった。怒りだけが、小さな体の底に渦巻いた。
 沢木は煌子に迫る男の顔を見なかった。ちょうど今の愛梨のように、煌子の手前に立っていて、見ることができなかったのだ。恐怖と吐き気に負けず、その場を動かなければ、男の顔を見られたのかもしれない。だが沢木は耐えられなかった。
 しかし煌子に迫っていた男が誰なのかは、わかっていた。そもそも本番中の舞台裏に忍び込み、煌子に迫ることができる者など限られていた。
 パトロンの、甲斐野靖史に他ならない。七年前ならば、すでに甲斐野グループは出資を始めており、出資額もトップだったはずだ。出資額の規模は、後援会において権力の強さに直結する。
 パトロンの威光に、煌子は逆らうわけにもいかなかったのだろう。
 沢木はこの目で見ているのだ。煌子がパトロンに接吻を強要されるところを。あれは紛れもなく強要だった。煌子がプリマドンナになるために自ら身を売ったのではない。
 それだけは確かだった。

10へと続く……

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