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連載長編小説『黄金の歌乙女』12-3

 いざ告白しようとすると、胸が張り裂けそうなほどの緊張を感じた。沢木は自分を待ってくれている。それでも気持ちを伝えるというのは、決して簡単なことではなかった。結局志帆は、覚悟を決めるまでに一週間を要した。
 こんな想いに打ち勝って告白してくれたというのに、あたしは何て惨い仕打ちを……。
 沢木と結ばれた直後、クリスマスパーティーで彼から距離を置いた自分を愚かしく思った。彼の気持ちなど、あの時はまるで考えられないでいた。志帆の名前が書かれた藁人形に釘を打ち付けられても仕方がないと思った。それでも志帆を切り捨てず、今も待ち続けてくれている。
 こんな人は、二度と現れない。沢木と結ばれることは、王子の妃となる以上の価値があった。もしも沢木が不敬罪や反逆罪で処刑されるなら、志帆は間違いなく後を追うだろう。
 それほどに、志帆は沢木に愛を誓っていた。もちろん、胸の中で、だけど。
 もう離れない。たとえ御曹司が志帆の望む志帆だけの楽園を作ることを約束し、実現したとしても。
 沢木は録音機にイヤホンを繋いで、何か聴いていた。志帆の自室である。沢木は甲斐野充が踏み込んでくることを警戒して、志帆の部屋の守衛を買って出てくれた。そのため頻繁に志帆の部屋で夜を明かす。
 煌子さんにパトロンが迫る音声を聞いているのかな、と志帆は思ったが、どうやらそうではないらしいとすぐに感じた。沢木は瞼を伏せ、楽譜の上に描かれた弧をなぞるみたいに顔を揺らしていた。
 録音機には志帆の歌声が入っている。「ドレッタの夢」だ。沢木がピアノを伴奏し、プルニエのパートも歌った。志帆は『つばめ』の舞台と同様にマグダを歌った。彼の歌声は、少しも衰えていなかった。むしろ今からでもエチュードを繰り返せば一流のテノールになって舞台に立てるのではないかとさえ思う。
 しかし彼は、放置した鉄などと自分の喉を評した。
 そんなことはないのに……。
 志帆は悲しくなった。夢見がちな少女だった志帆の、最も大きな夢が沢木と舞台に立つことだった。ただ舞台に立つだけではない。たとえばカルメンとホセのように、たとえばノルマとポリオーネのように、たとえばヴィオレッタとアルフレードのように、たとえばトスカとカヴァラドッシのように。
 その夢は、もう叶わないのだ。
 それでも志帆は笑うことができた。志帆に気づいた沢木に、自然に微笑み掛けることができた。一度は沢木と生き別れた。もう会うことはないと思っていた。しかしこうして再会し、今結ばれようとしている。それだけで十分だった。同じ舞台に立てなくとも、彼がいるだけで心は満たされる。
 それ以上望むのは、罪な気がした。
 志帆の告白のために、多くの言葉はいらなかった。雰囲気がどこか違うところを、沢木は察していた。彼は志帆を受容するように腕を広げた。沢木の胸に、志帆は静かに包まれた。
「あたしには遼ちゃんしかいない。なのに、ごめんね」
 沢木は笑顔を浮かべるだけだった。穏やかに重ねられた唇が、熱かった。志帆は涙を飲み込んで、沢木を見上げた。
「一秒たりとも遼ちゃんから離れたくない」クリスマスの屋上での沢木の言葉を志帆は記憶していた。それを口にした。それが本心であり、本音だった。「――一生を、そして一瞬を、一緒に過ごしていきたい。もう二度と離れたくないの」
 沢木は志帆を抱き寄せると、大きく息を吸い込んだ。泣いているのかもしれない。
「俺も、もう離れない。何があっても、志帆の側にいる」
 志帆は今、幸福に抱かれているような心地だった。しかし沢木には、伝えておかなければならないことがあった。
 志帆は沢木の胸から離れた。手を取ると、志帆は言った。
「ただ……あたし、もしかすると海外留学することになるかもしれない。オペラ歌手として、自分がどれだけやれるかを知りたいの。ヨーロッパで、本場で、自分を試したい。そう思ってる」
 沢木は志帆の手を強く握り返した。彼のもう一方の手は、志帆の手を撫でていた。
「もちろん、応援する。俺も志帆が世界で活躍する姿が見たい」
 志帆は破顔した。せっかく再会を果たしたのにまた遠くへ行ってしまうなんて、と渋られる可能性も頭にはあった。しかしそれは杞憂に終わった。
「何年留学することになるかわからないよ」
「構わない」と沢木は笑った。「俺が寄宿舎を出てから七年、こうして再会したんだ。時間は、もう俺達を引き裂けない」
「そうだね」としみじみ言うと、泣けてきた。不安など、まるで感じられなかった。どこに行っても、日本で彼が待ってくれている。帰るべき場所があると思えるだけで、かなり心強くなれた。
 さっき飲み込んだ涙が溢れそうになった。志帆は咄嗟に、沢木に接吻していた。彼の首に抱きつくと、憚ることなく泣いた。
 
12-4へと続く……

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