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連載長編小説『黄金の歌乙女』11-1

 
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 鞍馬山の雪化粧が、新年を祝福しているかのようだった。『カヴァレリア・ルスティカーナ』のチケットはほぼ完売のようだった。ほんの僅かだけ、残席がある。
 およそ一三○○人の観客の入場を沢木は屋上から眺めていた。曇天の下は底冷えだ。鞍馬は京都市最北部に位置していて、山の麓ということもあって京都市内よりも一段と寒い。吐き出す息は、雪だるまのように大きい。その息のせいで鞍馬街道を北上してくる観客達の顔は霧が掛かったように伺い見ることができない。沢木は録音機から流れる志帆の歌声を聴きながら、帝歌の出入り口へ入っていく雪だるまの数を数えていた。
 だがすぐに飽きてしまった。百人も数えない内に、沢木は地上を覗くのをやめた。首筋を撫でる冷気に心地よさを感じながら、もう何度聴いたかわからない志帆マグダの「ドレッタの夢」に聴き入る。
 これだけは、飽きが来ない。
 志帆の歌声は、高音の美しさはむろんのこと、持ち前の明るさと夢の中を歩いているような軽快さが聴衆を惹きつけて離さない。軽やかに、風に乗るように伸びていく志帆の声は、ソプラノの真骨頂と言えた。ハイCが、これほど耳に心地よく響く歌手はそういない。
 沢木は思わず溜息を吐いた。志帆の実力に惚れ惚れした。
 沢木は続けて溜息を吐いた。志帆の決断が待ち遠しかった。
 次は意図的に溜息を吐いた。志帆を疑う自分が呪わしかった。
 溜息ばかり吐いていると、音声が切り替わった。志帆の歌声が「ドレッタの夢」が録音されているだけだ。流れて来たのは若かりし千恵の歌声だった。今更恥ずかしいから聴かないでほしいと千恵は言っていたが、七年以上前の歌声にしては素晴らしい。沸々と感情を押し上げていく重低音は、アルトとしての才能の片鱗を見せていた。
 やがて次の録音へと移った。今度は合唱曲を一人で歌っている声だった。何の歌劇の曲かは、沢木にはわからなかった。それくらいオペラの知識は霞んでいた。合唱曲とわかったのは、昔何かで聴いた記憶だけが残っていたからだ。
 それから三曲、沢木は懐かしさを覚えながら千恵のあどけない歌声を聴いていた。無意識に笑顔になるのは、当時のことを思い出すからだろう。千恵とは姉弟のように仲が良かった。さらに当時は、障壁など何もなく、志帆と想い合っていた。
 朗らかな日常が思い出された。
 それを切り裂くように、沈黙が流れた。
 沢木は巻き戻して「ドレッタの夢」を聴こうとしたが、どうやら録音機はこの沈黙を記録しているらしかった。静けさは、千恵の渾身のアリアを予感させた。沢木はしばらく待った。十五秒ほどで、足音が聞こえた。
 いよいよ始まる。そう思わされる緊張感があった。
『顎を上げろ』音楽ではなく音声が聞こえて来た。男の声だ。『パトロンの言うことが聞けないなら、おまえに居場所はないぞ。俺と深い関係になれば、おまえは栄光を手に入れられる』
 沢木は目を剥いた。音声は時々掠れた。録音機からは、少し距離があるらしい。しかし録音機は、卑しい音声を確かに拾っていた。
『やめてください……』切迫した、荒い息が聞こえた。声質はアルトではなかった。囁き声だが、その声はメゾソプラノ――煌子の声に聞こえた。
 録音されたのは、今から八年前の十二月。煌子が十八歳の冬だ。
 沢木は手が震えて、録音機を床に落とした。それを拾い上げ、続きを耳にした。
『拒めばおまえに道はない。乞食になるか、娼婦になるか。どうせ娼婦になるなら、ここで娼婦になれ。そうすれば未来永劫、おまえは栄光を手に入れられる』
『嫌です……。こんなことでプリマになっても嬉しくありません』
『寄宿生初の快挙だぞ。おまえの伝説は永遠に語り継がれる。栄光には代償が必要だ。おまえ一人でどこまで駆け上がれる? 十五の時、音楽の道で生きると決めたんだろう? スターダムを駆け上がりたいんだろう? 俺が手を貸してやるんだ。脱ぐのは一時の恥、脱がぬは一生の後悔だ。俺じゃなくとも、どうせ誰かがこうしておまえを求める。恨むなら、その美貌を恨みな。絶世の美女として生を受けながら孤児となったその運命を』
 やや間があった。しかし数秒が経つと、呻きのような煌子の声が聴こえて来た。嫌悪感で、沢木の全身に鳥肌が立った。顔はいつしか歪んでいた。
『心配するな。俺は誰にも言わん。おまえが口を閉ざしていれば、身をやつしたことなんぞ誰にもばれない』
 煌子は抵抗していない。だが明らかに不快感を露にしていた。十秒もすると、煌子はぜえぜえと喘ぎ始めた。しかしそれ以上に、男の息が荒々しく燃え滾り、録音機に鮮明に入っていた。
 煌子は何も話さなくなった。時々、男のほくそ笑む声が録音されていた。沢木は耐え切れず、再生を停止した。停止する直前、僅かに煌子が洟を啜る音が聞こえた。煌子は泣いていた。
 屈辱、恥辱、虚無、悔恨、悲哀、煌子の中に、どんな感情があったかは想像することもできない。だが第三者である沢木の胸に怒りが渦巻いているのだ。煌子の胸中が穏やかであったはずがない。沢木が煌子の立場なら、我を失ってどんな行動に出ていたかわからない。殺人さえ厭わなかったかもしれない。
 しかし煌子は大人だった。様々な感情が錯綜する胸中を押し殺し、冷静に、自分を保っていた。もはや後戻りはできない。かくなる上は将来を見据える以外に道はない、とでも悟ったかのように。
 沢木は屋上を出た。エレベータを下りると、僅かに舞台から音楽が漏れ聞こえて来た。沢木は出演者専用出入り口から外に出て、そのまま寄宿舎に入った。
 広間から階段で五階まで上がった。しかし志帆は部屋にいなかった。嫌な予感がして食堂を確認したが、そこにも志帆はいなかった。広間に戻ると、稽古室の前で肩を落とす志帆を見つけた。
 沢木は志帆に駆け寄った。志帆は足音に気づいて顔を上げた。こちらを見ると、微かに表情が華やいだ。
「遼ちゃん……煌子さん観に行かへんの?」
「うん」
「観に行かんでよかったん?」
「うん。志帆は? 観に行かなくてよかった?」
 志帆は声もなく頷いた。項垂れるように顔を俯かせると、今度はすぐに、バウンドしたみたいに頭を起こした。
「あたしはエチュード。明日からプローベだし、観に行ってる暇なんてないから」
 沢木は開け放たれた稽古室を見た。中には講師がいて、何やら談笑していた。
「今は休憩?」
 志帆はかぶりを振った。「ううん。中断」と言うと苦笑した。
「中断? どういうこと?」
 志帆は投げ捨てるように笑った。自嘲だった。
「先生に身が入ってないって言われたの。ちょっと頭冷やせってさ」
「身が入ってない……」そんなことが今までにあっただろうか。卒業公演をちょうど一ヶ月後に控えた今、どうして。思案を巡らすまでもなく、沢木は思い当たった。「一昨日のことが気に掛かってる?」
 一昨日は、つまり新年を祝うパーティーがあった。そこで志帆は、初めて甲斐野充に抗ったのだ。
 志帆はやや逡巡した後、頷いた。沢木は彼女を抱き締めた。
「迷いはいらない。志帆の正直な気持ちでいいんだ。パトロンの息子なんて気にする必要はない」沢木は志帆の頬に手を添えた。志帆は大きな瞳で沢木を見つめていた。「大丈夫。いざとなれば切り札はこっちが持ってる」
 志帆は首を傾げた。「切り札?」
「ああ。だから志帆は何も気にしなくていい。迷うこともない。音楽に没頭するんだ。自分を信じろ。道は拓ける。千恵ちゃんが、俺達を繋ぎ止めてくれたんだ」
「千恵さん?」
 志帆は首を傾げたまま言った。沢木が千恵から録音機を譲り受けた話は、もう忘れてしまったようだった。
 それでもいい。むしろ志帆が覚えていないほうが好都合だ。余計なことを考えずに、稽古に望める。
 沢木は志帆の体を持ち上げた。志帆の背中を優しく叩き、稽古室に戻るよう促した。志帆は黙って部屋へと入っていった。ややあって、ピアノ伴奏が聴こえて来た。志帆の歌声は、明るい。だが不安を拭い切れないのか、いつものような軽快さはなく、声も伸びて行かない。
 立ち去ろうとしていた沢木だが、心配になって稽古室の前に立ち尽くした。だがこうして立っていても、志帆の力にはなれない。
 沢木はすぐに、踵を返した。
 
 11-2へと続く……

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