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わたしのために存在するわたし


なにも感じられない、なにも感じたくない期間が終わろうとしている。ただいま。今日もわたしは生きていました。


一度考え事をすると、他のことが全く手につかなくなる。視野が途端に狭くなる。これ、わたしあるある。今日は考え事に夢中になりすぎて、目的のスーパーを通り過ぎてしまった。長いお散歩でした。


ひさぶりに〇〇をした、ということがよくあるけれど、決してひさしぶりではなかった、ということが多い。お散歩がひさしぶりだった、と言おうとしてTwitterを遡ってみると、ほんの数日前に2、3時間散歩をした記録が残っていた。つい、ひさしぶりと言ってしまうから、結果的に多くの嘘をついてしまっている。ごめんなさい。ひさしぶり、と口にするたび、心動かされるものがたくさんあることに気づく。わたしの生活にはひさしぶりなものが多すぎる。大切なものが増えすぎるとこわい、でも色んなものを愛せることはそれだけわたしらしく、素直に生きているということの証明でもある。ひさしぶり、元気なわたし。

わたしは好きな人がたくさんいる。関われば関わるほど好きになるし、その人に対する気持ちを表明したくなる。けれど、全く書けない。書けば書くほど、わたしのその人に対する好きが薄っぺらくて言い訳じみたものになってしまう。上手く表現できずに、その人の価値が薄くなってしまうこと、自分の手で薄くしてしまうことが嫌だ。誰かに伝えるという行為が本当に苦手。それでも言いたい好きは、どこに投げればいいんだろう。

今日都合よかったら連絡するかも、と言っていた彼からの連絡はまだない。たまたま起きていたから、という言い訳を用意して連絡を待っていた自分が惨めになる。先日彼に言われた、「会いたいと言えば会ってくれそうだったから言わなかった」は、本当に衝撃的な言葉だった。「都合がいい女だから」とわたしに直接的に伝えていることを、彼は分かっていたのかな。分かっているうえで、突き放したのかな。どっちにしろ、わたしは彼の都合のいい女にすらなれなかったし、なりたかったのかも分からない。ただ、わたしを必要としてくれる誰かの存在を感じていたかった。その恋愛ごっこの先に、今日は彼がいただけだった。

愛と本能は切り離せない。学校で教えてほしかった。恋愛の教科書があればいいのに、という言葉を知った時は衝撃だった。ずっと、教えられたことを素直に聞き入れてきた学生時代のわたしたち。お手本通りの行動しかできないわたしたちには、人間としての正解も、間違いも、教えてくれる大人なんていなかった。「聞いてはいけない雰囲気」に上手く流されて、わたしは綺麗な恋愛を経験した。そこで終わればよかったのに、もっと深く知りたいと思ってしまった。正解がないなら間違いもないじゃない、と多くの経験をした。間違いはあった。誰もわたしのことを否定しなかったけれど。いつも優等生だったわたし、恋愛に関してはオール1。たぶん、わたしは誰かに否定されたくて、必死に間違った自分を肯定していた。間違いだと言ってほしかった。怒ってほしかった。汚く醜いわたしが埋もれてしまう、この社会の汚さをはっきりと実感してしまった。知らなくてもいいことを知ろうとしてしまう、悪い癖。

愛について語り始めたらキリがない。本能について語れる友達はほんの一部。そんな世界の中で、誰かとの幸せを確立させるなんて、わたしには到底不可能な気がしている。この話に、終わりはないよ。

わたしの大好きな人。フォロワーさんから、もっとこうした方がいいですよ、とか、おかしな人ですね、とか、言われていた。こうした方がいいこと、たぶん彼は分かっている、でもその選択をしないのが彼だから。おかしなところは、彼の個性で、わたしの大好きなところなのに。でも、この言葉たちに決して悪気はなくて、親切心から出たものなのかもしれないし、素直に向き合った結果伝えたくなった言葉なのかもしれない。大好きな人を大切にしたくて、でもだれも否定したくなくて、一人でモヤモヤを抱えた。大好きな人はだれのことも否定していなくて、わたしはまた、自分の小ささを知った。


多くの目に触れるということは、それだけ自分とは遠い、今までにない人との出会いがある。そんな人たちみんなの言葉を上手に受け止めることは出来ないし、その必要もない。SNSを使い始めた時は理解できなかったけれど、今なら痛いほど分かる。

死にたいとは思わなくなったけれど、こんな痛みを味わう前に死にたかったと思うことがあった。体調が悪いと、本当になにも出来なくなってしまう。体調不良は、死ぬ前に知らなくてもいいこと。わたしは今すぐには死ねないから、生きているうちは少しでも楽しく生きていたい。だから体調に気を遣い始めました。そんな日が来るなんて、やっぱり人生、人間、なにがあるか分からない。だから生きろという話ではない。


基本的に、断定的なことを言ってしまうのが怖いです。というのも、音を出して話すわたしは、かなり気が強い。自分の思ったことは口からするりと飛び出してしまうし、それを止めようともしない。決めつけでしゃべってしまって、一人反省会をする日々。その反省の部分がここにこうして存在している。だからここにいるわたしは、だれのことも否定したくない。わたしの小ささを実感して、腰を低くしていたい。


あ、これはだめだ、と思った言葉は一生わたしに纏わりつく。前に言われた、決めつけが多いね、という言葉もその一つ。自分の知らなかった自分を突きつけられるあの瞬間、本当に時が止まる。何度味わっても慣れなくて、心地悪い。

SNSを使う上で大切にしているのによく忘れてしまうこと。好きな人の全部を愛せるという前提をなくすこと。日常生活で触れ合う人は、無意識のうちにお互いの必要な部分だけを見せ合っていると思う。必要な情報を共有し、必要に応じた感情を分け合っている。素を見せていない、という意味ではなくて。

わたしの友達がホラー映画の感想を投稿していた。わたしはホラー映画が大の苦手。だから絶対に彼女とは分かり合えない、は違う。分かり合えないのはホラー映画が好きという部分だけ。好きなものや心を動かされる対象が少し違うだけで、その人の善悪を判断してしまうのは情けない、と思っている。SNSは、わたしにとって必要のないその人の一面までも知ることができてしまう。「好きになれない部分があるという前提」。こんな簡単なことをすぐに忘れて、その人の一部分から全てを否定してしまう。そんな社会の空気に飲み込まれたくない。

日記、感情のメモ、落書き、自己満足。名前のない、答えのない行為を、今日も愛しているわたしでした。

なにかを感じられるうちは、生きているから。また、顔も名前も知らないあなたに、会いたい夜。



いつか青い鳥になって、あなたの下へ幸せを届けます。