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死は、人を素直にさせる

子供の頃、10代に入る前のまだ心から母を好きでいられた頃に。誕生日にネックレスをプレゼントした事がある。

あれは我が家に犬が来る前だから、おそらく8〜9才頃の話だろうか?

母の誕生日が近いある日、近所の服飾からパンまでを取り扱う小さな雑貨店に財布を握りしめて向かった。地方の田舎都市の20年以上前の事なので、そんな店がまだ現役で営業していたのだ。

何を買うかハッキリとは決めていなかったけれど、何か母に素敵なものをあげて喜ばせたい…そんな気持ちだったことを覚えている。

スカーフやハンドバッグ、そんなものもあったように思うのだけれど…そんな中でこれだ、と思ったのはキラキラと光を放つ石のついたネックレスだった。

大人になって見るそれは、明らかにガラスか何かで作られた模造ダイヤなのだけれど…透明に輝く石は、子供の目にはダイヤモンドに見えたのだ。

たしか3000円程度だったかと思う。10にもならない子供にとっては、思い切りのいる買い物だった。でも母の喜ぶ顔が見たかった。

だから貯めていたお小遣いを惜しげも無く手放し、母の笑顔を思い浮かべながらそのネックレスを手に入れた。

母がどんな顔をしたかまでは覚えていないけれど。喜んで受け取ってくれた事と、自分の想像した程に大感激はしてもらえなかった…ような記憶がある。

しかし20年以上経って、引っ越しも何度か重ねて、古い物は色々処分してきた実家の引き出しにこのネックレスをみつけた時には…ジワリと胸に迫るものがあった。

子供の自分には、母が喜んではいても。友人にそのネックレスを見せびらかしているのを目にしても。それでもまだ完璧ではなかった。

物語のように感激に涙を流したり、強く抱きしめてくれる…そんなわかりやすい反応がなかった事が少しばかり不満でもあったのだ。だからこうして記憶にも残っているのだろう。

けれども大人になって、母の視点に近いところから見てみれば。

まずそんな大袈裟な反応は性格上するはずがない。それでも母なりに間違いなく嬉しかったはずだし、子供との大切な思い出の1つだったのだろう。だってあんな安物のネックレスを、後生大事に手元に置き続けていてくれたのだから…。

あの時は「このネックレス、まだ持っとったんじゃね」そんな一言ですませてしまったけれど。ちゃんと「大事に持っててくれて、嬉しい」そう伝えれば良かったな、と母を亡くした今になって思う。

もし母が生きていれば、そんな風には思わなかっただろう。言葉にしなくとも伝わるよ、と家族という繋がりに甘えていたはずだ。

死は、人を少しだけ素直にさせる。

もう二度と届かない、その可能性がある限り機会は逃すべきではないのだ。その事を、どうしようもない程に突きつけられ。

こうして人は、少しずつ、過去の自分から変質していく。



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