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「できない理由」を教える大人は、全員「やったことがない人」
ブレーキをかけているのは、周りの大人だったという話はよくある話。なるほど、我々は、「はたらきかた」は教えていなかった。我々は自分のいうことを聞く子を評価し、良い進学先を紹介してきた。間違いなく「いうことのききかた」を教えていたのだ。
いうことをきけるということが、全く意味のないものだとは思わない。新しい場に身を置いたとき、新しい指導者の言うことを上手に聞けることは、その場においての成功に近づくこ
淡い夢 でも夢で終わらせたくない
前回、10年先を見通して児童にどんな力を付けたいかって話を書いた。
今回のお話は、そこにも書いたことなのだが、本当に児童の10年先の世の中のことを想像できているのか?て話に関係するお話かもしれません。
今学校で教えているのは「教科」ですね。国語社会算数数学理科英語音楽体育図工美術技術家庭体育ってやつです。道徳も教科になってしまいましたね。なんか、しまいましたねって言い方もあれですけど。
まあ、
同意と事実は違っても良い (これもコツみたいなものなのかな)
「マンガに教えてもらったことがとてもたくさんあります。」というマガジンを公開させてもらっている。その中の「作品に罪はない 読んでみて良かった 悩んでいる人にも悩んでいない人にも」というnoteに少なからずご意見をいただいた。このマンガを見つけてくるひろゆき氏の見聞の広さがすごく、そこで紹介したマンガがわかりやすいということが間違いなかったということなのだろう。
そこにも書いてあったことだが、
【
世の中には均等は存在するが平等は存在しない
教員の仕事って、今さらだが本当にわけのわからないものがある。たくさんある。それが、ギリギリ子どもに関わることかもなあって仕事ならまだしも、明らかにこれ何のためにやらされてんのって仕事がある。
そう。やらされている。こんな仕事自分からは絶対にしないなって仕事を。こないだもこんな仕事をやらされた。
カリキュラムマネジメントが大切だぞ。
だから未来の子どもたちにはこの5つの資質能力が必要だ。
教科横
これで良いのだ いや良いはずない
ついこないだの会議。議題は、単元題材等配列表に即した令和3年度グランドデザインへの構想、について。
一読しただけでは、まず最後まで読むことも難しい。グランドデザイン。今から何が始まるのか。
そもそも、教育現場で行われている現職教育(この地域ではこう呼ぶ)とは何を行うべき場であるのか。
授業力をどう向上させていくのか。まずは、それしかない。
確かに、理論は必要である。しかし、理論的なことをいくら
けテぶれ なのだそうです 宿題編
聞いたことがあるでしょうか。この「けテぶれ」という言葉。
け……計画
テ……テスト
ぶ……分析
れ……練習
なのだそう。
これを教室で実践すると、子どもが自立した学習者に変わるのだそう。
なるほど。わかりやすい。書いてあることは最もだし、PDCAサイクルなんていわれて久しくなるが、それを想起させる部分も見えてくる。
この方法が全てではないと作者は書いているが、それもその通りだと思う。
人は慣
学習資源とは 時間的な資源 精神的な資源 あなたの現場には資源はありますか?
こういう時代だからこそ学びが必要だとは思いますが、そのための学習資源を確保していくというのは、ある意味でリーダーの責任です。学ぶためには、時間的な資源と、本人の余裕という精神的な資源が要るのです。つまり時間と気持ちの余裕を生み出すための、仕事のダイエットが、実は必要なことではないかなと思います。そうしないと、学びというのは後回しにされてしまいます。
そしてそのとき、先生方の心理的なハードルを下げ
答えは間違いなく否である
再度の話ではあるが、緊急事態宣言が一都三県に発出された。前回は2020年の4月のこと。あの時も全国一斉に発出したわけではなく、最初は県を限定して発出された。しかし、発出の対象にはならなかった府県が次々に要請を出し、結果的に全国一斉に緊急事態宣言が出された形となった。まだ記憶に新しい出来事だ。
今回の緊急事態宣言は、前回の時とは宣言の対象もかなり異なるような印象を受ける。そもそも、宣言の対象って?と
新しい観点での評価 誰が評価されているのか
今年度より評価の観点が大幅に見直された。
中学ではまだ始められていないこの観点も、いよいよ小中完全実施が見えてきた。この四月。完全実施である。まだ先まだ先と思っていた中学校教員たちも、高校受験のシステムが何も変わらないまま始まってしまうこの観点の複雑さを肌で感じる頃であろうか。
現場では、それに伴って現職の教員にこんな指導がされている。
2学期の通知表作成状況より、以下の点で課題があると感
メディアに食いものにされないと言う表現がしっくりきた
落語が聞けなくなってしまったと言う記事を書いたことを話していたら、こんな感想をいただいた。単純にテレビで放送する必要が、お互いにないのではないかということ。なるほど。落語というものが寄席で育ち寄席の中で生き続けているからこそテレビというメディアを必要としていないのは、文化の継承という面においては喜ばしいことなんだ。
流行り廃りの激しいテレビというメディアに食いものにされないというのはとても大切であ