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それは空っぽで、かつ満たされていた【夢日記】

 母がお前じゃなくて、先にお母さん(母の母)に貢献するべきだった(お金を使うべきだった)と皆の前で言った。私はそれを聞いて、悲しみとそうじゃないでしょという思いで泣き叫んだ。皆の前で。
 「そうじゃないでしょ」の中身は、多分通じてない。なんとなくいつも感じていた。今回もそうだ。私が伝えたい思いと皆に伝わっているものは、別物。言葉や表現は同じでも、伝わる中身が受け取る人によって、受け取る人のその時の状況によって変わってしまう。その人の形になって受け取られる。たとえ、相手が共感してうんうんと頷いていても、それは私が示しているそれではない。
 悲しさとはがゆさとで放出されたエネルギーは、どうしたらいい。

*   *   *

 私の誕生日。今日は私が祝われる番。
 誕生日の会を主催してくれた女性は感じがよくて、懸命に盛り上げようとしてくれていた。喧嘩した水瓶座の女性も来てくれた。こんなことってあるんだ。喧嘩している人の誕生日会に来る人なんているんだ。私は喧嘩をしているのに、来てくれたことには感謝していたし、嬉しかった。もちろん、私はその人の愛だと受け取った。
 私を含めて3人。後でもう少し人が来るはず。人が大勢いる方に行ってみると、来てくれるはずの人達のひとりがいて、悪びれる感じもなく「私たち休みだけど今日来てるのよ」と言った。私は「あぁ、わざわざそれ言うのね」という思いと「悪いなぁ」という複雑な気持ちになった。
 でも、私は全面的に自分の誕生日を、お祝いを受け入れていた。悲観や卑下はいっさいなかった。

//夢ここまで
at 20230923

~筆者雑記~
 どうやら私は自己肯定感というものが低いみたいなのだ。「どうやら」とつけているところが、また厄介でしょう。笑 
 無意識なところで、私は自分を「私など」と思っているみたいなんです。行動にそれが垣間見える時があるので、そういう時にいつもそうなんだなぁと思っています。意識の部分では、自分を低く見積もったりしていないつもりでいたので、そのちぐはぐさに戸惑うのです。
 でも、今回の夢の中の私は、いっさい自己卑下がなかった。そんな自分が爽快で、嬉しくて、誇らしかった。
 母にあんなことを言われた時も、皆がいる前なのにそれは違うと泣き叫べたし、誕生日会も嬉々として受け入れていた。恥ずかしさや引っ込み思案などいっさいなく、周りがどう思っているかなんて全く気にもならなかった。この状態が自分をちゃんと大切に、大事に、愛せている状態なのだなと。
 その時に感覚を思い出すと、なんというか「空っぽ」だった。普段の自分の感覚から見ると何もなくてスッキリしていた。それは空虚という意味ではなく、不必要なものが何もない、といった感じ。いつもは周りの目を気にすることでいっぱいだった感覚が一切なくなっていて、ただ自分に素直である自分だけがいる、といった感じだ。
 空っぽなのに満たされる、ってことですね。ん? 空っぽだから満たされるのか。な? 


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