今味わえない高校生活の楽しさとはなんだったのか?
はいどーも、ユーマです。
寒さが本格化してきた12月ですが、いかがお過ごしでしょうか?
朝、布団から出れない日々が続いておりますが、今日もこうして記事を書いていこうと思います。
最近僕は懐かしさや寂しさを感じてしまい、何でなのかを考えたことを今日は書いてみようと思います。
まず、僕が何に懐かしさと寂しさを感じたのかというと、部活に明け暮れた高校生活や高校受験の日々です。あの頃は充実していたな〜という懐かしさではなく、あの時は必死だったな〜という懐かしさです。
今よりも”生きていた”気がします。
今でこそ自分なりに色々なことを考えて生活しているつもりですが、当時の僕は目の前のことに精一杯でした。
中学3年生の時には高校受験。高校時代には部活や勉強、留学中には英語に、残念ながら秋入学で大学に入った私は大学受験というものを体験していないので大学受験の経験というのはないのです。
大学入学後に何もしていないのか??
と言われるとそうではありませんが、大学入学後の精一杯と高校時代の精一杯では明らかに違う点がありました。
新しいことをに触れる回数
大学入学後の活動というのは、どれもこれまでしたことがなく、全てが新しいものでした。そのため、僕は頑張っていたなんて1ミリも感じていません。
しかし、高校受験や高校の部活なんていうのは、ほとんど毎日同じことの繰り返し。昨日と同じことを繰り返すというよりかは、僕は1週間単位で繰り返しの毎日を送っていました。
それなのに、どうしてあれだけ楽しく生きていられたのだろうか?
毎朝、今と比べると早起きをして、通学電車で寝て、遅刻ギリギリで登校、学校では昨日のテレビの話で持ちきり、半分寝ながら6限まで授業を受け、放課後ちょっと友達とだべり、部活をはじめ、学校帰りにマクドに寄って、夜9時くらいに家に帰り、美味しい晩御飯を食べ、月曜にはテラハを見て、12時過ぎには寝る。
今の生活と比べると、機械的とも思える高校時代をなぜ僕は楽しめていたのだろうか?
考えられる理由は3つあると思う。
制限の中に楽しみを見出すのが人間
仮説でしかないが、もしかしたら人間というのは本当の自由になってしまったら楽しみを見出せなくなってしまうのかもしれない。制限の中に生き、その制限を破ろうとすることが楽しみなのかもしれない。学校の校則を破りいらんもんを持っていった時の楽しみ、化粧をした楽しみ、髪の毛染めた時の楽しみ。親がいないときに彼氏/彼女を家に呼んでみたり。
しょうもないと思うかもしれんないが、もしかしたらそれこそが人間の本質なのかもしれない。
今、大学になって僕たちの制限は”倫理”と”法律”の2つになった。
そうなってくると、破るなんていうのは難しく、もはや小さかった庭が広がりすぎて縁までたどり着けない、そんな状況。
そうなると、これまでとは違う楽しみを探すしかない。
もしかしたら、青春とは制限があるからこそ青春なのかもしれない。
昔は、ルールという制限というより、物質的な制限がたくさんあったと思う。
食料、衣類、装飾品なんでもそうだと思うが、満足したレベルで供給されていなかった。そんな中で、1人贅沢をしている時こそが楽しみだったことだろう。
他者との競争こそが楽しみなのが人間
日本人は特にそうだと思うが、偏差値や点数で常に能力を点数化されてきた。そしてスポーツの世界も勝ち負けを点数や速さ、長さ、高さ、近さで決められてきた。
あの時は、より速く、より高く、より強く、より賢く。あいつに勝つために。なんていうことしか考えれていなかった。僕が最後まで勉強でもスポーツでも1番になれんかったが、1番になったとしても、より強い、賢い人が現れる。
終わりなき競争が繰り返される。
この競争社会こそが人間の本当の姿なのかもしれない。
それに、今後は信用度・信頼度までが数字化されるというからもうどうしようもないくらいにアニメ・サイコパスの世界だ。
歴史も常に競争で、より広い土地を、より強い権力を、より豊かな生活を、求め戦争が起きる。
もしかしたら、僕たちが人間でいる限り戦いはなくならないのかもしれない。だからこそ、過去の戦争反対した偉人たちは聖人として呼ばれているのかもしれない。
めんどくさいことは親がやってくれていた
一人暮らしして見て本当に実感するが、あの時の僕は美味しいところだけしか味わっていなかった。
掃除、洗濯、料理、目覚ましで起きる、買い物、支払い、色々とめんどくさいことが人生にはあるが、その全てを親がやってくれていた。
勉強やスポーツみたいな競争が本能的なものだとしたら、競争以外のことを親がやってくれていた。
そのおかげで人生が楽しかったのかもしれない。
これが人間の本能的な男性と女性の役割分担なのかと思ってしまうくらいに。
こんなことを書いていると、いろんな誤解を生むかもしれないが、こういう考えもできるだろう、妄想に耽っているだけだ、と一掃させてもらう。
僕が懐かしさや寂しさを感じていた正体はもしかしたら人間という生き物の本能なのかもしれない。
もう高校時代とは違う。そんなことは全ての大学生が理解していると思うが、大学とはなんとも異質な環境だなと思う。大学に来て、皆が本能的な部分を限りなく抑え、”自分”という作品を作ることに夢中になって来た。
そして、人間的に成熟した考えを持つこと(本能的な考えとはかけ離れること)が個として捉えられ、評価される。
あの人めっちゃ個性的な考えしてて面白い。あの人と話してみると考え方変わるよ。なんて具合に。
しかし、社会に出ると、営業成績を数値化され、競争をしいられ、評価され対価として給料をもらう。会社がない日の余暇が最大の楽しみとなり、同期よりもいい成績を出すことが楽しみとなる。
すごく人間的な社会だ。
大学で得た”自分”とはなんだったのだろう?
その答えはこれから見つけていきたいと思う。
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