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私が考える日本的感性とは

私は自分が日本人であるということ、また、日本人の感性をもって制作することを大切にしています。

私が考える「日本的な感性」とは、一言で言うと

「常に緊張感のある調和」

です。

それは非常に洗練された文化だと思います。

融和でも迎合でもなく、もちろん戦いでもありません。その本来の日本人の絶妙なバランス感覚は大変高度なものだと私は思っています。

日本文化の特質はいわゆる「花鳥風月」の「形式」のなかにあるのではありません。

なぜなら、花鳥風月というのは、砂漠なら砂漠の、ジャングルならジャングルの花鳥風月が存在するからです。また、四季があるのも日本だけではなく、いろいろ地域に、それぞれの地域独特の味わい深く高度な伝統があるからです。

【日本的感性というのは「常に緊張のある調和」である】というのは、一見あいまいで、日本の伝統的形式から離れたような感じがする捉え方ですが、伝統的なものが持つ洗練された形式の否定の意味ではありません。伝統的な形式は大切な共有財産で、私もそれを尊重しています。

ようするに「形式のさらに奥の部分の話」ということです。伝統の形式や、その地域の伝統が固有に持つ特質を形作る”根幹部分”という意味です。

文化の表層に表れる何かしらの形式は時代時代によって変化するのが自然です。同じ日本文化であっても、時代によって表現方法も鑑賞方法も変わります。

制作する側の意図と、それを使う側が感じる事が違う事も良く起こります。

しかし、そのズレの観察と認識がとても大切な事なのです。絶対的に固定され、変わらない価値観というのは存在しないのです。また、固定してしまうと、本質は捉えられなくなります。

【創作物は”創作されたモノ自体”と”鑑賞方法の創作と成立”との両軸が無ければ成り立たず、本質は、そのモノと鑑賞者の間に存在する

からです。

ただ何かが作られただけでは、それはただの人工物に過ぎません。それは意味を持たない物体としか認識されないのです。

また、人々の頭のなかのイメージにあるだけのものは実在しません。

どちらか片方だけでは「人々の心に入り込む事は出来ない」=「存在を認識されない」のです。

例えば現代、古典の花鳥風月のものを観る時、日本人であっても、半分外国人のような感覚を持って観る、という状態なのが実際だと思います。

だから、現代、古い素晴らしい工芸品として把握されているものから感じるものと、それが作られた当時にその時代の人たちが感じている事が違う事もありえます。恐らく、違うと思います。

そんな現代日本人にとっても、昔の日本人にとっても共通する日本人を特徴づける特徴は何か?

数寄屋造り、茶会席の数々の器、着物の取り合わせ、どれをとっても、それぞれの構成要素を見たらバラバラに観えるかのようなものが、全体を見ると調和し、ただ融和するのではなくそこに緊張感と新鮮さがある。

現代日本でも、日本の伝統のもの、新しいもの、また、外国からのもの、それぞれ混在しながらそれをさらに進化させ、新しい価値観を創出し、使いこなして生活しています。

なので、

「日本の伝統の表層にある形式ではなく、その根幹にあるもの」

それは

「常に緊張感のある調和」

であると、私は結論づけます。

そこを捉えると、例えば着物であれば伝統的な建築のなかで調和し、
また、現代建築にも響き合う、というものが産まれます。

そのような姿勢で、私は制作しております。


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