似ているけども違うものは沢山あります
「似ているけども実は違うもの」は世の中に沢山ありますが・・・
一つの例を。。。
私の染めの注文の仕事で、非常に細かく指定をし、途中途中で細かい指示を出して来て、前回の指定で行われたことを後から何度も変更する人ほど、その熱意と裏腹に、具体的には最終的な出来上がりイメージは持っていないものです。
だから変更が多くなり、ドツボにハマって要望や変更が多くなるわけです。
ようするに「作りたいという”思い”は大きいけども、具体性は無い」
場合にそうなります。
その状況が、一番形にするのがむづかしいんですね。
というか、そういう場合は形には出来ないのです。それでもムリヤリ形にする場合は「いろいろやったけどなんだか意味不明のゴミが出来てしまった」となることが殆どです。
優秀な周りの人たちや職人さんたちが、その無茶苦茶な要望をどうにか社会に通用する形にしてくれた、というケースもたまにあります。
それは「実はその”思い”には中身が無い」からそうなるのです。
「本当の創作的天啓を受けた場合」は、制作に関しては最短距離で進みます。ゴールは最初から観えていて、どうやってそこにたどり着くか、ということだけが問題だからです。(最短が10年なんて場合もありますが)
ただし、それが社会的に認められるには時間がかかる場合もありますし、自分が社長の場合、社員にそれを理解されるのにすら、時間がかかる場合も多いです。
しかし「中身は無いが強い”思い”に翻弄されること」は本当に自分も周りも大変です。
これは創作に限らず、一般的な仕事においてもそういうケースが多いと思います。
例えば、規模の小さい会社の社長が、何かアイデアが閃いたらしく、興奮して、突然部下に「これをやろう!」とぶち上げる。
社員たちは、なんだか良く分からないまま、その社長の「閃き」に巻き込まれる。
社長に言われた通りにやるも、言われた通りにやっているのに、あれは違う、これが違う、と文句だけ言われ、しかし具体的なビジョンは示してもらえず、毎度言うことが変わるので、社員はモチベーションが下がる。
そのうち、どうにかこうにか、そこそこの形にはなり、社長はある程度満足するも、しかし社長も本心ではそれが自分の本当に作りたかったものかは実はピンと来ていない。そして社員たち的には「あれだけ大騒ぎして最終的にこれなの?」なものを社長が社会に発表する。
しかし、社会からの評価、理解は無い。スルー、あるいは批判。
それに社長は怒り、社会が自分を認めないことに憎悪を燃やし、社員が自分の思うことを形に出来なかったから社会に理解されなかったのだと罵倒し、また修正させる。
そんなことを延々を繰り返し、社員たちは精神的にも肉体的にも疲弊し、会社は経営的にも行き詰まり、その「社長の閃き」は頓挫する。
残るのはただ残骸と疲労と債務ばかりなり・・・
そう、それは形になるわけが無いのです。
「それは閃きの亜種」だから。
だから「閃きには検証が必要」なのです。
閃いた!と精神や肉体に強く感じた時ほど、検証が必要です。
「その閃きがホンモノなのか、入れ物だけ刺激があるものの、中身が入っていない”閃きの亜種”なのか?」
の検証が。
この中身の無い閃きによって産まれる”思い”は、作るために必要なエネルギーと素材に似ているけども、全く違うものなのです。だから非常に混同しやすく、混同すると確実に迷路に入る危険なものです。
これは別に創作する人に限らず、人間なら誰でも陥るものです。
上にも書きましたが、真に作るためのエネルギーがその閃きにある場合は逆に、最初から結論が観えているのですから、最短距離で核心を捉えられ、形に出来ます。
その核心を社会的言語にするために長年苦労することはあっても、創作的に迷子になることはないのです。
モノが出来て、社会に出してからも
「未来に確実に有用な新しいものが出来たが、それをまだ社会は理解出来ない状態」
のものと
「そもそも、閃きの中身がなかったのにムリヤリ形にして、社会的に役立たないモノしか出来なかったので、社会に無視されているもの」
は「同じ社会に受け入れられないという状況でも内容は全く違う」のです。
そういう違いもキチンと見極める必要があります。
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