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プロは学習し知識が増える程、訓練し技術が上がる程、自由に飛べる

以前、プロとアマチュアについて書きましたが、また少しその事について書いてみました。

いわゆる創作的仕事で、学習や訓練をすると、その身に付いた知識や技術が足枷になり創作的に萎縮してしまうから、あえてそういう事を避けているのだと言う人が創作の分野を問わずおります。

そういう事をおっしゃるのは、自分は純粋な芸術作品を制作しているのだと自称する人たちが多かったように記憶しております。

確かに学習と訓練がその人の感受性を狭めてしまう事は無くはないのですが、それはだいたい間違った考え方をし、間違った学習や訓練をした結果、創作が萎縮したという流れです。創作関係といっても人為と人工物の世界に過ぎませんから、学習と訓練はどうしたって必要なわけです。当然ですね。

もちろん、ここで話題にしているのは、基礎を身体と精神に叩き込み、自分の物として自在に扱える程に実用化した後は、必要な知識や技術はその都度学び、その結果の積み重ねから本当に必要なものだけを選びぬき血肉化する方式・・・「あえて知識や技術を抱え込み過ぎないようにしている人」とは別の話です。そういう人を達人と呼びます。

そういう人たちは「基本的に表現は知識と技術の分だけしか出力されない事」を理解しており、それ以上の理論を超えた表現は「その基盤あって出て来るもの」としているのです。事実を知る人は謙虚で慎重です。だから必要な時に大胆にもなれるのです。

「例外中の例外=天才」の場合は、学習も訓練もほぼ無い状態から世の中を変えてしまう事も起こりますが、しかしそれは一般人には適用出来ません。
(下記リンクは天才について少し書いております)

「学習や訓練は創作の自由を奪う」と思ってしまう人は、

「学習や訓練などで経験した事と自分の感覚を結びつけ、社会化する行為の全体が創作である」

まずそれが前提であり、

「学習+訓練の経験の積み重ね→それを使った自分の創作の社会への発信→結果をデータ化しさらに練り上げる・・・のサイクルを繰り返す事を“習慣化”し、創作時の自分の意識や行為自体を常に自然に観察出来るようになれば、自らの知識や技術に囚われる事は無くなり、むしろそれは遠くに飛ぶための羽になる」

という事を知らないのだと思います。

あるいは薄々感じてはいるけども、逃げている場合もあります。それは「一見遠回りのようで実際には確実かつ早い成長をもたらす」のですが「とても面倒臭い事」でもあるからです。

しかし、

その物凄く面倒臭い事が習慣になっている人がプロだと私は考えています。

習慣になっていれば、その活動は通常時の呼吸のようなものになり、あまり意識されませんし必ず必要なものでもあるので、それに自分の創作を狭められる事は無いのです。言うまでもなく、そのような習慣はあくまでも「常に改良され続ける作業習慣」であり、感覚や認識については固定される事は無く、むしろその学習や訓練により開かれます。

しかしこの問題は、なかなかややこしい面がありまして「ひとりの人間の創作の内部でプロとアマチュアに分離してしまう事がある」・・・これは本当に良く観るケースです。

例えば何かしらのデザイナーとしてプロでやっている充分に実績のある人で、仕事では上記のような厳しさでいるのに「俺の純粋な芸術作品・本当にやりたい作品」なるものを制作する際には「自由ではなく、だらしなくなってしまう事」があります。それぐらい、芸術という言葉は良くも悪くも魔力があるのでしょうね。(以下リンクはその手の話題の記事です)当然、それで良いものは出来上がって来ませんから、だいたいはそのような人の「作品」なるものよりも「日常の仕事」の方が断然レベルが高い事になります。もちろん、こっちの作品は気軽にやっている趣味みたいなものというのなら良いのですが「だからこそ本物の芸術!」などと主張されると萎えます。

自分を天才だと信じたい凡人・・・創作系に物凄く沢山いる、その手の「本当の凡人たち」は自己評価が正しくなく、楽をして成果を欲しがるので「学習や練習から自由になる」という屁理屈と物語を作り上げる事は良くあります。「ありのままの自分」という言葉を自分の都合の良いように解釈するタイプの人たちですね。

人間は基本的に、いかにサボるかを常に考える生き物ですから(私もそうです)面倒な事から逃げて手っ取り早く行き当たりばったりな思いつきを自由な創作と称して作品づくりし、その作品は純粋な芸術品であるがゆえに皆に理解出来るはずは無いのだとし、ゆえに俺様の作品の理解者がいないとしても仕方のない事なのだ・・・としてしまいたくなる気持ちは分からなくもないですけども。

しかし、学習も訓練も無い状態での自己申告の自由というのはだいたい極めて小さい器の中での限定された活動になってしまいます。

それで出来上がった作品の殆どは「どうしようもなく退屈な繰り返しの泥沼に陥った作品」です。その泥濘の中で、どんなに練度を上げても創作的に向上する事はありません。

仮に、それで偶然良い作品が出来たとしても、その後にあるのは偶然出来た良品の自己模倣の連続です。それでは泥濘の粘度が更に上がってしまうだけです。

誰しもそこに陥ってしまう事はあるのですが、そこから本気で抜け出したいのなら、結局は本当の学習と本当の訓練をするしかないのです。その習慣があれば、時にそのような泥沼に落ちてしまう事があっても、這い上がる事が出来ます。

しかし「習慣」には注意が必要です。

「その習慣自体に“安心と快楽がある”ようなら間違った習慣」です。そのような習慣は人を成長させず、その習慣によって行う学習と訓練は創作的には害になります。そういう習慣を身に付けると創作的には最悪です。それは麻薬のようなものです。しかし、例えば健康のためのジョギングを身体と精神に心地良い程度にする、という場合は全く問題の無い事で良い習慣となります。ここで問題にしているのは「創作的には」という事です。

日常生活で説明すると・・・そうそう、歯磨きをするのに、歯の汚れを落とすためにするためにするのではなく、歯磨き自体が目的になり、その行為自体に安心と快楽があると、ちゃんと磨いているつもりが、実際には全然磨けていない、そんな感じです・・・その場合は、どんなに歯磨き法の精度や練度を上げても元が間違っているのだから歯はキレイにならないどころか、やればやる程歯や歯茎が痛んでしまうのです。

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そんなこんなで、私は

知識や技術が増える程、身動き取れなくなり作品がつまらなくなるのはアマチュアで、勉強、知識、技術があればあるほど自由に飛べるのがプロである

と考えます。

プロというと、それでお金を稼いている稼いでいないという話題になり勝ちですが「お金」を基準にすると、その人のやっている事がお金になりやすい分野かそうでないかで当てはまるか当てはまらないかが変わってしまうので、意外にお金の問題ではプロかアマチュアかを計れないのです。

しかし、分野問わず上記の定義と、上記リンク先の記事の内容のように捉えると、色々なケースに適用しやすいのではないかと考えております。


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