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いわゆる芸術と、デザインは社会に出てしまえば同じようなものと思っています

デザインは、他人ありきの創作行為で、常に用途と実用から離れられないから純粋な創作ではないけども、いわゆる芸術は制作する自分ひとりだけの納得で存在しえるからこそ、それは純粋な創作行為であり、芸術であり、崇高なのだ

という言い方は良くされますけども、素晴らしい歴史に残るような芸術家たちは「誰も他人を動かすことが出来ないならそれは芸術ではない」と表明していることが殆どです。

そういう面で、真性芸術家に甘えはないですね。ちゃんと、自分の作品が社会に与える影響に対しても考えているわけです。

「芸術作品は、他人の精神に対して影響を与えるような機能を持っていなければならない」

わけです。

機能しないものは他者に存在を認識されないからです。

また、どんなことにおいても、人間の行為の純粋性が結果としての仕事の質を約束しないのは当然ですから、仮に純粋な芸術行為と思われていることをしても、良い芸術作品が産まれるとは限らないわけです。

もちろん、芸術とはそういう行為そのものを言うのだ、と強弁することは可能ですが、それはちょっと甘えすぎだと思います。そういう人に良い作品が出来るとは到底思えません。

また、古今東西、いわゆる芸術作品でも他者からの発注によって制作されますし、発注主の気に入る、気に入らないはあるわけで、発注主の用途や好みに全く忖度しない制作などというものは、ありえないわけです。人間は社会的動物なので。

また、完全に自分の納得のために作られた芸術作品が、後年、社会的に有名になることもありますが、しかしそれは別に純粋な芸術行為で産まれたものだから、人々が感動し受け入れたのではなく「それを発見し、鑑賞するための理論構築と鑑賞方法を創出した人がいて、メディアによって社会に広報された」結果、それを好む人々が出て、それは芸術作品として認識された、ということです。結局は他人と関わることと、受け入れられたことによって、その存在が認識されるわけです。

なんにせよ、社会と関わることになるのです。

デザインも、いくら発注主がいて、用途と密接だからといって、ただ実用性ばかりを追い求めた結果だけ、では人々に愛されませんし、そこに人の心を動かす何かしらの審美性や、用途のみではない感覚的楽しみは必要なわけです。

デザインにも、用途からはみ出した、精神的、体感的な魅力が必要なわけですね。そこに、いわゆる芸術作品のような創作性が自然に乗ることもあるわけです。

例えば「このカメラはちょっと使いにくいところがあるけども、この形や質感がたまらなく好きだし、その使いにくさがむしろ創作意欲を掻き立てる」なんて「製品」があったりするわけです。

そして、それを産み出した個人、あるいは集団のキャラクターはそこに色濃く出ます。

上に書いたように、

「いわゆる芸術は個人的な感情の発露が出発点であったとしても、その内容に普遍性があり、それが他者へ伝達され、精神的に機能する何かが無いと存在することは出来ない。そして、いくら個人的な感情の発露とはいえ、審美的に魅力がないものは観衆に忌避される」

いわゆる芸術作品にも、デザインのように精神的な機能は求められているのです。さらに経済的な価値も必要です。

個人が自分自身のために、いわゆる芸術作品を作り、発表する事なくそれが消えた、ということであっても、別に芸術行為の純粋性は保てません。それは他者へ存在を認識されていないのですから、それは存在しない、ということになってしまいます。

どうあっても、人間は、社会との関わりと、機能や経済から逃げられないのです。

なので「成果物としては芸術もデザインも特に価値に違いは無いし、上下もない」

ということになります。

初動のみ、いわゆる芸術作品とデザインは違うもの、と言えなくもないけども、しかしそれが社会に出てしまえば、内容としては、どちらもそこに普遍的な美があるか、そして、愛があるか(誤解を受けるかも知れませんが、愛、です)ということだけになってしまうわけです。

(個人的には初動も違いが無いと思っています)

というわけで、私自身は、芸術とデザインは違う、という論理は採用しておりません。人間の創作的な行為の内部構造の殆どはどれも同じ。そういう風に観た方がむしろ枠がなくて面白いからです。


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