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【読書記録】ダイアローグ〜対立から共生へ、議論から対話へ〜

外出自粛の日々が続く中で、どうすればこの期間を有意義に過ごすことができるだろうか…?

前回、読書録として紹介した『リーダーシップとニューサイエンス』を読み終え、まとめ終えた時、今までなかなか手を出していなかった『対話』『組織論』『ファシリテーション』といった分野の古典や名著と呼ばれる本を一冊ずつ読み終え、記録していこう!

そんな風に思いつき、仲間に何か気になる本、ある?と尋ねてみたら出てきたものが、この『ダイアローグ〜対立から共生へ、議論から対話へ〜』でした。

物理学者であり、哲学的な思索を進めた著作を多数出版しているデヴィッド・ボーム(David Bohm)のこの著作は、私自身、20代の頃に読み進めようとして何度も挫折した一冊です。今回は、心機一転、気持ちを新たにこの本をまとめてみようと思います。


この本を一言で表すとしたら?

思い切って一言でこの本をまとめるとすれば…

著者デヴィッド・ボームによる、物理学的な研究成果から見えてきた視点を元に、世界を取り巻く問題に取り組む1つの方法として対話(ダイアローグ)およびコミュニケーションについて論じた実践的な思想書です。

前回の読書録、『リーダーシップとニューサイエンス』でも述べましたが、20世紀初頭以降、物理学をはじめとする科学技術の領域では、絶対と信じられてきた既存のデカルト=ニュートン科学の理論では理解できない実験結果、研究結果が続出し、新たな科学理論の構築と世界観の見直し(パラダイムシフト)が起こっていました。(詳細は以下の当該記事を参照ください)

その中でボームもまた、世界のあり方を「レーザー光線」とそれを用いた「ホログラフィー(立体映像)」に喩えて説明する、「内臓秩序(Implicate Order)」「顕前秩序(Explicate Order)」と言う考え方を提出する等で、デカルト=ニュートン的な考え方をはっきりと否定する態度を示しました。

そして、今回読み進めた『ダイアローグ〜対立から共生へ、議論から対話へ〜』は、これらボームの物理学での探求から、新しい世界観や人々のあり方について思索を進め、コミュニケーションやダイアローグをテーマにした講演録や論文をまとめた一冊となります。

ダイアローグとは何か?

ダイアローグにおいて、人と人、人と集団、人と社会においては何が起こっているのか?

こういった問いに対し、物理学者的な視点からの洞察を紹介してくれている一冊です。

本書は、ボームが亡くなった1992年から4年後に初版が出版され、2004年には『学習する組織(Learning Organizations)』著者であるピーター・センゲ氏の序文を加えて再版されたものです。(邦訳出版は2007年)

90年代までの著者の見解が現在の状況とそぐわない点、今にも共通して問いかけ続けている点等あるかもしれませんが、可能な限り丁寧に紐解いていければと思います。

言葉の定義:ダイアローグの探求の準備として

ボームは本書において、普段何気なく使っている言葉に対して、その語源が意味するものを問うています。また、物理学用語でもある専門語を多義的に用いている場面があるため、はじめにそれらに触れておく必要があるかもしれません。

この問題の議論を始めるには、「コミュニケーション(communication)」と言う言葉の意味を考えることが役立つかもしれない。これの元になったのは、ラテン語の「commun」と、「何かをさせる、やらせる」を意味する、(中略)同様の接尾辞の「ie」だ。だから「コミュニケートする(伝える)」という言葉の意味の一つは、「何かを共通のものにする」である。すなわち、ある人から別の人へ、できるだけ正確に情報や知識を告げるという意味だ。これは、コミュニケーションを広い視野でとらえた場合にふさわしい。

p37

この「対話(dialogue)」という言葉に、私は一般に使われているものといくらか異なった意味を与えたい。意味をより深く理解するには、言葉の由来を知ることが役立つ場合が多い。「対話(dialogue)」はギリシャ語の「dialogos」という言葉から生まれた。「logos」とは、「言葉」という意味であり、ここでは「言葉の意味」と考えてもいいだろう。「dia」は「〜を通して」という意味である-「二つ」という意味ではない。対話は二人の間だけではなく、何人の間でも可能なものなのだ。対話の精神が存在すれば、一人でも自分自身と対話できる。この語源から、人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像やイメージが生まれてくる。これは、グループ全体に一種の流れが生じ、そこから何か新たな理解が現れてくる可能性を伝えている。

p44-45

以上のような意味で、ボームはコミュニケーションおよび、ダイアローグを捉えています。

また、物理学用語にも使われるコヒーレンス(coherence)、およびインコヒーレンス(incoherence)という表現が本書中は頻出するのですが、各種引用もしつつ、以下のような意味で活用されています。

コヒーレンス(coherence)一貫性のある状態、また物理学用語においては、可干渉性光波長の干渉のしやすさを示す度合いのことである。レーザー光線を発生させるためには、まず、両端に鏡を置いたガラス管の中を往復運動させる。初めのうちはバラバラであった光の波長は、時間が経つにつれ、まるで光の波動自体に意思があるかのように次第に波長が揃い、エネルギーが増幅され、秩序が生まれてくる。加速度的に波長が揃いはじめた光は、最後には単一波長のレーザー光線となる。このように、光波長においては、互いに干渉され、位相が揃い、そのことによるエネルギーの増幅のされやすさをコヒーレンス(コヒーレントである)と表現する。

インコヒーレンス(incoherence):一貫性のない状態。支離滅裂であること。また、また物理学用語においては、非干渉性波動が互いに干渉できない性質をもつさま。二つ(または複数)の波の振幅と位相がでたらめに変動し、あらゆる方向に向かっている状態をインコヒーレンス(インコヒーレントである)と表現する。

上記を踏まえて、ダイアローグとは何かを改めて探求を深めていきたいと思います。

ダイアローグとは何か?

ここで一度、本書を読了して中で読み取れた、ダイアローグの定義といったものを思い切ってまとめてみようと思います。

先述したボームのダイアローグの定義、および、世界を見つめる上でのアイデアであるコヒーレンス(一貫性)/インコヒーレンス(一貫性のないこと)の考え方、および本文中の記述等を踏まえると、ダイアローグとは、以下のように表現できるかもしれません。

『ダイアローグとは、様々な背景と異なる思考(=Thought:意見・想定・価値観)を持つ人々が集まりながらも、それらの思考を唯一の絶対的な真実として他の人々を断片化することなく、一人ひとりの持つ意味(意義・目的・価値)を話し、聞き、共有することで、共通意識の構築とそこから生まれてくるエネルギーに参加するプロセスである。』

また、こう言い換えることもできるかもしれません。

『ダイアローグとは、インコヒーレントな思考を持つ人々が集まりながらも、自身の思考、相手の思考に対してまずは保留し、それらすべてを目の前に掲げ、よく見ることで、参加者の暗黙の思考プロセスの変容と、そこから新たに生まれてくるコヒーレントな行動を生み出すことに参加するプロセスである。』

では、このようなダイアローグを求めている世界とは、どんな姿をしているのでしょうか?著者には、どのように世界が見えていたのでしょうか?

なぜ、世界はダイアローグを求めているのか?

まず、ダイアローグがなぜ今の世界で求められつつあるのか、各小論の執筆や講演を行っていた当時、著者がどんな風に世界を捉えていたのか、著者自身の言葉で語ってもらうことが、探求の始まりにふさわしいように思います。

この数十年、ラジオやテレビ、飛行機や人工衛星といった近代テクノロジーのおかげで、コミュニケーションのネットワークは発達し、世界のどこにいても、ほとんど瞬時に他の場所と連絡がとれるようになった。だが、こうして世界的な連絡システムにもかかわらず、今この時点においても、空前の規模でのコミュニケーションの崩壊が、いたるところで起きつつあると誰もが感じている。異なった経済事情や政治体制を持つ、異なった国に住む人々の間では、衝突せずに話すこともできない状態だ。同じ国の中でも、社会階級や経済状態、政治的信念が違うグループ同士では、やはり互いが理解し合えない状態に陥っている。

p36

世界にはどんな問題があるだろうか。あまりにも多そうで、リストにすることすら難しい。戦争は続き、飢餓、拷問、略奪、疾病といった、ありとあらゆる忌まわしい罠が政治上で仕掛けられている。東と西の間には、分極化に等しい現象が見られる−西側は個人と自由の価値を主張し、東側は誰もが管理される集団社会に価値を置く。北と南にも分極化の傾向は見られる−北側は南側よりも裕福である。アフリカや南アメリカ、アジアの南部には、数え切れないほどの問題が存在する。貧困問題は深刻で、国は債務を負い、経済は破綻し、混乱状態が一般的なものとなっている。

p116

これが、著者に見えていた世界の姿です。

では次に、私たち一人ひとりが構成している社会を、著者はどう見ていたのでしょうか?

社会とは、人がともに働き、ともに暮らすために、人によって作られたいくつもの人間関係の結びつきである。社会はルールや法律、制度など様々なもので結ばれている。(中略)その背景には文化が存在する。文化とは意味を共有するものだ。(中略)社会とは共通の意味に基づくものであり、それが文化を構成していると私は考える。コヒーレントな(一貫性のある)意味を共有できなければ、優れた社会は作れない。実のところ、この「意味の共有」があまりにもインコヒーレント(一貫性がない)ため、何らかの意味があるとは言いがたい状態だ。

p82

さて、社会における我々の通常の思考は、「インコヒーレント(一貫性のない)」ものと呼んでいいだろう。それは対立しあったり、互いに打ち消したりする思考とともに、あらゆる方向に向かっている。しかし、人々が「コヒーレント(一貫性のある)」方法でともに考えるようになれば、驚異的な力が生まれるだろう。それが私の提案である。対話できる状況−かなり長い間、対話に取り組んでおり、人々が互いに懇意になっているグループなど−であれば、思考やコミュニケーションはコヒーレントな動きができる。それは人が認識しているレベルにおいてだけではなく、暗黙のレベル、つまり漠然としか感じていないレベルでもコヒーレントなものだろう。この点が重要である。

p58

以上までが、著者による世界および社会の問題意識であり、ダイアローグの可能性を述べた記述です。

先述したように、著者は世界や社会の様相について、コヒーレント/インコヒーレントという、物理学的・一般的な多義的な意味で用いながら説明しています。そして、ダイアローグはインコヒーレントな状況に陥っている世界、社会、人々における意味を共有し、コヒーレントな状態に導く可能性があることを示しています。

では、どうして世界、社会、人々はインコヒーレントな状態に陥ってしまうのでしょうか?

インコヒーレンスをもたらす思考(Thought)

先述したように、ボームは地球上の様々な問題の根源は、対話が的確にできていない状況、「意味の共有(shared meanings)」ができていないこと=インコヒーレントな状態にあると主張しています。

また、社会を一つにするためには「意味の共有」が不可欠になるのですが、そのためには私たちの普段の思考(Thought)を生み出す「暗黙の領域(tacit ground)」の根本的な変化が必要になってくると、合わせて主張しています。

ここでは、私たち一人ひとりの思考が生み出す様々なインコヒーレンスに、どんなものがあるかを取り上げていきたいと思います。

①対象・事実の認識における、思考の構造的なインコヒーレンス

私たちは、一人ひとりが事実を認識していると考えています。しかし、ボーム によれば、人は3つのプロセスを経て、初めて事実を事実として認識します。

1、対象を認識するための関心・興味が暗黙の領域の思考により作られる
2、対象を認識する
3、認識した対象が思考を元に解釈され、事実とする

この3つのプロセスを経る段階で、同じ対象を複数の人が見た時、全く別々の解釈を元に事実として受け取られることは容易に想像されることです。

そもそも、対象を認識するための関心、興味と言うレンズすらも思考から形作られるため、人によっては全く認識されない事物も存在します。

この、対象を認識する時点で既に、人々の間でのインコヒーレンス(意味の一貫性のなさ)は始まっているのです。

また、思考と言う用語の使い方から、ボーム自身は思考を多義的に…意見、想定、知識、価値観といった様々な意味合いを含めた用語として活用していることも見て取れます。

②科学技術の発展・要素還元主義が人々にもたらしたインコヒーレンス

世界、社会、人の思考をインコヒーレントに陥らせてしまう要素の1つとして、ボームはいわゆる要素還元主義的なパラダイム…デカルト=ニュートン科学が生み出した価値観・パラダイムがもたらした物事を「断片化(fragmentation)」する思考傾向について、言及しています。

文明が発達する過程の初期において、思考は非常に価値のあるものと見なされていた。今でもそれは変わらない。我々が誇っている、数々のことを成し遂げたのは思考である。(中略)しかし、なぜか思考は過ちも犯し、破壊を生み出している。これは考え方の一種、すなわち「断片化(fragmentation)」が原因である。断片化のせいで、事物はあたかも個々に存在するかのように、小片に分割されてしまう。ただ分割されるだけでなく、実際には別れていないものまでばらばらにされるのだ。(中略)本来なら適合し、一つにまとまるはずのものが、そうではないような扱いをされている。これが、誤った方向へ向かっている思考の一つである。

p117

他方、20世紀初頭以降の科学技術の発展に伴う世界観・パラダイム転換により、上記のような「断片化」した物事の捉え方だけでは、十分に理解することはできないという見方も生まれてきています。

生命系理論、量子物理学、カオス理論、複雑系理論など、ニューサイエンスのどの分野でも、生命体が参加に依存していることが観測されている。あらゆる生命体が自己の創造に参加し、自己決定の自由を主張している。あらゆる生命体が、環境とともに共適応や共進化のプロセスに積極的に参加している。原子以下の粒子で、ほかの粒子とともに参加せずに存在する粒子はない。さらに、現実でさえ、人間とその興味の対象との間の参加という行為を通じて呼び起こされるのだ。

「リーダーシップとニューサイエンス」p234

③自己の認識・自身の思考への無自覚さが生み出すインコヒーレンス

ダイアローグを行う際には、様々な背景と思考(意見・想定・価値観)を持つ人々が参加することが考えられます。そうなった際、相手と自分の意見の対立が生じることもありますが、それらはいくつかの要素が自己の認識・自身の思考への無自覚さによって生み出されていることがあります。以下、二点を見ていきたいと思います。

1、自身と意見(思考・想定・価値観)との同一化について

意見の対立により葛藤が生まれたり、自分の意見に固執し、守ろうとする姿勢は、どこから生まれてくるのでしょうか?

ボームによれば、それは意見と自分との同一視する想定から生まれてきます。

また、人が意見を守ろうとしている際には多大な暴力性権力、激怒、憎悪、恐怖心によって生まれる)が秘められており、自己防衛的な態度を撮り続ける限り、ダイアローグによって生み出される意味には限界が生じる(=インコヒーレントな状態に止まってしまう)、と説明しています。

2、自身の持つ思考と感情の関わりについて

次に、思考と感情との関係はどのように捉えるべきでしょうか?

文化のせいで、人が思考や感情に関して誤った方向へ導かれていることを知ることが、非常に重要である。思考とは感情とは別のものであり、どちらも互いをコントロールできるのだと、何かにつけて言われることが多い。しかし、思考と感情とは一つのプロセスであって、二つのプロセスではない。p124

ここでボームの言う文化は、人と人との結びつきと、意味の共有によって生まれたものを指しています。また、人を誤った方向へ導く文化とは、意味の共有が十分ではないインコヒーレントなものであることも、これまでのボーム自身の記述から明らかになっています。

④不適当な課題設定を行うことにより生じるインコヒーレンス

ここまで、

①では、思考の構造
②では、科学技術のパラダイムによって影響された思考
③では、自身と思考の関わり

といった様々な形で、インコヒーレンスが生み出されることを見てきました。

最後、思考のもたらすインコヒーレンスについて、この④で取り上げるのは、私たちの目の前に横たわる困難な出来事困難な事実を、「問題」と設定することによってインコヒーレンスが生じる危険性についてです。

では、私たちが何気なく使っている「問題」という言葉について、ボームはどう捉えているのでしょうか。

「問題(problem)」という言葉は、ギリシャ語で「前に投げかけること」を意味する語に由来する。これはまさに、この言葉の本質的な意味だろう。すなわち、議論を投げかけ、困難な事項や不適当な点を解決の方向へ導くための提案に疑問を唱える、ということである。

p138

しかし、問題という形で、なんらかの考えを思いついたときには、潜在的な暗黙の前提がかなりあるだろう。理にかなった活動ができれば、そうした前提は満足させられるはずだ。それは言うまでも無く、発生した疑問が筋の通ったもので、矛盾していないという想定があってのことである。間違っていたり、自己矛盾したりしている前提のある、不条理な問題を気づかないまま受け入れる可能性もあるだろう。しかし、技術的な範囲においては、疑問が不条理であるなら、遅かれ早かれ気づくのが普通だ。

p139

ここで言われていることは、ロナルド・ハイフェッツの提唱した技術的問題(technical problem)適応課題(adaptive challenge)の特徴に対応しています。

技術的問題(technical problem)とは、既存の方法で解決できる問題、適応課題(adaptive challenge)とは、既存の方法で一方的に解決できない複雑で困難な問題のことを指します。

心理的な問題、人間関係に関わる困難な出来事に対しては、「問題」と設定して一方的な「解決」を目指すのではなく、「逆説(パラドックス)」と設定して、その不条理矛盾を「解消」していくことをボームは薦めています。

心理的、人間関係的な困難さに対して、技術的課題に対するような一方向的な解決策を求めるアプローチでは、うまくいかない場合が多いというのです。

なぜなら、心理的な葛藤や人間関係においては、喉が渇いたので水を飲む、というような直線的な解決をする場合が少なく、複数の立場や意見・価値観が並立し、それらの葛藤や対立にどのように対応していくか?というようなアプローチが求められるためです。

ある意見・立場・考え方を一方的に排斥・排除するという一方向的なアプローチでは、よりその「問題」の構造を強化してしまい、混乱は高まり続け、成長し、インコヒーレントは増幅されていってしまうためです。

もっと一般的な話だが、心理的に何か不具合が起きたとき、その状況を「問題」と表現することが、混乱を生むと言えるだろう。そう呼ぶよりはむしろ、「逆説(パラドックス)」に直面している、といった方がいい。

p141

もしも頭がパラドックスを正真正銘の問題のように扱えば、パラドックスには「解決策」が存在しないため、いつまでも囚われ続けることになるだろう。(中略)また、頭の中の無秩序を人が認識するようになったとき、それを「問題」と表現すれば、そう表現した行動自体が、パラドックスを取り巻く活動をより協力で複雑なものにしてしまう。そこで、問題とパラドックスの違いを知り、それぞれにふさわしい方法で反応することが重要なのは明らかだ。

p142

『他者と働く』著者であり経営学者である宇田川元一氏もまた、同じく適応課題へのアプローチに関して、「対話」が有効なアプローチであると述べています。

では、ボームが提唱するダイアローグを進める上で、「意味の共有」をコヒーレントなものにしていくためには、どのような方法や考え方があるのでしょうか?

ダイアローグを促進するコヒーレンスへの道

ここまで世界、社会、人々の内面という様々な場面において「意味の共有」を妨げ、むしろ問題を強化・増幅させてしまうインコヒーレントなプロセスについて探求してきました。

このインコヒーレントなプロセスは、いずれも私たち一人ひとりの思考において発生します。では、この思考をインコヒーレントではなくコヒーレントなプロセスへ導くためには、何が必要になるのでしょうか。

ボームは、私たち一人ひとりの物事の捉え方、感じるものについてより深い気づきを得て、意識していくこと(=自己受容感覚または覚識)、そして、その感覚を持った上で「参加する(participate)」ことが必要として、ダイアローグのプロセスにおいて私たちの内面で渦巻く意味の混乱を冷静に見つめる行為、方法について紹介しています。

以下、三点が特に本書中で取り上げられています。

①保留(suspension)する

どんなグループにおいても、参加者は自分の想定を持ち込むものだと、ここまで述べてきた。グループが会合を続けていけば、そうした想定が表面化してくる。そこで、このような想定を持ち出さず、また抑えもせずに、保留状態にすることが求められる。そうした想定を信じるのも信じないのも禁止だし、良いか悪いかの判断もしてはいけない。(中略)自分の気持ちをあらわにせず、振り返ってみることにする。観察できるように、感情を目の前に掲げると考えてもいい。

②鋭敏さ(sensitivity)を呼び起こす

人が意図的に感情を態度で表そうとしているのではなくても、そうした行動が生じることはわかるだろう。ボディランゲージはコミュニケーションの一部だ。言葉を伴う場合も伴わない場合もある。あなたは態度に表すつもりがまったくないかもしれない。態度に示していても、気づきさえしない場合もあるだろう。鋭敏さとは、何かが起きていることを感じ取る能力だ。自分の反応の仕方や他人の反応の仕方を察知し、ごくわずかな相違点や類似点に気づくことである。こうした点をすべて感じ取るのが認識の基本なのだ。

p102

③観察(observe)の性質を知る

人はたいていの場合、自分の想定が観察の性質に影響を与えているとは思わない。(中略)ある意味で、人は想定を通じて物事を見ている。すなわち、想定はある意味では観察者だと言うことができるだろう。

「観察する」という言葉の意味は、「目で情報を集めること」だとか、「耳で情報を集めること」が「聞くこと」だといった定義からわかる。(中略)このように観察者とは情報を集める人のことである。適切な情報をひとまとめにし、何かしら意味のあるものや映像に組織化している。

p150

観察されるものは観察者によって多大な影響を受け、観察者も観察されるものに影響される−それらは実を言えば、一つのサイクルであり、一つのプロセスなのだ。

p151

以上、①②③のような意識と五感の働きや、思考の動きについての気づきを以て、自身の一貫性を得ていく働きを、ボームは自己受容感覚(proprioception)ないし、覚識(アウェアネス:awareness)とボームは呼んでいます。

自己受容感覚や覚識は、より一般的な表現だと自己認識自己知覚自覚といったものが近いかもしれません。

④分かち合う/参加する

そして、最後。この自己受容感覚ないし覚識を高めた上で、対話に「参加」すること。これが、この読書録の最後に紹介するコヒーレントへの鍵です。

ところで、「参加(participate)」という言葉はどんな意味だろうか?実は二つの意味がある。早く用いられたのは、「分かち合う」という意味だった。人々が食べ物を分かち合う場合のように−全員が共有の器から食べ、パンだろうとなんだろうと分け合う。象徴的なものにせよ、実際的な行為にせよ、昔の人々にとってこの言葉は源泉を分かち合うことを意味した。(中略)二つ目の意味は、「参加する」というもので、人を何かに加わらせることだ。現代ではこれが主流となっている。ある人が受け入れられ、全体の中に入ったことを意味する。人はなんらかの形で自分が受け入れられたという感覚がなければ、どんなものにも参加できないのである。こうした考え方からは、対象と主体との分離は生まれてこない。潜在的な思考として、何かが一体化しているという感覚や感情が作り出されるだろう。

p179

まとめ

以上、デヴィッド・ボームの『ダイアローグ〜対立から共生へ』を読み解くことで、世界、社会、人々、そして一人ひとりの内面においても、暗黙の領域から生まれてくる思考がインコヒーレンス…すなわち、意図や意味が混乱し、問題解決のための行動がむしろ問題を複雑化させたり、増大させているプロセスを見てきました。

そして、私たち一人ひとりの内面のコヒーレンス…意図や意味が共有され、行動に至るまでに一貫性を持つ状態を取り戻していくことの重要性を追ってきました。

以上を踏まえると、

ダイアローグとは、異なる背景・思考を持つ人と人が出会い、コミュニケーションする中で、意味を共有するプロセスに参加し、新たな意味の獲得と、そこから生まれる新たな思考・行動を手にしていく営み

という風に捉えることができるかもしれません。

私はこの読書録のはじめに、二通りのダイアローグの定義を無理やりまとめてみようとしました。

『ダイアローグとは、様々な背景と異なる思考(=Thought:意見・想定・価値観)を持つ人々が集まりながらも、それらの思考を唯一の絶対的な真実として他の人々を断片化することなく、一人ひとりの持つ意味(意義・目的・価値)を話し、聞き、共有することで、共通意識の構築とそこから生まれてくるエネルギーに参加するプロセスである。』

『ダイアローグとは、インコヒーレントな思考を持つ人々が集まりながらも、自身の思考、相手の思考に対してまずは保留し、それらすべてを目の前に掲げ、よく見ることで、参加者の暗黙の思考プロセスの変容と、そこから新たに生まれてくるコヒーレントな行動を生み出すことに参加するプロセスである。』

ここまでお付き合いいただいた読み手である皆さんには、少しでもボームの言わんとする世界観と、その世界観から生まれてきたダイアローグというものを感じていただくことができたでしょうか。

デヴィッド・ボームの推奨するダイアローグの進め方

最後、ボームが実施する中で大事にしていたり、想定しているダイアローグの原則、グランドルールを紹介しておきたいと思います。

①対話のグループ立ち上げの前に、まず「対話そのもの」について探求する
②参加人数は、20〜40人程度を想定。ある組織ないし社会の「縮図」を作る
③輪になって座る
④リーダーを置かず、何の議題・目的も設定しない
⑤進行役の役割は、最終的に自身がグループに不要になるよう促進すること
⑥参加者にとって自由でオープンな空のスペースを設けること
⑦意味が共有され新しい行動が生まれる準備ができた時、グループは終わる
⑧あえて目標を置くとすれば、コヒーレントなコミュニケーションをする事

まとめ終えてみての所感

どうして自分がかつてこの本を読むときに挫折したのか、ようやくその意味がわかりました。

この本で語られていることは、ダイアローグに限らず、デヴィッド・ボームの世界の見方…それも、地球規模から国家、社会、集団、個人の内面に至るまで複数のレイヤーについて言及しているため、その言わんとしている意図を拾い上げ、まとめるということに相当エネルギーを要することが、今回のまとめでよくわかりました。

ただ、物理学者出身のボームの、レーザー光線の喩えから、人々の間で交わされているコミュニケーション、ダイアローグがコヒーレントかインコヒーレントか、という新たな視点を得ることができたことは、大きな収穫でした。

対話をテーマに書かれている書籍は、本書が英語で初めて出版された90年代とは比べ物にならないくらい増えていますが、ボームが構想したように社会はコヒーレントになったのかと問われれば、とてもそうは思えません。今なお、必要とされ続けている考え方のように思えます。

だからこそ、かつての自分はこの本を手に取り、今、読み終えたんだなぁ、と感じます。

「意味が共有」され、対話に参加した一人ひとりの可能性が高まり、願いや祈りが実現されていく世界をめざして、ダイアローグ(対話)に関する探求をまた続けていきたいと思います。

関連書籍〜次なる探求の種として〜

マルティン・ブーバー『我と汝・対話』

マルティン・ブーバー著の対話および、人と人の関係性に関する古典。現在、論文を書いている友人に貸し出し中の一冊。

アダム・カヘン『それでも、対話をはじめよう―対立する人たちと共に問題に取り組み、 未来をつくりだす方法』

ロイヤル・ダッチ・シェル社のシナリオ・プランナー(当時)だったアダム・カヘン氏による書籍。はじめ、お互いの様子を探り合うような形式的・表面的なコミュニケーションから、場そのものから新しいアイデアや感覚が生まれてくる生成的な対話に至るプロセスについても紹介されている。かつて、相棒に紹介された思い入れのある一冊。

宇田川 元一『他者と働く─「わかりあえなさ」から始める組織論』

本文中でも紹介した、2019年出版というごく最近出版された一冊。かつて父から継いだ会社の事業再生に取り組んだ経営学者である著者の、平易な文章でありながら、メッセージも強く、学びになる一冊。

J. クリシュナムルティ 『時間の終焉: J・クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集』

著者デヴィッド・ボームは、生前はアインシュタインとの共同研究を行ったこともあったが、哲学的思索にも精力的に取り組み、インドの哲学者であり教育者でもあるクリシュナムルティとの交流や対話を重ねていた。その対話集である一冊。




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