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<書評>『神智学 超感覚的世界の認識と人間の本質への導き』

『神智学 超感覚的世界の認識と人間の本質への導き』 ルドルフ・シュタイナー著 高橋巌訳 イザラ書房 1977年

神智学

 神智(人智)学で著名なシュタイナーが、神智学を紹介するために最初に出した本。この内容をより詳細に述べたものとして、『神秘学』を後に出版している。巻末にある本人の自歴と解説を読むと、シュタイナーは、19世紀末オーストリアという、当時の知的世界の最先端の地域で、カントからヘーゲル、そしてニーチェに至るドイツ観念論哲学を学ぶ一方、導師(マイスター)と称する人から、オカルティズムを学んでいた。しかし、その当時オカルティズムを前面に出すことは難しい状況が知識界を支配していたため、オカルト研究をしていることは長く秘匿していた。

 しかし、神智学協会及び魔法使いマダム・ブラッバッキーに出会い、また導師から言われていた「40歳になるまで待て」という指示を忠実に守った結果、40歳となった1900年に、自らの霊的世界に関する理論を述べた本書を世に出した。

 ところで、この「霊」と訳したドイツ語の原文はGeistで、手元にある独英辞典を見ると、Mind、Wit、Spirit、Ghostとある。この英訳を参考にすれば、「霊」というよりも「精霊」という方が合っている気がする。ただし、「心」とか「精神」、「機智」、「幽霊」というのは違和感がある。

 本書のシュタイナーの説明によれば、この世には、霊の世界、魂の世界、肉体の世界の三つがあり、さらにそれぞれが七段階に分かれている。そして、霊の世界が最上であり、肉体の世界は倫理的に下等な世界である。そして、この二つの世界をつなぐのが魂の世界であるとしている。この分け方を見たとき、ダンテが『神曲』で表現した、地獄、煉獄、天国の構造をイメージした。たぶん、このイメージが背景にあるのだと思う。

 また、霊の反映となる人のオーラを見られるのが霊見者であり、シュタイナーもそうなのだが、これは恣意的に見るものではなく、霊が一方的かつ不定期に霊見者に見せてくれるのだと言っている。従って、シュタイナーを否定したい「科学者」たちが、実際に霊を見る実験を要求するのは、方法的に間違っていると説明している。

 この霊の世界を受信するイメージの説明を読んでいると、まるで禅で大悟するのに似ているように感じた。シュタイナーは、人と自然との調和、人が自然の声を清聴すること、自然と一体になること等を述べているが、それは禅でいうところの、無心の境地であり、自然の中に自分が溶け込んでしまい、その境界が消えるイメージと同じだと思う。つまり、宗教的に高い境地に達するということは、どんな宗教でも同じ目的地に至ることなのではないか。

 本書で私が面白いと思った二ヶ所を紹介したい。先の人と自然が一体となる部分とダンテの描く煉獄の世界に近い部分だ。

P.98
「人間のために物質的環境世界を知覚し、それに適応できるに足る身体を育成してくれるのが自然であるとすれば、魂界と霊界を知覚するに足る魂と霊を育成することができるのは、人間自身だけなのである。自然自身がまだ発達させなかった高次の器官をこのように育成することは、自然に反した行為ではない。なぜなら高次の観点から見れば、人間が為し遂げるどのような事柄もまた自然に属しているからである。」

P.115
死後魂は、もっぱら自分が霊的魂的世界の法則に従うことで霊を自由に活動させることができるようになるために、物質存在への執着を一切絶つようになるまでの一時期をもつ。魂が物質的なものに拘束されていればいるほど、勿論この期間は延長される。物質生活への依存度の少なかった人の場合は期間が短く、物質生活への関心が強く、死後もなお多くの欲望、願望等が魂の中に生きている人の場合は長く続く。」

 幸い、私は若いころから物質的欲望は薄かった。ブランドの服を着たいという気持ちはさらさらなかったし、高級車を乗り回すとか、スキーやヨットに興じたいとも思わなかった。そして今は、(乏しい年金生活ということが最大の理由だが)なるべく一汁一菜の食生活をしている。大好きな本の購入や映画鑑賞、クラシック音楽、バレエ鑑賞を控え、さらにラグビーはTV観戦(追加料金が出るチャンネルは契約しない)専門になっている。

 十分に質素倹約な生活をしているから、この「物資存在への執着を一切絶つまでの時期」はすっ飛ばして、次の段階に行かれるのではないかと密かに期待している。もっとも、そんなことを期待するという心境は、まさに「物質的欲望」につながるから、まだまだ修行が足りないのだろう。


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