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<芸術一般・エッセイ>関係の哲学
哲学というほどのたいそうなものではないが、この世の人と人とのコミュニケーションとか、人がどう生きているのかとか、なぜ私がここにいるのかなどの、いわゆる根源的な疑問・テーマについて考えることは、昔から哲学という名称を持っていたので、私もそのまま表題に使わせてもらう。
また、表題にある< >内の言葉は、noteマガジンの項目分けなのだが、そもそも<哲学>というマガジンを作っていない上に、私としては、哲学はART(技芸)の一種だと思っているので、<芸術一般>のマガジンに入れた。ただし、そのままだとおさまりがつかないので、そこに「哲学」とか「思想」、「論考」などの言葉を添えることも考えたが、それほど大したことを書いていないので、パスカルの『パンセ』のような意味合いで「エッセイ」という言葉を入れた。
それでは本題に入ることにしよう。
1.「関係」という言葉の定義
まず初めに、「関係」とは何かについての考えを展開する前提として、一般的に使用されている「関係」という言葉の意味を再確認し、次に私が本論で使用する「関係」という言葉の定義を行いたい。
「関係」について、インターネットで検索すると、いろいろと出てくるが、その代表的と思われるものを3つ引用する。
<ウィキペディア>
何か(人・もの・こと)が他の何か(人・もの・こと)と何らかのかかわりを持つこと。
<デジタル大辞泉>
1 二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い。「前後の関係から判断する」「事件に関係する」
2 あるものが他に対して影響力をもっていること。また、その影響。「気圧の関係で耳鳴りがする」「国の将来に関係する問題」
3 人と人との間柄。また、縁故。「あの人とはどういう関係ですか」「友好関係を結ぶ」「父親の関係で入社する」
4 性的に交わること。「人妻と関係をもつ」「妻子のある男性と関係する」
5 (他の名詞の下に付いて)その方面。そういう領域。「音楽関係の仕事」「アウトドア関係の雑誌」
<世界大百科事典 第二版>
哲学用語。伝統的なヨーロッパの存在観においては,独立自存する〈実体〉なるものがまずあって,実体どうしの間に,第二次的に〈関係〉が成立するものと考えられてきた。これに対して,〈関係〉こそが第一次的な存在であり,いわゆる実体は〈関係の結節〉ともいうべきものにすぎないと考える立場が,仏教の縁起観など,古くから存在したが,現代においてはこの〈関係主義〉的存在観が優勢になりつつある。ところで,〈関係〉とは何であり,それにはいかなる種類があるかについての分析的討究は,仏教哲学においても,西洋哲学においてもロックやD.ヒューム以来おこなわれているが,スタンダードな総括的定見はまだ確立していない。
一般的な意味合いでの「関係」とは、デジタル大辞泉の1にあるもので、「二つ以上の物事が互いにかかわり合うこと。また、そのかかわり合い。」である。日常会話で「関係」といったときには、この意味合いで使われている。
一方、いきなり私の考えていることを先取りされた感があるが、世界大百科事典に「哲学用語」として記述されている、「独立自存する〈実体〉なるものがまずあって,実体どうしの間に,第二次的に〈関係〉が成立するものと考えられてきた。これに対して,〈関係〉こそが第一次的な存在であり,いわゆる実体は〈関係の結節〉ともいうべきものにすぎないと考える。」という説明は、私がこれから述べるところの「関係」という言葉の定義に合致する。
なお、上記の説明がやや難解と思われるところ、私なりにもっとかみ砕いて言えば、私の定義する「関係」は、あるものAとあるものBとの間とをつなぐエネルギーがあると想定し、そのエネルギーそのものを、私は「関係」と称している。さらにもっと言えば、そのエネルギー自体の働きを「関係」と認識している。したがって、私の定義をより正確に述べれば、「関係」とは、「あるものAとあるものBとの間に働くエネルギー」である。
そして、この「関係」があるからこそ、AもBもいまそこに在るのであって、もし「関係」というエネルギーがない場合は、AもBもいまそこに在ることはできないと考えている。これを、比喩を使って説明したい。ある一本の紐がある。これがピンと張っている状態になっている。紐がピンと張るためには、両端をしっかりと固定しないといけない。さらに両端をしっかりと固定することによって、紐全体には両端が引っ張られるというエネルギーが発生している。このエネルギーを私は「関係」と称している。
では、この「関係」を、先に例示した紐以外のモノやコトに演繹した場合は、どのようになるのかを次項以下で考察する。
2.人と人との「関係」
最初に考察するのは、人と人との関係だ。それは、別の言葉で言えば、「自己と他者」との関係となる。一般的には、こうした考察の出発点は、デカルト「我思う故に我在り」と述べたような、自分自身がいまそこに確かにいるという自分自身の感覚であろう。しかし、これは自分だけで(他者を媒介することなく)在ることを感覚できているかと言えば、実はそうではない。
自分がそこに在ることを感覚するためには、自分を映してくれる鏡のような存在が必要となる。例えば、暗闇の中にいる場合、人は自分の顔を触ることで自分自身を感じることができるだろうが、例えば声を出して反応がない場合は、心配になってくる。さらに、暗闇という視覚が制限されている中で、自分から発信する聴覚や触覚を大きく制限されたらどうなるだろう。もはや自分の顔を触ってもわからないし、声を出しても声を出していることすらわからない状態に近づく。
そうした状態からわかる第一のことは、自分がそこに在ることを感覚させてくれるのは、まず自分が強く感覚できる距離にいる他者が必要だということだ。また、この他者は人であってもモノであっても、その人に対する存在としては同じ意味になる。自分を感覚させてくれるためには、そこに人以外の犬でも猫でも良いし、花や木があっても良い。雨が降っても風が吹いても良い。自分以外の何かが自分と関係してくれれば、自分がそこに在ることを感覚できる。
しかし、そうした感覚をさせてくれるためには、感覚を感知するための器官とエネルギーが必要だ。それが人と人との間では、言葉や視線、そして行動によって交換されている。これが、人と人との関係となる。
人対人の関係について、もっと具体的かつ発展的に考察してみよう。
まず先に述べた自己と他者が互いに依存することで、あるいは認め合うことで存在しているというこれまでの存在論を説明したい。これは、アイデンティーまたは承認欲求という用語にもつながるが、人は誰か他者に自分を認めてもらうことで、大きな安心を得る。この安心は、そのまま自分がそこに存在している、あるいはこの世に生きるための理由があると認めることにつながっている。
それは、男女の間では多くは愛し合うという感情を交換することで成立するし、親子の間では家族という強い絆によって成立している。さらにこの関係を発展させれば、自分の曲が売れた歌手(ファン、購買層、所属事務所)や、売り上げを伸ばしたセールスマン(お客、同僚や上司、家族)、大臣になった政治家(国民、政府の役人、他の政治家)等が相当するだろう。
こうした他者の存在、そして他者から自分に対して発信される感情を前提にして、自分の存在確認をするというのが、これまでの哲学の認識であった。しかし、その発信される感情に注目することはあまりなかった。この感情というエネルギー自体よりも、その感情の発信元(自己・他者)と受信先(他者・自己)に注目していたのである。
一方、私はその感情のエネルギーそのものに注目する。具体的に言えば、感情には正と負がある。例えば、アラブ社会では「邪視」という言葉があり、他人から悪意の目で見られることを酷く嫌う言葉である。そのため「ファティマの目」という護符が広く使われているほど、他者からの視線からもたらされる悪い感情を恐れている。
しかし、例え負の感情であったとしても、それは自己の存在を認めてくれる感情であるから、自らの存在確認にとっては必要な面も持っている。つまり、良くも悪くも注目される(芸能人、スポーツ選手、政治家等の)スターは、その注目されるエネルギーによって、常に自分の存在確認をしていることになる。
ところが、この「邪視」のような負の感情を投げかけられたとき、人は意識せずとも気分が悪くなるものである。極端な例では実際に病気になることもあるだろう。特にスター的存在の人たちには、世間からのバッシングという悪意の感情を大量かつ集中的に放射される場合もある。まるで魔女狩りのような、大衆のフラストレーションのはけ口としての生贄にされてしまう悪しき事例だ。こうしたことを考えれば、感情そのものは、存在確認にとって有用なものではあるが、その内容が問われるということになる。
つまり、感情というエネルギーは、人の存在を確定させるだけではなく、人の健康を害する力も持っていることになる。そのため、他者から悪意のある感情を投げかけられないように注意することが必要になるが、だからといって、もしも他者がいない、もしいても感情を投げかけられない場合(なお、一般に「無視する」という行為は、感情を発信しているわけなので、そこにエネルギーの流れが発生している。一方、感情がない状態と言うのは、具体的には植物人間等の状況を想像できる)は、自己の存在を確認することができないことになる。
こうしたことから至る結論の一つとして、人は一人では生きられないのではないかということだ。つまり、他者からの正負両面あるエネルギーを投げかけられ、また自分も相手に同様な感情を投げ返すことによって、人は人としてそこに生きられる、また生きていくことができるのではないか。
これに対しては、いや、例えばロビンソン・クルーソーのように、無人島で長い間一人で暮らした人間だっているじゃないか?という疑問が、当然生じてくるだろう。それに対しては、次章で考察したい。
3.人が生活している状況における「関係」
最初にこの考察における結論を提示してみよう。それは、「人が人以外にも関係している」ということだ。前の章では、人対人の関係を考察した。そしてそれが、人が生存するためには重要なものであることを知った。しかし、もし他者がいない場合はどうなるのか?という疑問が生じた。これに対する答えは、「人以外のものとも関係を構築している」ということになる。
前章の最後で、ロビンソン・クルーソーの例えを持ち出した。そこで彼が生活した無人島の状況を想像してみよう。無人島には、人はクルーソー以外いない。しかし、動物はいる。ペットにして人の言葉を覚えこませたオウムがいる。さらに、周囲を囲む海には、多くの魚がいて、クルーソーの食料になっている。水は山から流れてくる川から得られ、木になっている果実も食料になる。家は、木を切って建てられる。衣服だって、木の繊維を縫い合わせれば作れるものだ。
ここに具体的に挙げたものは、みな実際の生活に即したモノたちだ。では、果たしてそれらのモノが、人という他者に代わる存在になったのだろうか。私は「なった」と考える。なぜなら、それらのモノたちによって、クルーソーが生かされてきたからだ。
この「生かされてきた」という意味は、物理的あるいは即物的なものではない。いま私が問題にしている人の存在理由というテーマに沿って理解するところの、「生かされている」という意味になる。つまり、クルーソーは、自分の存在を確認するための関係を持つための他者としての人がいない状況にいるが、その代替物、いや代替などではなく「他者」そのものとして、オウムや魚や水や木や果実と関係を持っていたのだ。
この関係は、先に説明したとおり、人と他者との間に交流する一種のエネルギーであるから、クルーソーは、オウムや魚や水や木や果実との間に、関係のエネルギーを交換していたのだ。なぜそれがわかるのかと言えば、クルーソーが、オウムや魚や水や木や果実のそれ自体の存在を認めているからだ。
そして、存在を認めるための関係としてのエネルギーをクルーソーは発信する。相手はこれを受け止めて、クルーソーに対して返信する。そこに関係としてのエネルギーのやりとりが生じている。そしてその結果、オウムはクルーソーの話し相手になり、魚や水や果実はクルーソーの食料となり、木は生活を支える素材を提供する。その状況は、まるでオウムや魚や水や木や果実が、人のように他者に対して会話しているイメージに近づいている。
私は、この状態はイメージが近いだけでなく、人もその他のモノたちも、同様に人との関係というエネルギーのやり取りができる、また常にそれを行っていると理解している。だからこそ、クルーソーのように無人島でも人は生きることができる。
しかし、何もない空虚な世界では、逆に生きていくことはできない。そうした世界は虚無と名付けられるが、虚無は一切の関係のエネルギーが停止している世界だと言える。
次の章では、虚無がない世界にいる人の存在について、考察する。
4.人がそこに存在している理由としての「関係」
幸いに、虚無は私たちが生活している世界にはない。イメージとしては存在可能だが、実際に虚無の中に入ることはない。私たちの生きている世界は、そこら中に関係のエネルギーが行きかっている世界である。一方、関係のエネルギーが行きかっていない虚無の世界では人は存在できない。存在できないことは、そのまま人がいる世界ではない、その結果、考察の対象外ということになる。
しかし、なぜ人は、虚無でない世界に在るのか。そしてその根拠となるものは何か。もしかすると、関係のエネルギー以外の根拠があるのではないかという疑問が生じてくる。
実際、これまでの哲学や宗教では、そうした根拠を様々な別の絶対的存在に求めてきた。わかりやすく言えば、宗教でいうところの「神」という存在だ。神があるからこの世界が在り、私もあなたも、そこの彼も彼女も、むこうの動物もそれらを取り巻く自然も、すべてそこに在る。そしてまた、そこに在ることができるということだ。
そして、この「神」という言葉の代わりとして、いろいろな言葉や概念を昔から哲学者と言われる人たちは作り上げてきた。しかし、その言っていることは、その力の働きが同じであるのだから、結局「神」と同じものと見なしてよい。単なる表現あるいは言葉の違いでしかない。
それ故、この「神」という概念に囚われている間は、そこから前にも後ろにも進めない、どうどう巡りの場所に留まっていることになる。つまり、哲学者は神概念に囚われているために、神概念を超えることはできなかったのだ。
たしかに、この「神」を根拠とすることはわかりやすく、また安易に据え付けることができる便利な道具・用語だ。しかし、誰もが使いやすくまた理解しやすいというその容易さ及び安易さゆえに、非常にもろく壊れやすいものでもある。
つまり、「神」は意外とあっさりと裏切るし、いなくなってしまう、実は頼りにならない存在でしかないのだ。神は饒舌ではない。寡黙、短い象徴的な言葉、沈黙というものが、神と人とのコミュニケーションになっている(そのため、神の言葉を翻訳・仲介する宗教関係者が出てくるが、彼ら及び彼女らは、決して神の言葉の忠実な翻訳者ではない)のは、実は神の不安定さに起因している。
そのため、そんな不安定な存在を根拠にするわけにはいかないことになる。また、たとえ根拠にしても、不安定さゆえにすぐに消えてしまうことだろう。だから、そうした「神」を存在の根拠として追い求めることは、もういいかげんに止めた方が良いと考えるのは自然なことだろう(紀元一年頃の地中海世界には、「大いなるパーンは死んだ」という噂が広まった。19世紀末のヨーロッパで、ニーチェは「神は既に死んだ」と宣言した)。
一方、私の考える関係のエネルギーはどうだろう。これは私たちがそこに「在る」、モノがそこに「在る」ことを前提にしている。しかし、なぜそこに在るのかは問うてはいない。ただ、そこに在るからという前提で、その相互の間に関係のエネルギーが流れていることに注目するものだ。
これはまた、そこに人が在り、またモノが在る限りは、絶え間なく流れ続けているエネルギーだ。逆に言えば、そこに関係のエネルギーが流れているから、人が在り、またモノが在るということになる。
話が逆じゃないか?と考える人がいるかも知れない。つまり、最初に関係のエネルギーがそこに在って、そのエネルギーによって人が在り、またモノが在る方がわかりやすいではないか、という意見もあるだろう。しかし、それは現実を正確に表現していないことになる。やはり、関係のエネルギーは、それだけでは存在できない。人やモノが在ることで、その間でエネルギーが発生してくるのだ。
そこでまた、問題は振り出しに戻る。では、人が神を頼りにしないとしても、神という存在を感じているのであれば、そこに関係のエネルギーが発生しているのだから、神はいるのではないか?と。
これについては、次章で考察してみたい。
5.「神」あるいは「天」または「自然」と人との関係
この章では、人と神・天・自然との関係とはなにかについて考察したい。
先の章では、人やモノがあり、その間に関係のエネルギーが発生しているということを述べた。従って、神・天・自然というものと人との間に、関係のエネルギーが存在しているのであれば、そこに神・天・自然が在らねばならないと類推できる。
一方、関係のエネルギーは、磁極の流れと同じで、対立する二項以上のものを必要条件としている。それは、人対人、あるいは人対神・天・自然のいずれにおいても、同様にエネルギーが働いていることだ。しかし、関係のエネルギーがそれほど重要なものであるならば、人・神・天・自然などを条件とすることなく、それだけで存在することはできないのか。あるいは、双方向で交流するのではなく、一方通行による関係のエネルギーが存在しても良いのではないか。という二つの疑問が生じてくる。
なぜ、このような疑問が生じるかと言えば、人がそこに不確かながら存在があるように感じている、神・天・自然という対象物は、人からなんらかのエネルギーを発信しても、返ってくること(返事)がないからだ。
それは、永遠のテーマである「神は決して答えてくれない」ということに通じる。だが、神が人に対して答えてくれないという理由だけで、その不在を証明することは難しい。なぜなら、そこに何かあることを証明することは可能だが、そこに無いことを証明するのは不可能だからだ。
従って、無いことは証明できないのであるから、無いという結論は排除され、消極的ながら反対の論理として、神はそこに在るという結論に至る。そして、そこに神が在るのであれば、人との間に関係のエネルギーが発生していることになる。
この神という概念を、私は天及び自然と同等のものと捉えている。なぜなら、それらが人に及ぼす影響力を考慮すれば、同じ対象物と捉えられるからだ。そして、そこに神・天・自然が在るからこそ、人との間に関係のエネルギーが発生している。もし、それらが無ければ、関係のエネルギーは発生していない。つまり、関係のエネルギーがそこに在ることを持って、神・天・自然が在ることを証明していると考える。
しかし、この人対神・天・自然関係のエネルギーは、人対人、人対生物と同じものではない。つまり、関係のエネルギーには、その発生する関係によって異なる種類があるということだ。
この相違は次元の違いに基づいている。つまり、人対人、人対生物に存在する関係のエネルギーは、同じ三次元に在るものとして共通しているが、神・天・自然は、人が全てを把握できない対象であるため、これらとの間に存在する関係のエネルギーは四次元に在るものとなる。
そのため、三次元生物である人には、神・天・自然との間にある四次元の関係のエネルギーを理解することは難しい。またそれ故に、神・天・自然は人に答えてくれない(神は答えない、天は気まぐれ、自然は人の制御下にならない)のであるが、しかしそこに関係のエネルギーは存在しているのは確かである。そして、関係のエネルギーが存在することをもって、神・天・自然はそこに在ると証明する。
以上のことは、論理学的にはトートロジーに陥っているように見えるかも知れない。しかし、関係のエネルギーについては、トートロジーのようにしか語れないという限界がある。
その限界は、人の使う言語には限界があるということに起因する。人は言語で世界の全てを表現可能と錯覚しているが、実は言語で表現可能なのは、世界のほんの一部でしかない。世界は、人の言語能力で捉えられないもので満ち溢れている。その良い事例は、四次元以上の多次元の世界であろう。人は多次元の世界を認識できないから、それを言葉で表現することには限界があるのだ。
しかし、その言葉で捉えられないもののイメージを、敢えて言葉で表現するとすれば、それが、関係のエネルギーなのである。
6.生きることはそのまま「関係」の中に在ることである。
古からの哲学の問いとして、「人はなぜそこに在るのか」ということがある。これに対して、宗教(とりわけ一神教)からの答えは、神が在るからということになる。神の下で、神と契約することを前提に、人はそこに在ることができる。
では、多神教の場合はどうなるかと言えば、神を総括するものとして天がある。天はまた、自然あるいは自然と同意であり、さらに自然と一体化して生きている動物とも結びつけることも可能だ。そこに、始原的な動物神が誕生する理由がある。
一方、一般的な哲学や宗教の歴史では、自然崇拝または動物崇拝をより原始的な低レベルの思考(思想・宗教)と位置付けている。しかし、一概に低レベルと一括して良いのだろうか。もしかすると、そこには「愚者の真理」とでもいうような、生物としての人の持つ直観による優れた洞察があるのではないか。
また、現在の進化した、あるいは地球を支配したともいえる人類は、自分自身が選ばれた生物として特別優れた思考ができると過信した結果、こうした生物としての人が本来持っている始原的な洞察力を、一方的に原始的と見なす不要な先入観によって、盲目的に排除してしまっているのではないか。
いかに人間の科学が発達しても、人は結局生物としての人でしかない。それはまた、地球環境に依存している生物の一種でしかないということだ。この条件だけを見れば、単細胞生物と人との差はないと言っても過言ではない。皆「生物」として同じ存在になるのだ。
そして、何よりも重要なことは、人が生物として存在できるための必要十分条件は、この地球環境という自然があることだ。また、この地球環境は、人が及びつかない宇宙全体の摂理の結果であり、そうしたものは、どんなに人が進化しようとも、人の力が及ぶものでは決してない。
それは、人を超越したところの存在である神による摂理だ。したがって、19世紀末からのヨーロッパの科学偏重の進歩主義が錯覚し、その後20世紀中頃に早くも敗北したように、自然は人が征服したり、打ち勝ったりするような対象ではない。何よりも神が作り上げた対象を、人が征服できるわけがない。
それゆえに、人が自然を神として崇拝することに、論理的矛盾はない。もしそう考えないとしたら、それは宇宙の摂理から外れていることになる。そして、人は自然との関係を常に再確認することが求められる。その再確認する行為が何かといえば、それは、人と自然との間に流れる関係のエネルギーを再確認することである。
そして、この関係のエネルギーを再確認することによって、人はそこに存在していることを再確認できる。もし関係のエネルギーを再確認できないのであれば、その人はそこに存在していないことになってしまうだろう。しかし、自然は万人に平等であるから、偏った関係のエネルギーは存在しない。太陽が等しく地上に日光を射すように、自然は誰彼かまわず、平等に関係のエネルギーを取り結ぶ。
しかし、この人と自然との関係のエネルギーには強弱があるだろう。正確にいえば、その関係のエネルギーを人が強いと感じるか、あるいは弱いと感じるかという違いだ。もし弱いと感じる場合は、それは決して自然からの関係のエネルギーが弱いのではない。エネルギーを受容する側、あるいはエネルギーの線を締結する側である人が、自然との間にあるエネルギーを十分に自覚・再確認できていないからである。
では、どうすれば、この自然との間にある関係のエネルギーを強く自覚・再確認できるのだろうか。その方法は至極単純である。自然との関係を強く意識すること。自分は自然との関係によって生きていること。さらに、自然によって自分が生かされていることを、それぞれみな強く意識することだ。
これに対しては、意外と簡単ではないかという声もあるだろう。しかし、この自然と一体となる強い意識を持つために、例えば禅の達磨大師は、坐禅を面壁五年することで得ることができた。読経ができない愚者であるパンタカは、ひたすら寺社の掃除を愚直に毎日繰り返すことで、この意識を持てた(心を同時に掃除した)。
これらを、禅では「大悟する」という表現をする。また空海の真言密教では、身体の中にマンダラ(世界)を描き、外界のマンダラ(世界)と調和させることで、この強い意識を持つことができるとしている。
真理へ至る道は一つではない。自然と一体となる強い意識を持つ方法も、同様に一つではない。掃除をしても良い、料理を作っても良い。読経するのも、運動するのも良いだろう。何が自分に適しているのかは、自分自身が一番良く知っていることだろうから、自分で最も良いと思う手段・方法を選べば良いのだ。
あとは、それを実践するかしないかの違いだけとなる。そうして、全ての道は真理へと通じている。この通じているということは、そこに強い確かな関係のエネルギーが交流しているということである。
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