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【瑠璃空に愛を。】 ①

【プロローグ】


母は、強くやさしい人だった。
堪えようのない脆さを持っているのは確かに感じるのに、それをおくびにも出さず真っ直ぐ前を見てーーーーーそうして誰かを追いかけているような。

そんな母の背を眺めて時折、父が寂しそうにしているのも気づいていた。
私は、私達家族は、母にとってなんなのだろうかと問いかけを口にしようとしては飲み込んだ。

程よくバランスの取れた均衡で私達、3人家族は成り立っている。けれどその均衡は、優しい春風ひとつで吹き飛ぶ。母が崩れ落ちたら、私達はどうなるのだろうか。それがいつも、いつまでも怖い。

けれど母はいつまでも崩れ落ちなかった。

火葬場で、私と父は笑顔で手を振った。


母は、最後まで強かった。
だから私も、母のように生きる。

あぁ。母も誰かを私のように、誰かの姿を追いかけて走っていたのだろう。
その中でも私達を最期の最後まで愛し抜いてくれたのだ。

「癒真」

くしゃり、頭を撫でられた感触。

「ママは最高でしょう?」

深く、ふかく頷く。

「パパもね」

「ははっ。ママには敵わないですが」

大丈夫。私達はいつまでも、3人家族だ。


【癒空、20歳初夏】

家庭環境が複雑という人は、この世にごまんといるから別に私は自分だけが辛いとか、なぜ自分がと悩み続けた事はあまりない。尤も今は、続けた事がないだけで、幼い頃は何度も無駄な自問自答を繰り返していた。

幼い頃は諦めるという事が、とても苦手だった。

母は、私を確かに愛してくれていたと思う。ただその愛情の方向が妙に歪んでいて、幼い私のキャパシティと情緒では受け入れられず、また理解もしてあげられなかった。だから悲劇だった。
きっと母だけが悪かったのでは、ない。

けれどそれは、自分が自分に言い聞かせるのは許容できるだけで、他人にそれを言われたら私はきっと激怒する。
何も知らないお前が言うのか。あの地獄を知ってから、経験した上でそう言えるのか。

どんなに愛していても、許せない事というのは誰にだってあるだろう。私とて例外ではない、と言うだけ。母も、また。

20歳。大人へと踏み出す節目、そうして大学を辞めた年。
大人になるはずの年齢で、私はひとつ後退りしたのは何故だったろう。

苦労して入った医学部を辞めてしまえば待つ未来は、どん底一筋だ。そんな事、しょうのない頭で考えても分かる事なのに、それでも私には。あの時の私はそうする選択肢しか見えずに、誰にも相談出来ずにひとりで、決めた。

堕ちていけばいいと、思った。どうせ、幼い頃から私の人生は普通のレールを歩む事は到底出来ない運命だった。

友人達が未来へと将来へと、顔を輝かせて前だけを見つめて走り去っていく姿をひとり、何年も何年も目を背けて後ろを振り返っては嘆いた。私には出来ない。出来ないよ、と涙が零れる。私は、だって。だって私は。


ーーーーーーー死にたいんだよ。


口に出してみればほんの7文字。ため息と共に見上げた宵空に吸い上げられて、刹那星屑として瞬いて消えていく。私の涙や想いなど、そんなものだ。広大な世界、1日何万という人が自殺で亡くなっていると言うのか。
人間は自分のテリトリー内の人間以外の事は、気にかけるふりをして割とどうでも良く思っているのが真実で覆しようがない事実だ。人間はそれだから、醜く、そして愛おしい。

母が毎日、嘆いては私の心を突き刺していく。あんたは人生を棒に振るのよ、取り返しがつかない、と。

分かってるよ、と母をこれ以上刺激しないように小さく、けれど理解しているのだと示すように頷く。自分で自分に傷を増やしておいている上にこれ以上、傷つきたくはない。

死にたいよ、と私の擦り切れた心が小さい頃から悲鳴を上げては泣き続けている。私の中で蹲って、今でも泣いている小さな私‘あの子’。

あの子を守る為にも、私は母の言葉にいちいち傷つくわけにはいかない。小さいあの子はもう十分頑張った。走り続けられないはずの心で、20年間走ってくれた。

今度は私があの子を守り、そして望みを叶えてやる番なのだ。

「大丈夫だよ」

一緒に死のうね、と呟くと、膝を抱えて俯いていたあの子が顔を上げてたどたどしく言う。

『ほんとに?』

涙がまたあの子の小さな頬を伝い落ちる。

『助けてくれる?』

「助けるよ。あなたが私を助けてくれたように」

あの子がほっとしたように、固く揃えていた膝を解く。

『お姉ちゃん』

私の頬にも雫がたれてゆく。物心ついた時から何度流してきたか分からない、涙という名の血液。

涙だけで考えるのならば、私は一体何度血を流してきた事だろうか。

「疲れたねぇ」

人生、100年のうち20歳でこんな事を言っていたらこの先まともにやってはいけない。

だけれど、じゃあ。どうしたらこの息が詰まったような、胸の苦しさから逃れられるのか。何度空を見上げて深呼吸しても、息が深く入ってきてはくれなくて。

大学には戻らない、と何度も言い続けているのに、親はいつ戻るの、単位は取れるのと返してくるばかり。
娘が歩んでいたはずの真っ当なレールから外されていくのを認められずにいる現実逃避もいい加減にして、と。叫びたくなるのをギリギリで堪えて、堪えて。現実逃避が許されるなら、人生からさえも逃避してしまいたいのは私の方だよ、と。

大学へ戻れるまでの期限が近づいてくると、親の現実逃避は激しさを増して、あの子にさえ影響を及ぼすようになった。
あの子は毎晩、ごめんなさいと泣き続けるようになった。母親の期待に応え続けられなかった自分と私が重なって、だけれどどうにもならずに来てしまった後悔と悔しさに苛まれて、私も泣きながら夜明けに目が覚め続けた。

もう、どうだっていい。

「死んであげるから」

あなた達に、不出来な『私』も『あの子』も要らないのでしょう。期待に添えない、長女は恥でしかないのでしょう。

私が、『私』でいられる間に。私を殺してくれ、と。

一言、要らないと言ってくれればいい。私の言葉に頷いてくれればそれで。私は、すぐにでも死という楽園へと飛び立てる。空へ駆け上がり、この世でのしがらみも感情も想い出も何もなくなるあの世で。きっと私は本当の意味で、やっと笑えるだろう。

親が何と言ったのかはもはや覚えていない。
ただ気づいたら、訳も分からず父親に精神科に連れて来られていて、精神科医らしき人が話しかけてきていた。

出会ったばかりの人に何も話す事などないので、黙り続ける。横で父親が私の過去の生育歴を、バカみたいに母親寄りの意見に偏った話をしていく。それに頷く精神科医などに話す事なんて本当に数えるほどもない、と頭の中で名前も知らない精神科医に吐き捨てた。

私の心は、毎日欠け続けて一度完膚なきまでに砕け散って、何度も拾い上げようとして幾つかだけ見つけられた欠片だけで生きている歪な、脆すぎるものだ。ホメオスタシスみたいな生物学的バランスも何もあったものじゃない。
心は脳にあると言うなら、それくらいの救いのシステムを適用してくれてもいいんじゃないかと思う。

こびりついてきた恨み悲しみ苦しさに悔しさ、負の感情ばかりが我が物顔で『私』の心を踏みつけては高らかに笑う。どうしてなんで、ねぇと道ゆく幸せそうな人に理不尽すぎる怒りをぶつけたい衝動を何度堪えただろうか。
あなたと私と何が、何が違うって言うの。私だって頑張った。歯を食いしばって、悲鳴をあげ続ける心を騙し騙し、歩きたいのに、時には休みたいのも許さずに走り続けて。

それがいけなかった?休めばいいと言うのなら、それなら助けて欲しかった。休む事を許される環境にして欲しかった。それが無かったから、私はこうなったんじゃない。

顔も知らない誰かへ怒りが渦巻いては、自己嫌悪に陥って。けれど紅蓮の炎のように吹き上がる憎しみは、母親を筆頭にする人々に矛先が向く。

助けてよ。助けてくれなかったくせに。今更、何を言うのか。言うだけなら、正しさだけを押し付けるぐらいなら放っておいて欲しい。
『あの子』の手を優しく引いて、『私』を赦してくれる人が。何処かにいて欲しい、と願った。けれど、いなくていいのかと思い直す。いたら、きっと私は罪悪感で死にきれない。

勝手に父親と精神科医の話がついたらしく、ではまた来週来てくださいと言われた時には?と返してしまった。

「嫌ですけど」

「癒空、行けばいいじゃないか。今時、精神科なんて珍しくもなんとも」

「ーーーーーっ」

そうじゃない。と怒鳴りたいのをまた堪えた。一体、私はいつになったら言いたい事ひとつくらい、口に出来るようになるんだろうか。

私はもう生きたくない。誰にも会いたくないし、誰とも話したくなどない。目に映る世界が今滅びようが今更なんの悔いなどないし、どうにでもなってくれればいい。

帰り道、根本の問題を履き違えている父親にため息をつく。
大学の事など重荷にならない。なるはずがない。幼い頃から抱えてきた物に比べれば、そんなの1ミリグラムにすら満たない。蹴っ飛ばすどころか、存在自体忘れられるレベルの物でしかない。

あなたが、あなた達が小さいあの子にしてきた事を思い出してみたら、と冷たい目を父親の背に向ける。
あなたはあの子を見捨てた。母親はあの子を捨てた。文字にすれば1文字しか違わないのに、それが及ぼす影響は計り知れない。

翌週、私は真面目に病院へと向かった。結局、私は未だに親の縛りから逃れられる術を持たない。
そうして行った病院で少しだけ驚いたのが、私を診察室で迎えたのが先週とは違う先生だという事だった。

「あの....…先週の先生とは」

違うんですね、とバカみたいな事を口にしてから後悔した。目の前の精神科医が、目をパチクリさせてからあぁ、と言った。

「叶さんの担当を今週から代わりました。水澄(ミスミ)雅(ミヤビ)と言います」

「はぁそうですか.....…」

「よろしくお願いします」

「お願いします」

黒縁眼鏡に、男性にしては白い肌。喉から紡がれるのは穏やかなテノールで丁寧すぎる丁寧語。

だけれど、と脳裏で相手を分析する。

この人は一筋縄じゃいかない。私が見つめていると、あちらも真っ直ぐ見返してくる。あちらも私を私より数段よろしい頭で分析している、と肌で感じた。

けれど何も伝わってこない。いつもなら人を見れば大抵の感情は読み取れる私が、なんの感情も読み取れない事に背中が冷えた。それくらい、感情が「無」の人だった。

分かったのは自分をきちんと持っている人という事だ。人に忖度などせず、自分の意思を強く表し、貫き通す。時にそれが強過ぎて他人と衝突しそうだが、と失礼な事を考えている自覚と共に彼の視線から目を逸らした。

私には眩し過ぎる人だと思った。少なくとも、社会的な肩書きも自分の意思も持たなくなった今の私には。

「調子はいかがですか」

「調子、ってなんのですか」

理解出来ずに咄嗟に聞き返すと、彼も驚いたような顔をして付け加えた。

「夜は眠れてますか」

「あぁ.....…はい、5、6時間は。家事をするので朝5時半には起きます」

「食欲はありますか」

「はぁまぁそれなりに」

こんな質問が一体なんになるのか、サッパリだったがとりあえず質問されたらきちんと答えるよう躾けられた反射で答えてしまう。

「大学を辞めると聞いていますが、」

あまりにも自然に口にされたその言葉に、私の心が敏感に反応した。ピリ、と鋭くなった私の雰囲気に気づいたのか気づいていないのか、彼は滔々と話をする。

「はい。それがなにか」

「...…医学部でしたか」

先週の事情を聞いているのならこの質問は無神経かつ無意味だ、と段々イラついてくるのを抑えて、まぁそうですねと言う。

早く、この場から逃げ出したかった。けれど辛い事から逃げるのだけは、昔から私のプライドが許さない。

「何故医者を?」

無神経さもここまでくるとムカっと来て、質問を切り返す。

「逆にお聞きしますが、先生はどうして医者に?」

あまり人の心を慮るのが得意じゃなさそうなのに、と心で詰った。

「僕は人の心が面白かったからですかね」

嘲るような笑いが込み上げてくるのを堪えるのが大変だった。

「..…そうですか」

「ではまた来週ですね。あ、そうそう」

「はい?」

診察室を出ようとする私に、カウンセリングを要請してありますと彼が言った。

「今日は診察が先でしたが、来週以降はカウンセリングを受けてもらってから診察になります」

何故、私の周りには勝手に私の物事を決める人が多いのだろうか。
きっと私がそれに文句を頭の中で並べ立てる癖に、最後には流されて従うのを見抜いているのだ。

「分かりました」

せめてもの抵抗に、バレない程度に小さくため息を残して私は診察室を出た。

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