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舞台 「モモンバのくくり罠」 観劇レビュー 2023/12/02


写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)


写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)


公演タイトル:「モモンバのくくり罠」
劇場:シアタートラム
劇団・企画:iaku
作・演出:横山拓也
出演:枝元萌、祷キララ、緒方晋、橋爪未萠里、八頭司悠友、永滝元太郎
公演期間:11/24〜12/3(東京)、12/8〜12/10(大阪)
上演時間:約1時間45分(途中休憩なし)
作品キーワード:会話劇、親子、宗教2世、罠猟、笑える、考えさせられる
個人満足度:★★★★★★☆☆☆☆


横山拓也さんが主宰し作演出を務める演劇ユニット「iaku」の新作公演を観劇。
横山さんが創作された演劇作品は、2021年4月に再演された『逢いにいくの、雨だけど』以来何度となく観劇しており、大好きな演劇ユニットである。
昨年(2022年)は、11月に上演されている『猫、獅子になる』が第30回読売演劇大賞・優秀作品賞にも選出されており、非常に実力のある劇作家である。

物語は、山中で獣狩りをして自給自足をしている人々の物語である。
小野田健治(緒方晋)と百原真澄(枝元萌)は山中の山小屋に住んでおり、シカやイノシシを罠猟で仕留めて自給自足していた。
ある日、小野田の元へ22歳で動物園の飼育員である進藤駿介(八頭司悠友)がやってくる。
進藤は色々と生意気な口を聞いてきて終始小野田をイラっとさせていた。
進藤は真澄とも挨拶を交わすが、進藤が小学生だった時に真澄のことを「モモンバ」と言って罵ったことがあった。
一方、真澄の夫である百原修(永滝元太郎)と二人の娘の百原椛(祷キララ)は山の麓の町で暮らしていた。
修も椛もかつては真澄と山小屋で自給自足の暮らしていたが、そんな暮らしに耐えかねて町に出てきたようであった。
しかし、修にはとある秘密があって...というもの。

今回の「iaku」の新作公演は、いつもの横山さんの脚本と少しテイストが違っていて、特に前半パートは漫才かと思われるくらい小野田と真澄と進藤のボケとツッコミの応酬がメインで、まるでコメディ作品のようだった。
観客も年齢層高めではあったが大笑いが終始起きていた。
普段の横山さんの脚本ではここまで笑いは起きないので、その軽快で少しあざといくらいの会話劇は私にとって意外であり、特に今までの「iaku」の作品が好きだった方には抵抗を感じるかもしれない。

しかし、後半パートの登場人物6人がそれぞれ本音で言いたいことをぶつけ合う、「iaku」らしい力のある会話劇にはいつも通り心動かされたし考えさせられた。
特に今作では、椛と真澄の親子のやり取りに主眼が置かれていて、宗教2世について考えながら観ている自分がいた。
椛は自給自足で獣を狩る母親のような生き方に違和感を感じ、町で暮らすようになった。
椛だって真澄の元に生まれたくて生まれてきたのではない。

「親ガチャ」ではないけれど、自分ではどうすることも出来ない宿命によって、自分の生い立ちは翻弄され生き方にも大きく影響を及ぼした。
しかし面白かったのは、椛が社会に馴染めないのは全部親の責任なのかということ、椛にだって原因があるのではないかということ。
そこについて自分はあまり考えたことなかったから、彼らのエネルギッシュな会話のやり取りに、新たな視点を投げかけられて、人の気持ちを理解する上での勉強にもなったように思えた。

個人的には「iaku」作品は今までの方が好きだったし、先述した通り客層は年齢層高めであった。
しかし、間違いなく若い世代が観ても色々と思うこと感じることのある作品だと思うので、多くの客層に観て欲しい。6人の役者の演技力も凄まじいのでオススメしたい一作だった。

写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)




【鑑賞動機】

演劇業界で大注目の劇作家である横山拓也さんの新作公演だったから。


【ストーリー・内容】(※ネタバレあり)

ストーリーに関しては、私が観劇で得た記憶なので、抜けや間違い等沢山あると思うがご容赦頂きたい。

暗転し、シカの鳴き声がする。ステージが一瞬明るくなって作りもののシカに照明が当てられる。再び暗転すると、まるでそのシカが罠猟によって仕留められたような音がする。
明転すると、山中の山小屋の外で進藤駿介(八頭司悠友)がスマホで景色を撮影している。そこへ小野田健治(緒方晋)がやってくる。小野田は、進藤に対して景色でなくスマホを見ていたなと追及する。進藤は景色を見ていたというが、スマホの電波が云々という話をしてやっぱりスマホを見ていたではないかと小野田に言われる。そこからしばらく小野田と進藤で言い争っている。小野田は進藤のことを「すんすけ」と呼んでいて、一向に「しゅんすけ」と言ってくれない。
進藤は、どうやら近くの東動物園でライオンの飼育をする飼育員であり、今日は山中でシカやイノシシの狩猟によって自給自足している小野田の元に狩猟体験をしにきていたようだった。
そこへ、大きなシカを引きずりながら百原真澄(枝元萌)がやってくる。真澄が先ほど罠猟で仕留めたシカらしい。そのシカの大きさに進藤は驚き騒ぐ。
真澄はそのまま山小屋へシカを持っていく。小野田と進藤も手伝うことになるが、シカの毛皮を剥いだり内臓を取り出したりする作業に、進藤は吐き気を催していて大変そうだった。小野田には、本当に動物園の飼育員なのかと疑いをかけられるほどだった。そして小野田は進藤に対して、今夜は山小屋で一晩泊まっていけ、飲みニケーションでもしようと進藤を誘うのだった。

暗転して夜。夜の田舎道を自動車で運転する百原修(永滝元太郎)と、その助手席に座る娘の百原椛(祷キララ)がいた。椛の母で修の妻に当たるのは真澄であり、修も椛も山小屋で自給自足で生活する罠猟生活に嫌気がさして町に出てきていた。
椛は、父の修が町で「ディッシュ」という店でスナックを経営していることを今まで知らず驚いているようであった。
道路に狸が飛び出してきて修は驚く。椛は、狸ごときに怯えてどうするのだと修に言う。修は「道に迷ってしまったようだ」と言う。一瞬間があって、それは今この車が走っている道がねと付け加える。Uターンして来た道を戻ったらと言う。

暗転して早朝の山小屋。
進藤が起きていた。どうやら昨晩酒を飲みすぎたようである。山小屋近くにやってきたイノシシに怯える進藤。そこへ小野田も起きてくる、随分と朝早起きだなもっと寝てて良いぞと進藤に言う。再びシカの鳴き声がして、進藤は怯えると小野田には再び本当に動物園の飼育員なのかと疑われる。
進藤は昨日の獣の解体でどうやら筋肉痛になったらしく、全身がだるそうである。しかし小野田は、今日は登山するから体を使うのはこれからだとも言う。だからこそよく寝ておけと言う。
進藤はシャワーを浴びたいと言う。小野田は、1日くらいシャワーを浴びなくても死にやしないと言う。それに今日も登山でどうせ体は汚れるしと。しかし進藤はどうしても体が臭くて気持ち悪いらしく、シャワーを浴びたいと駄々をこねるが、小野田は聞いてはくれない。山小屋でのガスもプロパンガスで発電も自家発電だったりするので、必要以上にエネルギーを使わないのだと言う。
真澄も起きてくる。

そこへ一台の自動車が山小屋へやってくる。そこには、修と椛がいた。真澄は修と椛に再会する。修と椛は進藤に初めて会うので、小野田は事情を説明しようと進藤のことについて話し出すが、自分で自己紹介しろと途中で進藤に振る。
修は、今日真澄に会いに来た理由を語る。まず、ステージ1の胃がんにかかっていたことだった。今回は検査をしてみてステージ1だからまだ命を取り留めることはできたが、そういった病気をしたことによって考え方も変わったようであった。
その次に、町の一角で「ディッシュ」というバーを経営することになったということ。お店を経営するというのは、修の夢でもあったらしい。そのために、今まで勤めていたエネルギー関連の民間企業も退職していた。

そんな話をしていると突然、山小屋に一人の女性が息せき切らしながらやってきた。その女性は並木沙良(橋爪未萠里)といって、修を追いかけてこの山小屋まで電車を使ったり歩いたりしてたどり着いたらしい。
修と椛以外並木のことを知らないので、並木は今「ディッシュ」の店長をやっている者だと自己紹介する。修は経緯を話し出す。修が民間企業で働いていた時代、行きつけのバーがあったが、そこでずっと並木はアルバイトをしていた。ところが、そのバーが閉店になってしまって並木もバイト先を失って働き先を失っていた。そこで修は、そんな困っている並木を助けようと自分でバーを経営してその店長に並木を指名した。バーを経営する資金は修自身が出すから、店長をやってくれと。
それを聞いて、一同はそれは修が並木に恋心を持っているからではと怒り始める。修はそれを否定する、あくまでバーを経営したくて並木に店長をやって欲しいだけだと。しかし並木は、修に妻が山小屋にいてというのを知らず修を訴え始める。昨日の夜だって二人で散々話したじゃないかと。修は並木からも真澄からも追及される。修のバーを経営して並木を助けたいというのは綺麗事で、本当は並木のことが好きだというエゴから来ているものなのではないかと。

それに対して、まるで修を庇うかのように椛が反論する。そんなに修を責めているが、真澄も似たようなものじゃないかと。以前、修も椛も山小屋に住んで自給自足の生活をしていた。椛が小学校のとき、地元の祭りで真澄が獣の解体ショーをやった。しかし、周囲からは非難され一部の学生から真澄のことを「モモンバ」と罵っている者もいたと。そこへ、その「モモンバ」と罵ったのは進藤だったというやり取りが入る。
その後、真澄が狩猟で放った銃の球が椛に当たりそうになって大騒ぎだったことを話す。真澄は、あの時小野田と二人で追っていた獣は、かなりの大物でちょっとした好奇心から銃で仕留めようと思ったのだそうである。その時放った球が跳ね返って椛に当たってしまった。当たりどころが悪ければ命を落としていたかもしれなかった。修は、その様子を見て警察に通報し大騒ぎになった。通報しなければ騒ぎにならなかったかもしれないが、修は通報しなければと思った。その騒ぎがあって、結果的に椛も修も真澄の元を離れて町で暮らすようになった。
椛は、真澄だって自分のしたいような生活をするために、修ではなく小野田と仲良くしているようなものではないかと言う。
そこから椛は自分のことを語る。高校時代に山小屋を出て町で暮らすようになったが、学校でもバイト先でも馴染めなかった。上手く生きていくことが出来なかった。それは、こんな山小屋で自給自足する特殊な家庭環境で生まれ育ったからだと言う。普通の家ではなかったから、だから自分は上手くやっていけない。これは真澄のせいだと訴える。
それに対して真澄も反論する。たしかにこの自給自足の環境は変わった家庭環境だけれど、そのせいによって椛が社会でやっていけなくなったというのは違うと。椛のコミュニケーションの取り方とか椛自身の問題もあるのではないかと言う。全部を親のせいにするなと言う。
真澄は、自分も若い頃は今の椛と同じ悩みを抱えていたと言う。周囲の人間と上手くやっていけなくなって、だからこの山小屋に逃げてきて、自給自足の暮らしをやっていこうと決意したのだと言う。椛も、今はまだ若いから自分に合った人と出会えていないだけ、きっとこれからの人生で出会えるはずだと言う。
しかし、椛は頑なにそれを否定し、自分がこうなったのは真澄のせいだと言う。

そこへ進藤が口を開く。途中途中小野田には黙っていろと言われるが話す。進藤の父親は政治家だった。進藤の父は自分の子供に政治家になるように言ってくる人間ではなかったが、それでも宗教2世の気持ちはよく分かると椛の肩を持つ。

椛は真澄に、今日は何の日だか分かる?と尋ねる。椛の誕生日だね、LINEしたよねと言う。周りの人たちは今日が椛の誕生日だったと知らなかった。椛は真澄にもっと自分の誕生日を祝ってと言う。並木は椛を可愛いと言いながら、ぜひみんなでパーティでもやろうと言う。
真澄は椛に何が食べたい?ケーキ?などと聞く。椛は、首を振って椛が食べたいと言う。真澄が罠猟で取った鹿の肉、イノシシの肉が食べたいと言う。町で食べるコンビニの弁当は食品添加物の味で吐きそうになるから食べられないと言う。一同は驚く。そして真澄は、わかった今から罠猟に出かけると言ってイノシシを取りに行ってしまう。
椛は自分が言いたかったことを言い終わると、その場で眠ってしまった。よっぽど疲れていたのだなと修や並木たちは言う。
そこへ真澄が巨大なイノシシを連れて戻ってくる。一同はびっくりする。真澄は、まだ出産前のメスのイノシシだから美味しいはずだと。真澄や小野田や進藤は、そのイノシシを山小屋で解体し始める。一同は談笑する。ここで上演は終了する。

特に前半部分のパートは思った以上にコメディ作品に仕上がっていて、これは漫才を見ているのかと思わせるくらい会話劇というよりは笑いを取りに行っている感覚が強かった。この脚本・演出に関しては賛否両論分かれそうで、台詞の内容自体もいつもの「iaku」作品に比べてライトで凄く嘘っぽいものに感じられたので、過去の「iaku」が好きだった人からすると不満かもしれない。ただ私は、「iaku」であるという既成概念を取り外して観劇すれば楽しめるかなと思った。
しかし、大きく盛り返しを見せたなと思ったのが後半パート。「iaku」らしい登場人物たちの本音でぶつかり合う言葉の応酬は、観ていて凄く心を動かされた。私自身割と前の方の座席で観劇していたので、その台詞に込められている役者たちのエネルギーを間近で体感できて、これぞ「iaku」だと思いながら観ていた。
少し、2021年11月に上演された『フタマツヅキ』を観劇していた時に近い感覚だった。親と子がそれぞれ思っていることを本音で語ってぶつかり合って、雨降って地固まるではないけれど、全部思っていたことを言い切ったからこその、和解のようなものを椛と真澄にも感じて、最後爽快感があった。こういうのは、最後に観ていて観客側もスッキリするもので良いなと思った。
あとは、宗教2世のことについては観劇しながら色々考えさせられた。「親ガチャ」という言葉も流行しているし、凄く昨今のトレンド的に刺さりそうな脚本だった。自分はあまり親の意向が自分のキャリアに影響を及ぼすことがあまりなかったので、若干他人事のように感じてしまう部分もあるが。だからこそ宗教2世への理解度も深まったし、新たな視点を持てた感じがあって勉強になった。ここに関しては、考察パートで詳細を記述する。

写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)


【世界観・演出】(※ネタバレあり)

過去の「iaku」作品にしては、割と舞台セットや小道具・大道具も具象的で視覚的にイメージしやすい舞台美術だった気がする。それは、山小屋と罠猟という視覚的なものがないと作品として伝わらない脚本だったというのもあるのかもしれない。
舞台装置、舞台照明、舞台音響、その他演出について見ていく。

まずは舞台装置から。
ステージの上手側半分は山小屋が一軒建っていて、下手側半分には奥側に大きな黒い台のようなものが置かれている以外は何もない。この台のような場所では、椛と修が自動車に乗っているシーンが描かれる。そのシーンだけ、台の上にヘッドライトの付いた作り物の自動車が登場する。また、終盤のシーンで椛が眠ってしまう台もここであった。
山小屋は、中に人が入れるようになっていて、左側は獣を解体するための部屋で、右側が玄関や住まいとされる部屋があるのかなと想像していた。一番上手側にはシャワーなどの体を洗えると思われる部屋もありそうだった。山小屋の手前には、複数の木造の小さな腰掛け椅子が置かれていた。
山小屋の手前側には外に水道も設置されていて、実際に水が出るようだった。そこにホースを繋いで中の山小屋で獣を解体する時に水をかけられるようになっていた。あとは、水道の水を出している時に、山小屋の窓ガラスに水が滴ってきて、山小屋の中で水が使われている感じを演出する仕掛けが面白かった。
ステージの下手、上手、そして天井部の、いわゆる端っこ部分には暗幕のようなものがあって、その上に紅葉(もみじ)などの紅葉した葉が散りばめられるように装飾されていた。これによって、全体が山中で紅葉の綺麗な季節だったのかと想像できる。序盤で進藤がスマホで景色を撮影したくなるのも分かる。
あとは、獣を模った作りものが凄くリアルで良かった。序盤に登場したシカの作りものは可愛らしかった一方で、真澄が罠猟によって仕留めたシカやイノシシの作り物は、その毛皮の質感や大きさからして非常にリアルなぬいぐるみで度肝を抜いた。そして若干血のような赤く染まった部分がその獣に見られる当たりが凄くリアルで、観る人にとっては気分を害してしまうかなとも思った。
あまり今までの「iaku」作品では観られなかった具象的な舞台装置に驚きつつ、そのインパクトが良い意味で観客のイマジネーションを刺激していて楽しい演劇作品だった。

次に舞台照明について。
基本的には、全体的な照明としては日中のシーンの序盤と、中盤の夜のシーン、後半パートの朝のシーンなので、派手なものはなかった。
しかし、夜のシーンの照明の雰囲気は好きだった。特に椛と修が町を車で移動している時の照明の暗い感じが好きだった。車のヘッドライトが黄色く明るく照らされていて、車内がぼんやりと明るい感じが、どことなく夜の暗い道を車で走っている様の再現度が高くて個人的に好きだった。
山小屋の夜のシーンで、玄関の黄色い灯りだけ光っていて、中から飲み会時の笑い声が聞こえてくる演出も凄く好きだった。
あとは、朝のシーンは最初は薄暗い早朝という感じの照明から徐々に朝になって明るくなっていく絶妙な変化の照明も凄く良かった。

次に舞台音響について。
やはり、動物の鳴き声のリアルさがとてつもなく素晴らしかった。あの効果音を用意するのとか音源の調整が難しそうだと感じた。
シカの鳴き声って、私は田舎出身で実家ではよく聞いていたので知っているが、なかなか知らない人も多いと思う。あの感じを上手く舞台音響として流しているのは、凄くリアリティを追及しているなと感じた。特に、序盤のシカが現れたシーンでは、音だけでシカの罠猟が行われていると分かる。凄くよく出来た効果音だと思った。
イノシシも鳴き声も同様で、進藤が朝起きた時にすぐそばにイノシシがいそうな感じの効果音を流せて良かった。本当に、すぐそこにイノシシがいるかのような音だった。
客だしの温かみを感じる曲も好きだった。

最後にその他演出について。
舞台上に登場する様々な舞台装置を見て分かるように、罠猟によって獣を仕留めた後の獣の解体の仕方が実にリアルで、物凄い取材したのだろうなということと、舞台装置を作る人々の圧倒的なクオリティに感嘆した。シカやイノシシのような獣を獲ってきて、それを紐で吊るしてという一連の流れを大道具、小道具でやるって凄い再現力だなと思った。今でもあのように自給自足で罠猟をやって暮らしている人々がいるのかと思うと、自分もまだまだ知らない世界があるものだなと思う。
あとは、今回はかなり漫才風に会話劇が繰り広げられるのも面白かった。前半部分では、進藤と小野田でまるで漫才のような会話劇が繰り広げられるのだが、それが歳の差がある故の会話の良い意味での噛み合わなさが良かった。リアリティがあるかというとそうではないのだが、老害で頑固をつきつめたら小野田のようになりそうだし、生意気な若者を極限まで突き詰めたら進藤のようになると思う。あそこまで喧嘩みたくならないように、普通の会話ならどちらも自省するかもしれないが、そうならずお互い全力で若者と老人をやるので、観ていて面白かったし爽快だった。
さらに、小野田と真澄の会話のやり取りも面白かった。こちらの会話も漫才風で夫婦漫才を見ているかのようで、お互いの仲の良さみたいなものを感じた。だからこそ、この二人は夫婦でないのかと後でツッコミを入れたくなるのだが、これはこれで面白かった。

写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)


【キャスト・キャラクター】(※ネタバレあり)

「iaku」の演劇作品はいつもそうだが、役者は6人と少なめではあるものの皆演技力が高くて素晴らしかった。今回はいつも以上に漫才のようなコメディ要素が強かったので、演技力だけでなくキャラクター性も強かった気がする。
6人の出演者それぞれについて記載する。

まずは、罠猟で自給自足をしていた百原真澄役を演じた枝元萌さん。枝元さんは、「iaku」の『あつい胸さわぎ』(2022年8月)でも一度演技を拝見しているし、劇団温泉ドラゴンの『悼、灯、斉藤』(2023年2月)でも演技を拝見している。
『あいつ胸さわぎ』でも今作でも枝元さんが演じるのは、とある娘の母親。今作は罠猟をするというかなり特殊な母親であった。たしかに枝元さんが持つエネルギッシュな演技と声量が、罠猟をする女性としての逞しさと上手くリンクしていてハマり役だった。
また、小野田とのまるで漫才コンビのような掛け合いも凄く良かった。たしかに枝元さんなら夫婦漫才にも挑戦できそうというくらい、台詞のテンポも良くて観ていて爽快だった。
あとは、劇後半の真澄の過去を語るシーンは考えさせられた。社会ではなかなか適応できなくて、山小屋で自給自足していく他自分が生きていく道はないと決断した時、真澄はどれだけ様々な心の中の葛藤を抱いていたことだろうかと思いを馳せた。なんとなく、枝元さんが演じる女性の役はいつも、あまり器用ではない人間らしい女性を演じることが多い気がする。真澄のキャラクター性を観ていても、普通の社会ではやっていけなかったのだろうと感じた。

次に、百原椛役を演じた祷キララさん。祷さんの演技は、玉田企画『夏の砂の上』(2022年1月)、『영(ヨン)』(2022年9月)で演技を拝見している。
祷さんは、いつもミステリアスな若き女性を演じることが多い。それは、祷さんが持つ独特な演技力とその独創性に人々を引き込む魅力があるからだと思っている。そんな独特なオーラを放つ彼女だからこそ、社会に適応出来ないという女性のキャラクター設定を演じることが今作だけでなく、『夏の砂の上』でもあった。観劇していてずっと『夏の砂の上』での役が頭をよぎっていた。
この椛の気持ちもよく分かる。この独特の環境で生きていたからこそ、社会に溶け込もうとすればするほど、自分は普通ではないのだという自覚を再認識させられる辛さみたいなのがもの凄く伝わってくる。
また、自分の気持ちを上手く表現出来なくて真澄に当たっている感じも凄く上手く演技に消化されていて素晴らしかった。だからこそ、真澄がコミュニケーションが上手くいかないのは、家庭環境だけでなく本人の問題もあるというのは一理あると思う。でも、椛はそれを家庭環境のせいにしてしまいたくなる、その気持ちもよく分かって色々考えさせられた。
祷さんの演技は、本当に祷さんでしか出来ない特有のものだから、他作品でもどんどん出演して欲しい。直近だと、ロロの『最高の家出』(2024年2月)に出演されるそうで、そちらも楽しみである。

小野田健治役を演じた緒方晋さんも素晴らしかった。緒方さんの演技は、直近だと劇団チョコレートケーキ『ブラウン管より愛をこめて -宇宙人と異邦人-』(2023年7月)で演技を拝見した。
緒方さんの演技はいつも、昭和を生きてきたオヤジという感じがあって凄く素敵だった。今作は進藤との掛け合いが物凄く良い。進藤は22歳と若く、その上生意気なのでたしかに小野田からしたら一番厄介なキャラクターかもしれない。凄く鬱陶しい奴と思いながらも愛を持って進藤と接する姿が凄く良かった。
緒方さんの演技は本当にリアルで、あんな感じの初老男性は私の周りにもいるので、凄く親近感を感じた。

進藤駿介役を演じた八頭司悠友さんも、初めて演技を拝見したが凄く良かった。
良い意味で私自身もずっと進藤の役には苛立ちを覚えていた。こんなに生意気な若者いるか?とは思ったが、そのくらい煽ってくる感じが丁度良くて観ていて楽しかった。
とことん余計なことを言って小野田を苛立たせるし、ワガママだし、ここまで気を遣わない若者を見ていると逆に好感を持ってしまった。お笑い芸人にいそうなウザくてチャラい感じの青年が凄く鼻について良かった。
でも、最後に椛を庇う感じで自分のことを話すシーンはちょっとずるいなと思うくらいグッときた。誰しもが少なからず親の影響を受けて、それに縛られる感覚というのはあるから。このシーンこそZ世代のような若者が観たらどう思うのか気になるところだった。

「iaku」作品でお馴染みの並木沙良役を演じた橋爪未萠里さんも良かった。「iaku」で橋爪さんが登場すると、どこかで「クソ」という捨て台詞があるのだが、今作では登場初っ端から言っていて笑ってしまった。
百原修役を演じた永滝元太郎さんも、病気をしたという感じもあってどことなく元気なさそうな演技がハマっていた。凄く演技に味があったので、他の作品でも観てみたいと思った。

写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)


【舞台の考察】(※ネタバレあり)

先日、同じ今作を観劇したシアタートラムで、山田佳奈さん作演出の「□字ック」の『剥愛』を観劇した。『剥愛』は、動物を捕獲して剥製を作る剥製師を中心とした物語だった。今作も罠猟という動物捕獲をする人々の話だったので作品のテーマが似てくるのかなと思っていたが、全く違うテーマだったので安心した。
ここでは、椛と真澄の関係性から見えてくる宗教2世について考察する。

宗教2世とは、「特定の信仰をもつ親のもとで、その教えの影響を受けて育った子ども世代」と定義されているようである。この言葉は、昨年(2022年)7月に起きた安倍元首相襲撃事件をきっかけとして、社会的に注目されるようになった。
ご存知の通り、安倍元首相襲撃事件は「統一教会」への恨みがあって山上容疑者が犯行に至った事件だった。山上容疑者の母親は巨額の資金を「統一教会」に献金していて、それによって山上容疑者自身の生活にも大きく支障が出て生活が困窮するほど苦しめられていた。まさしく、親が信仰する宗教によって苦しめられる子供の立場である。
しかし、宗教2世という言葉がこのように社会的に広まったのは、何も山上容疑者だけではなく、親が信仰する宗教によって子供がその影響を受けて苦しんでいる人々が一定数いるからだと思う。
もちろん、「統一教会」を親が信仰していて子供も影響を受けるという事例も複数存在するし、「統一教会」だけでなく、「エホバの証人」や「創価学会」といった宗教に関しても同様の問題が生じている例が数多く存在するようである。特に「エホバの証人」に関しては、脱会者が出ると、その家族に対し、脱会者との連絡を禁じる指導をおこなっているとされ、家族関係の断絶を恐れて脱会出来ない事例も多く、子供も巻き込まれやすいという宗教的構造を持っているそうである。
さらに日本国憲法では、「信教の自由」とは子どもの信教の自由というよりも、親の宗教教育の自由のようになっていたため、法律や行政が「子どもへの信仰継承を規制しようとすること」は、「信教の自由の侵害」という憲法違反(違憲)であるとされてきた部分もあるという。
自分は、そんな宗教とは無縁だったので、そんな事実を知った時はゾッとしたが、この観劇を通じてこういったことを知ることが出来て良かったとも思う。

しかし、今作で提示しているのは、何も宗教2世のように陥ってしまうのは、親が何か宗教を信仰している場合だけに限らないということである。今作の場合は、真澄が罠猟で獣を捕獲して自給自足の生活をしていて、その変わった生活が娘の椛に大きく影響していた。
劇中では、椛は町で暮らすようになってから、コミュニケーションも上手くいってなくて、社会に馴染めない、バイトも務まらないと言っている。それに加え結構考えさせられたのが最後の言葉で、コンビニの弁当は不味くて食べられない、食品添加物ばかりで食えないという話である。真澄のせいで、ずっとシカの肉やイノシシの肉を食べて育ってきた。その味が食事のベースとなってしまったら、普通の食事が食べられなくなってしまうよなと思った。きっとそればかりでなく、シャワーとかもろくに浴びないで暮らしてきたと思うので、普通の町で暮らしたら不衛生と周囲の人たちからは嫌われそうだし、だからといって生活の仕方を変えていくことも椛にとっては大きなストレスになっていったに違いない。これは宗教ではないけれど、間違いなく親の影響によって子供が苦しんでいる良い例なのかもしれない。
進藤は動物園の飼育員をやっていて、普通の暮らしをしていたと思うが、この山小屋にやってきて、獣を解体したり、シャワーを浴びられなかったり、なかなかの苦行を強いられていた。そのくらい、普通の暮らしと罠猟で自給自足をする暮らしには乖離があって、とてもすぐに馴染めるものではないということも物語っている。

さらに、小野田と真澄はちょっとした好奇心で、獣を銃で仕留めようとしたという描写もあった。それによって、危うく椛は命を落とす所だったと。警察沙汰になったということは、きっと町中には小野田や真澄を悪く言う人たちがいてもおかしくない。そんな自給自足で変わった生活をしているから変人なのだというレッテルを貼られてもおかしくない。
そんなレッテルを貼られた親を持っている椛という見方を世間はしてくるかもしれない。それは椛だって、社会の中で生きづらいと思う。「モモンバ」というふうにバカにされた母を持つ椛を思うと、色々と考えさせられるし辛くなる。椛の住む町は、山小屋などがある山の麓のはずなので、東京のような都会ではない。村八分的に椛の噂は町中に広まって、どこかで陰口を叩かれたり軽蔑されているかもしれない。

昨今は「親ガチャ」という言葉が流行っている。これは宗教2世よりももっと広義的な意味での、親を選べないが故に子供を不幸にしてしまうことを上手く捉えた新語だと解釈している。
椛は、「親ガチャ」としてハズレを引いてしまったのだろうか。少なくとも、椛はそう思っているのかもしれない。似たような特殊な家庭環境を持つ親の子供は同じように、「親ガチャ」でハズレを引いたと思っているのかもしれない。自分が、割とその正反対で実家を出て自分のキャリアを都内で歩ませてもらっているので、この辛さは少ない方だと思うが、もし自分がそうだったらと考えると、たしかに生きているのが嫌になるのかもしれない。
ただ、一個救いだと思ったのが、真澄の言葉で人生どこかで自分と似た価値観の人に出会えるということ。真澄自身も小野田という人物に出会えたことが救いだった。決して自分は恵まれなかったと生きることを諦めずに頑張っていれば、どこかで救われるタイミングがくると。

ちょっと綺麗事過ぎるかもしれないが、とても心に響く言葉である。一番やってはいけないのは、親のせいだ、親ガチャだとずっと親のせいにし続けて前進しない人生を歩むこと。コミュニケーションが上手くいかないのは、家庭環境のせいではなく自分にも問題があるかもしれない。親ガチャという言葉こそ、ずっと親の呪縛に囚われた考え方なのかもしれない。自分が幸せになるためには、親のせいにせずに自分が行きやすい環境を見つけて自分らしく前向きに生きることなのかもしれない。
そんなことを教えてくれた演劇作品だった。このメッセージが、少しでも親ガチャで苦しんでいる人たちに届いたら良いなと思った。

写真引用元:iaku 公式X(旧Twitter)


↓iaku過去作品


↓横山拓也さん脚本作品


↓枝元萌さん過去出演作品


↓祷キララさん過去出演作品


↓緒方晋さん過去出演作品


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