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自分にとって「推し」とは何なのか

「推し」とは何なのか。「押し」と音が同じであることが、その用法に及ぼす影響はあるだろう。僕にとっては、それは「ファンである」とほぼ同義なのだが、それにより積極的に応援するというニュアンスが加わる気がする。誰かを後ろから「押す」ようなニュアンスだ。

どうやらゲイ・カルチャーの中では、「推し」には、「お近づきになりたい」「性的に関心がある」というニュアンスがあることを知ったのは、けっこう最近になってからのことだ。それにはもっと適切な言葉がありそうなものだが、そういった慣用的な用法があるのだから仕方がない。以前、ゲイが多く集まっている場で「僕には推しがたくさんいて」という話をしたときに、妙な空気になったことを覚えている。仮に「お近づきになりたい」という意味であっても、それほど変な意味ではないと思うのだが、どこか多情な印象を与えてしまったのだろうか。

確かに、東京に来てまず考えたのは、「推し」達に会うことだった。「推しに会いたい」と「お近づきになりたい」とはちょっと違うと思う。僕はただ推しに会ってみたかった。東京という街では、推しに会いに行ける機会がたくさんある。コンサートや公演、講演の機会は地方の比ではない。行きたいお店だってたくさんある。そんな中で、推しに会いたいと思う気持ちがあるのであれば、会いに行きたいと思うのは当然だと思うのだ。それは、「お近づきになりたい」とはちょっと違う。そもそも、「お近づき」とは何なのか。SNSでつながることか、顔を覚えてもらうことか、一緒に食事をするのか、あわよくば恋人になろうということか。いずれにせよ、それらは「推す」こととは別問題だと僕は考えていた。会ってみたい人と、その後も何らかの形で交流をしたい人とは、必ずしも一致しない。交流をし続けたいかどうかなんて、会ってみないとわからないし、会ってみたところで、そう思うことなんてほとんどないと思う。インフルエンサーであれば、こちらを認知してもらい、情報を拡散してもらうといった下心があるかもしれないけれど、そうでもなければ、何度か会ってみないと、関係性を築きたいかどうかなんてわからないではないか。

少なくとも僕は、推しと必ずしも仲良くなりたいわけではない。確かに、一度や二度話してみたいとか、聞いてみたいことや、応援の気持ちを伝えたい気持ちもないわけではない。だが、仲良くなりたいと思うかどうかは、推す気持ちとは別問題だ。この場合も、仲良くなるとはどういうことか。一緒にご飯を食べたり、長電話でもすることだろうか。そういった関係を築きたい相手と、推しとは必ずしも一致しない。どんなに推していても、ご飯を食べたいわけでもなければ、長電話したいわけでもない。

逆に推してはいなくとも、お近づきになりたい、仲良くなりたい、性的な関心がある、という人はいくらでもいるのではないだろうか。つまり、「推す」とこれらの感情とは、独立したものだと考えた方が良いのではないだろうか。もちろん、関連性がある場合もあるだろうけれども、必ずしもそれらがセットになるわけではないと捉えるのが自然だと思うのだ。

では、「推し」とは何なのか。僕にとっては、「応援したい人」である。僕には「応援したい人」がたくさんいて、これは職業病だと思っている。教師にとって、生徒は「応援したい人」である。どのような生徒であっても、どのような状況であっても、「応援したい人」であることは一致している。教師は、その人を全く知らないところから、その人を全面的に応援することを生業としている。だから、それを一般化して、多くの人に対して、自然と応援したくなってしまうことがある。普段から、人に対して応援したいところ、応援できるところを探し出すことがクセになってしまっているので、すぐに「応援したい人」が増えていってしまう。その結果、「応援したい人」=「推し」がどんどん増えていってしまうのだ。

また同時に、「推し」は自分とは独立した存在である。これは、生徒が自分とは独立した存在であることと一致している。教師は、時に自分と生徒を同一視し、自分と生徒を切り離せなくなってしまうことがある。これは物理的に親密な関係を築きやすいので、仕方がない部分がある。だからこそ、常に自分と生徒を独立した存在として認識するよう、自身のクセを意識して、補正をかける必要がある。だから、それを「推し」に対しても適用する。「推し」は自分とは独立した存在であり、自分の手中にある存在でもなければ、自分に必ず影響する存在でもない。自分の中にある「推し」と現実の「推し」とは別物だし、自分の問題は「推し」の問題ではないように、「推し」の問題は自分の問題ではない。そう意識しつつも、のまれてしまうことはある。けれど、そう意識するよう努めることが必要だと思うのだ。

そんな感じの距離感だからこそ、僕は推しを大量に抱えていられるのかもしれない。彼らはあくまで他人で、互いにどうでも良い存在なのだ。ただし、彼らを応援したい気持ちは本当である。また、もう一つの観点として、「失敗してもなお推せる」ことがある。応援するというのは、その人が失敗したり、負けたり、挫折したり、諦めたりしても、応援するということである。一般的にはネガティブに捉えられるような事態にあっても、応援するということである。むしろ、そのような事態をこそ応援したいと思うのが、こちらの心理である。これもまた、僕にとっての「推し」の条件なのかもしれない。これもまた、職業の影響があるかもしれない。生徒が失敗したり、負けたり、挫折したり、諦めたりしたときにこそ、応援したいと思うのではないだろうか。それは、これらがネガティブなものではないと認識しているということでもある。これらをネガティブなものと認識するのは一面的な見方であり、どのような局面も、裏を返せば価値のあるものとなる。そんなときに、その局面を肯定的に捉え、その際の助けとなろうという心性として、「応援したい」があるのではないだろうか。

実は、そんな「推し」の存在が、最近僕の中で弱まっているような気がしている。「推し」という人としての存在に意識を向けることが少なくなり、より抽象的な概念や作品への意識ばかりに目が向くようになってきている。もっと言えば、人に興味がなくなってきている。個々のクリエイターよりも作品に、人物としてのキャラクターよりも思想に意識が向かっている。どうも、一つに集約された人物を意識しなくなってきている。少なくとも、現在実在する人間よりも、過去の人々に思いをはせることが多くなってきた。結果的に、現在、この現実世界のどこかに存在すると仮定される人物への興味が薄くなってきている。今を生きる人々の雑多で断片的な情報よりも、より体系化されまとめられた故人の方が、親しみを感じている。この傾向は僕に何をもたらすのだろう。人に疲れたのか、人に飽きたのかわからないが、人を人として捉えることの減ってきた今の状況が何を示しているのだろう。


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