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吉川凪[よしかわ なぎ]仁荷大学大学院で韓国近代文学を専攻。文学博士。著書『京城のダダ…

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吉川凪[よしかわ なぎ]仁荷大学大学院で韓国近代文学を専攻。文学博士。著書『京城のダダ、東京のダダ』、訳書『申庚林詩選集』、朴景利『土地』、金英夏『殺人者の記憶法』、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』、『呉圭原詩選集』など。

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  • 朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶[チョン・ジヨン]

    2007年に土曜美術出版販売から刊行した本が入手困難になったため内容を無料公開します。 『鄭芝溶詩選集 むくいぬ』が2021年秋クオンより刊行されるのを期に、 誤記など少しずつ修正しています(2021年8月~)

最近の記事

(2)河原町カトリック教会

 正式にプロテスタント信者になった数カ月後、芝溶はなぜかカトリック教会を訪れます。一九三三年に朝鮮で発表された『カトリック青年』創刊号掲載の「素描1」は、その時の様子を描写しているようです。ここでカトリック信者である女友達「ミスR」に誘われて教会にやってきた主人公は、生まれて初めて見るフランス人神父と教会の威容に圧倒され、かつ緊張しています。  ミスRはにっこりと笑みを浮かべた。僕の早朝の恥じらいは、軽く上気した。 「神父様、こちらは私と同じ国から来た方です」 「信者ですか

    • 五、みなし子の夢

      次に掲げるのは日本語作品のひとつである散文詩「みなし子の夢」です。分析の便宜上、各文に番号をふり、芝溶の日本語が舌足らずで分かりにくくなっている部分には、<>をして注釈をつけてあります。  (1)橋の下をくぐると、乞食でもありさうなみじめさになるものを<乞食にでもなったようなみじめな気持がするはずなのに>――何んで私は橋の下がすきなんだらう。  (2)蜘蛛たちがアンテナをはつてすましこんでゐる下で私ばかりが好きなことばかりを考へこんでゐるのが楽しい。  (3)五拾銭銀貨を、

      • 目次

        『朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶[チョン・ジヨン]』                  吉川 凪 はじめに 第一部 高普[コボ]卒業まで (一九〇三~一九二二)  第二部 京都留学と帰国後の活動(一九二三~一九三〇年代前半) 一、同志社大学英文科   二、『近代風景』   三、ボヘミアンの戯画 1)「カフェフランス」 2) 「パンの会」の異国情調 3) ボヘミアン第一世代と第二世代 四、 日本語詩の意味するもの 五、「みなし子の夢

        • ただしがき

          *本文中で南北分断以前の話をする際には、当時の人々が呼んでいたとおり「朝鮮」と呼び、現在のソウルも、植民地時代の話の中では「京城[けいじょう]」という当時の呼称を使用します。 *これは、韓国の大山[テサン]文化財団による「海外韓国文学研究支援」を受けて執筆、出版された『朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶[チョン・ジヨン]』(土曜美術出版販売、2007)を無料公開するものであり、それ以降に発見された詩篇や事実に関する考察は含みません。 *引用文中の旧漢字は現代式に改めました。 *[ ]

        (2)河原町カトリック教会

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        • 朝鮮最初のモダニスト鄭芝溶[チョン・ジヨン]
          28本

        記事

          日本語作品集

          *鄭芝溶が直接日本語で書いて『近代風景』に発表した詩とエッセイを収録しました。ただし、本文中に全文を引用した作品は入っていません。 また、韓国の民音社から出された鄭芝溶全集には「ふるさと」という日本語詩が収録されていましたが、これは韓国語の詩「故郷」を金素雲が翻訳したもので、芝溶が日本語で書いたものではありません(現在の版に入っているかどうかは未確認です)。   海 O[お]-O-O-O-O といつてかかると O-O-O-O-O とよつてくる。 ゆうべ微睡[まどろみ]

          日本語作品集

          鄭芝溶年譜

          (年齢は数え年) 一九○三(明治三六)年 (一歳) 陰暦五月十五日、大韓帝国忠清北道沃川郡沃川面下桂里四○番地にて父・鄭泰国と母・鄭美河の長男として生まれる。両親はもともと水北里(クェコリとも呼ばれる)に住んでいたが、漢方薬店を開くために下桂里に引っ越した。水北里は、松江・鄭澈の末裔が住む鄭氏の集姓村。 一九一○(明治四三)年 (八歳) 四月六日、沃川公立普通学校(現、竹香初等学校) 入学。 一九一三(大正二)年 (十一歳) 尤庵・ 宋時烈の末裔である宋在淑と結婚。

          鄭芝溶年譜

          結論 鄭芝溶が朝鮮最初のモダニストである理由

           従来、韓国の文学史では鄭芝溶を、優れた言語感覚を見せたものの社会性には欠ける詩人として、比較的軽い扱いをしてきました。しかし実のところ、芝溶は詩作活動を始めた当初から、文学に社会性がなければならないと考えていたのです。ただ、それをストレートに表現するよりも、個人的なレベルに転換して詩的に表わすのが適切だと信じていました。そのことは『朝鮮日報』一九三七年一月一日付に掲載された「文学問題座談会」での次のような発言によって確認できます。「とにかく小説や劇文学などで大成しようと思う

          結論 鄭芝溶が朝鮮最初のモダニストである理由

          六、 詩と現実

           皆、しきりに現実、現実と言うのは、これは現実にとらわれているようですね。犬が死んだって現実だし、孔子が踊っても現実なのに、何をそんなに難しく考えることがあるのですか。現実批判は真理ですが、文学人とは理想人であり、享楽人です。朝鮮文学とは朝鮮語で書かれたものです。そこに朝鮮的な音、 色、喜び、哀楽、すべてのものが書かれるのです。それで充分でしょう。     (座談会「明日の朝鮮文学(下)」、『東亜日報』一九三八年一月三日)  純正文学の悠久な道を歩む人々がいるから、いずれ鮮

          六、 詩と現実

          五、 帰る場所のない「回帰」

           前述のごとく、文壇を席巻していたプロレタリア文学運動が終結した後、西洋的なものより東洋的なもの、あるいは自民族のものを探し求める復古的風潮が、日本でも朝鮮でも見られました。作家や詩人達は古典文学や古典芸術を研究し、古い言葉を自らの作品の中で復活させ、あるいは歴史や民話を素材に作品を書きました。一九三○年代半ばからのこうした風潮は東洋回帰、古典回帰、日本では日本回帰などと呼ばれたりもします。またこの時期の文学には東洋的自然美をうたう自然回帰現象も眼につきます。  日本で東洋回

          五、 帰る場所のない「回帰」

          四 散文詩という形式

           一九二○年代半ばの「幌馬車」、「みなし子の夢」以後、宗教詩「勝利者金アンドレア」(一九三四)を例外とすれば、ほとんど断絶していた芝溶の散文詩が一九三○年代後半、突然復活するのは、なぜでしょう。既に検討したように、『白鹿潭』時代の散文詩は、それ以外の明るく落ち着いたトーンの作品とは違い、侵略戦争が進行する現実の中で積極的に闘えない植民地知識人の苦悩を生々しく伝えています。つまり、『白鹿潭』収録の詩は、形式によって内容に際立って差があるのです。それならば、散文詩という形式が持つ

          四 散文詩という形式

          三、詩集 『白鹿潭[ペンノクタム]』

           詩集『白鹿潭』に収録された詩は、散文詩とそれ以外の作品の二種類に分けられます。散文詩としては「哀しい偶像」、 「むくいぬ」、 「温井」、 「長寿山1」、 「長寿山2」、 「白鹿潭」、 「礼装」、 「蝶」、 「揚羽蝶」、 「チンダルレ(つつじ)」があるほか、『文章』には発表されながらも『白鹿潭』に収録されなかった「盗掘」があります。散文詩以外の作品としては「流線哀傷」、 「パラソル」、 「滝」、「玉流洞」、 「小曲(明水台チンダルレ)」、 「毘盧峯2」、 「九城洞」、 「春雪

          三、詩集 『白鹿潭[ペンノクタム]』

          二、文壇の成立

           プロレタリア文学が勢力を失ってから数年間は、不自由な環境の中でも文学活動が活気を取り戻し一時的な盛況を見せるという現象が、日本と朝鮮に共通して見られました。日本では一九三三年から日中戦争が始まった一九三七年までが「文芸復興期」と呼ばれ、平野謙は『昭和文学史』(一九六三)において、「昭和十年前後」(昭和十年は一九三五年)に注目しています。朝鮮では一九三四年(カップの第二次検挙があった年)から、同様の状況に入ったと見てよいでしょう。言論の自由のない環境で、文学者達は伝統的なもの

          二、文壇の成立

          第三部 『鄭芝溶詩集』発刊以後 (一九三○年代後半~一九五○年) 一、九人会

          朝鮮においては一九二五年から三四年頃までがプロレタリア文学の全盛期で、プロレタリア文学でなければ認められないような雰囲気が、それ以外の作家や詩人を苦しめていました。そうした風潮に反発した人々が一九三三年に「九人会」というグループを結成し、鄭芝溶も結成当時から参加しています。従来、このグループをモダニズム運動の拠点のように評する人が多かったのですが、これは間違いです。  カップが日本のナップをまねて結成されたように、九人会も日本の「十三人倶楽部」(川端康成、尾崎士朗、

          第三部 『鄭芝溶詩集』発刊以後 (一九三○年代後半~一九五○年) 一、九人会

          2)教師として

           徽文高普(後に中学)で英語を教えていた芝溶は解放後、梨花[イファ]女子専門学校(後に女子大学)の教授になり、女学生相手に韓国文学、英詩、ラテン語などを講義します。梨花女専は裕福な家庭の娘達が通うキリスト教系の私立学校で、ブラウスとスカートのしゃれた制服は街でひときわ注目を集めていましたが、そんな学校でも食糧事情の悪い時代には、お腹をすかせていた学生が少なくありませんでした。  「一人分と十人分」というエッセイの中で芝溶は、「先生、お昼を食べてないからお腹すいて死にそうなの

          2)教師として

          八、詩人の素顔            1) 父親として

           時代的には帰国後の話が中心になりますが、ここで少し詩人の人柄について触れておきます。芝溶はあるインタビューの席上、「十年の間に五男二女をもうけましたが、ますます可愛いくなります」(「文人との愚問賢答」『女性』一九三七)と言っていますが、彼の子供のうち、男の子二人、女の子一人は幼くして亡くなったようです。一番最初の子供は女の子で、芝溶が京都に留学している時に生まれ、数年後に病気で亡くなりました。頑固な封建主義者であった芝溶の父は初孫に男の子を期待していたのに女の子が生れたもの

          八、詩人の素顔            1) 父親として

          (3)明洞[ミョンドン]聖堂

           天使ガブリエルがマリアに受胎告知をする場面の聖画を『鄭芝溶詩集』(一九三五)の表紙に使っていることからも分かるように、帰国後も芝溶の信仰は衰えませんでした。盧基南[ノ・ギナム](一九○二~八四)大主教は、一九四六年一○月にカトリック教会が創刊した京郷新聞の初代主筆として鄭芝溶を起用したのは、芝溶が「熱烈なカトリック信者であり、私が鐘峴[チョンヒョン]聖堂(現在の明洞[ミョンドン]聖堂、韓国カトリックの総本山)の補佐神父だった時から鐘峴聖堂によく出入りしていて親しかった」ため

          (3)明洞[ミョンドン]聖堂