五、みなし子の夢

次に掲げるのは日本語作品のひとつである散文詩「みなし子の夢」です。分析の便宜上、各文に番号をふり、芝溶の日本語が舌足らずで分かりにくくなっている部分には、<>をして注釈をつけてあります。

 (1)橋の下をくぐると、乞食でもありさうなみじめさになるものを<乞食にでもなったようなみじめな気持がするはずなのに>――何んで私は橋の下がすきなんだらう。
 (2)蜘蛛たちがアンテナをはつてすましこんでゐる下で私ばかりが好きなことばかりを考へこんでゐるのが楽しい。
 (3)五拾銭銀貨を、ひとつひろつた。嬉しいこと! ここはまつたく好きになつた。 神さまは今でも有りがたいな。
( 4)蜜柑の皮をむいて食べたり夢にもならないことばかり考へたり 綺れいな流れに足を ざんぶりこ と入れる。ちろろちろろ 木琴[ザイロフオーレン]<ザイロフオーン(xylophone)の誤記>を鳴らすばかりにこころもちが涼しい< 木琴でも鳴らしたかのように気持が爽やかだ>。
 (5)夜はこういふ所に いつそう こんもりと より蒲[た]まつてゐる。<溜まつてゐる。>私のこころは蝙蝠でもつかまふとするのか。
 (6)がつたん・がつたん・がつたん・・・ ほー 誰れだ? 私がここに ゐるよ。
 (7)のそり のそり と橋の影<陰>をぬけでる。
 (8) 大きい空よ。星よ。むらがつてゐる夜の群れよ。魔の円舞[ロンド]を踊るビロードの夜よ。
 (9)こんな大きい夜とともに遊ばう。私が躍ねる。蛙が いつぴき 躍ねる。私が躍ねる。蛭<蛙>が いつぴき 躍ねる。
 (10) 流れる水をさかのぼつてゆくのは びつこを引く野鶴ばかりでもない。砂に埋められる私の足ゆびが白い魚たちのやうにかしこくなる。
 (11)このままでだんだんさかのぼつてゆく。どこまでもいかう。
 (12)山の奥、岩のかげま<岩の陰>、しづくのしたたる辺り。蟹たちが逢ひびきしてゐた。そこに古し<懐かし>のお母さんが蝋を明かしてゐりやつさる< ろうそくを灯していらっしゃる>。
 (13)このままでだんだん下つてゆく。どこまでもいかう。椰子の葉がひとつ漂流[なが]れてきた。
 (14)溺れじにした悪い人がひとり漂流れてきた。 眼が生きてゐた。
 (15)小婦[エミナイ]たちは みいんな 子指さきを鳳仙花で紅く染めてゐた。水かめを頂いた<戴いた>列が黄い<黄色い>夕暮れの中を帰つてゆく。
 (16)小供[オリナイ]達は みいんな 人さしゆびを口にくはへてゐた。遠く霞んだ島島をほれぼれと見とれてゐる。ふくよかにふくらんでゐる帆かけ船が独楽のやうにすべつてゆく。 
 (17)生れ故郷の海辺は秋西瓜のやうに淋しい。
 (18)風が少し吹いてきた。しめつたるい風だ。
 (19)蛍が草むらに逃げまどってゐる。
 (20)星が菖蒲のお湯から出たばかりに<出たばかりのように> びつしより濡れてふるへてゐる。雨模様だ。
 (21)私は又橋の下にひき蛙のやうにひきこまねばならない。濡れやすい心はブランケツトを欲しがる。あそこに暖かい火が咲いてゐる――

 (22)――十年立つても<経つても>恋でもない みなし子の夢がつづく。

 (23)窓がらすがあわただしう< あわただしく>わななく。風。どこかで水鶏が ぷん!  ぷん!
(「みなし子の夢」、『近代風景』 二巻 二号、一九二七。二、原文日本語)

まずこの詩を四つの部分に分けて考えてみましょう。

(1)-(9) 話者の住む現実世界(川辺、橋の下)
(10)、 (11) 夢の世界への移動過程
(12)-(17) 夢の世界
(18)-(23) 現実世界への帰還

 この詩は話者が異界に一時的に入ってまた戻ってくるという、いわば神話や民話のような構造になっています。
 時間的には夜であり、話者が川の水の冷たさを楽しんでいること、蛍が出てくること、火や毛布を恋しがっていること、秋の西瓜という言葉があることなどから考えれば、季節は朝夕にちょっと肌寒くなった晩夏ないしは初秋でしょう。故郷の風景を描写する部分では「エミナイ」(方言で、女の子という意味)、「オリナイ」(幼い子供)という朝鮮語の単語がそのまま日本語の中に混在しており、この詩の話者が朝鮮半島から来たのだということを示しています。
タイトルは「みなし子の夢」ですが、話者は孤児ではないのに孤児の孤独を楽しんでいるように見えます。河原という場所は古くから社会秩序から疎外された人々の集まる場所でした。橋の下については、お前は橋の下で拾ってきた赤ん坊だったと子供をからかう習慣は、朝鮮にもあります。そこは橋の上を通りすぎる人達には見えにくい閉鎖的な空間であり、話者がわざわざそこに入りたがっているところを見ると、彼には母胎回帰の欲求があるのではないかと思われるのですが、橋の下にかけられた蜘蛛の巣は、閉鎖的な空間をより閉鎖的なものにしています。「夜はこういふ所に いつそう こんもりと より蒲[た]まつてゐる。」と言っているように、暗い夜にも橋の下は、よりいっそう濃密な闇のたちこめる空間であり、異界に通じる神秘的な場所です。獣と鳥の二面性を持つ蝙蝠は、その場所が二つの世界の中間に位置していることを暗示しているようですし、川そのものも、この世とあの世との境界にある三途の川を連想させます。続いて話者はがったんという音を聞きますが、これは異界から使者がやって来た時に立てる音で、話者はまるでそれを待っていたかのように橋の下を抜け出します。外で待ち受けていたのは魔のロンドを踊る夜の群です。それは神秘的でビロードのように柔らかく温かい感触を持っていて、話者と一緒に遊んでくれる妖精のごとく人格化されています。
 話者は流れる川の水の中に裸足で入ってゆき、水の源に向かって遡り始めます。足の指が魚になったように感じるのは、話者が、自分の行き先を本能的に悟っているからです。
 (12)で話者は異界に完全に入り込んでしまいます。懐かしいお母さんがろうそくを灯している山奥、岩の陰、水が滴り落ちている所は母の子宮を連想させ、蟹達の逢いびきも性的イメージを強めています。つまり話者は現実の世界を抜けて赤ん坊に退行し、母胎に回帰したのです。したがってそれまで遡っていたのが、突然下り坂に変わっていたとしても、話者の心理の中では矛盾しません。話者は方向を変えたのではなく、過去の記憶に向かって下りているのですから。椰子の葉は、遠くの暖かい国、すなわち過去の幸福な記憶の世界からもたらされた便りであり、その暖かさは橋の下の肌寒さと対照をなしています。
 この部分から連想されるのは、島崎藤村の新体詩「椰子の実」(一九○○)「名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実ひとつ/ふるさとの岸を離れて/汝[なれ]はそも波に幾月(…)」」でしょう。 椰子の葉が流れ着くのが川ではなく太平洋側の海岸だということを考えれば、この場所が先ほどの川岸とはまったく違う世界であることが分かります。川を遡って山に入った話者はいつのまにか海岸に来ているのです。話者の故郷は朝鮮半島ですから椰子の葉は流れてこないでしょうが、そもそもこれは夢ですから、こんな非論理的な空間移動も可能なのです。
 悪い人の死体が何を意味するのかは定かでありませんが、幼な心にさまざまな場面で遭遇する恐怖、特におぼろげながら理解しはじめた死に対する恐怖のようなものの象徴ではないかと思われます。芝溶が愛読したであろう白秋の『思ひ出』は、小さな子供の繊細な感情のゆらぎを描写する感覚的な言葉に溢れた詩集ですが、その中の「敵」という題の詩は、子供が故なく覚える恐怖をよく表わしています。この詩では話者である子供が、道を通るときになぜか、「いづこにか敵のゐて、/敵のゐてかくるるごとし、」とおののきます。また同じ詩集にある「青き甕」という詩は、白秋が七歳の夏、コレラが流行したときの追憶を書いた作品です。この詩では死んだ患者の死体を入れた青いかめ(座棺)を運ぶみすぼらしい葬列が幾度も家の前を通りすぎるのを、話者(子供)が家族と共に家の中で息をひそめて見ています。青いかめは突然話者の父親の顔に変わって話者をにらみつけ、次の葬列の青いかめは母親に変わって話者をあざ笑い、その次のかめは話者自身でした。「刹那見ぬ、地獄の恐怖[おそれ]。」「みなし子の夢」の「眼が生きてゐた。」という言葉も、にらみつけるかめのように、幼い子供が生と死を間近に感じ始めるときの、言いようもない恐れの象徴です。
 エミナイ達は話者の幼なじみであり、オリナイの中には話者自身もいるのでしょう。遠い島をながめる子供は広い世界を夢見ていた、少年時代の話者の姿です。
首にからみつくような風は現実世界から吹いてきます。湿った風が話者を目覚めさせ、現実に戻らせるのです。逃げ道を失ってもがく蛍は迷っている話者自身であるし、菖蒲湯から出てきたように濡れてふるえている星も、幼い時の記憶の温かさから出て現実世界の寒さにふるえる話者自身です。朝鮮では五月五日の端午の節句に菖蒲湯で髪や体を洗う習わしがあるので、温かい菖蒲湯は、祝日のごちそうや伝統的な遊戯、そして菖蒲湯で髪を洗う女達のちょっと華やいだ様子など、楽しい記憶と結びつくものです。その追憶から急に現実に戻れば、寒さにふるえざるを得ません。現実に戻りはしたものの、話者は人々の住む所に行くよりはひとりで橋の下に入ることを望んでいます。話者はやはり現実の世界になじめないのです。醜いヒキガエルの姿は、自分は他人から愛されないでいると信じ込んでしまった話者の孤独を表わしており、またヒキガエルのうずくまった姿勢は胎児のそれと似ていて、厳しい世間に出てくる前の胎児の状態に帰りたいという話者の渇望を示しています。
 しかし独立した行(22)において話者は、子供時代からは長い歳月が過ぎたということ、自分が夢を見ているのだということを、自ら冷静に認めています。最後に風に吹かれて音を立ててふるえる窓ガラスは、話者が完全に夢から覚めて過酷な現実に直面しているということを表わしており、遠くに聞こえる水鶏の鳴き声だけが夢の余韻を漂わせます。

 「みなし子の夢」は一九二七年二月(『近代風景』第二巻第二号)に発表されたので、留学時代の作品ですが、実際の芝溶は孤児ではありません。「十四歳のときから家を出てつらかった。」(「昔ばなしのひとくさり」、拙訳)という詩句にあるように、芝溶は徽文高普入学(一九一八、十七歳)以前から故郷を離れ、京城にある妻の親戚の家で漢学を習っていましたが、それは孤児になることとはまったく違うでしょう。孤児どころか、早婚の彼は留学当時、すでに妻帯者でした。
 それでは、なぜ詩人はみなし子の夢を見るのでしょう。まず考えるべきは、詩人がこの詩を京都で書いたという点です。言葉はできたとしても、気候も食べ物も生活習慣も違う他郷で暮らすことだけでも初めは苦労したでしょうし、植民地青年としての疎外感や、カルチャーショックも少なくはなかったでしょう。日本語作品の中に「小婦[エミナイ]」、「小供[オリナイ]」と朝鮮語の単語を露出させていることからも、この詩のみなし子は、植民地の現実を象徴的に表わしたものではないかということが、まず考えられます。
 しかしよく読んでみれば、話者が懐かしがり、帰りたがるふるさとは詩的現在の実際の故郷ではなく、話者の記憶の中で美しく純化された幼いころの追憶であるということに気づくでしょう。話者にとって懐かしいのは 「老いた父」も「一年中素足の妻」(「郷愁」)も存在しない、つまり彼が家長としての重い責任を感じる必要のない、いつもただうれしいばかりの、それこそ夢の世界なのです。だから話者は乞食ではないのに夢の世界への通り道である橋の下に喜んで入り、みなし子の孤独を楽しむのです。
実際には芝溶の場合、それほど孤独ではありませんでした。彼は大学で予科・本科過程を正式に踏む学生でしたし、寮に住み、留学生の同人誌はもちろん、日本人学生達の同人誌にも名を連ねて作品を発表し、ある時期からは教会の活動などもしていたから、知己や友人はかなり多かったものと思われます。
 同志社大学時代、鴨川のほとりは芝溶の散歩コースでした。繁華街の近くにありながら、鴨川は昔も今も水鳥がのんびりと遊ぶ、都会のオアシスです。芝溶は川岸に横たわって試験勉強をしたり、疲れた頭を休めたり、友達と話をし、ときにはガールフレンドと散歩をしたりしました。そんな時、若い詩人の脳裏には故郷・沃川の小川が思い浮かんだかもしれません。鴨川の岸辺を散策しながら、幼い日の追憶に入り込んでしまうというのも、夢見がちな青年にはよくあることでしょう。
 現実世界が暗く寒いのに比して夢の中のふるさとは暖かく(話者は現実に戻った途端、寒さを感じます)薄暗い(岩の間に母が灯したろうそく、黄色い夕暮れ)という対照をなしています。夢の中の故郷は優しく、甘く、そこでは母の胎内にいる胎児のように何の心配もなく暮らすことができます。その甘美な世界に入ることができるからこそ、話者はみなし子になりたがるのです。
一九二○年代に書かれた芝溶の初期詩の中でも「みなし子の夢」は」幌馬車」(制作:一九二五)とともに最も散文に近い散文詩であり、比較的長い作品です。一九二三年に書かれた「郷愁」が、同じく故郷への郷愁を主題にしていながら整然とした形式美を備えているのに対し、「みなし子の夢」は形式にこだわらずのびのびと書かれています。
 ふりかえれば朱耀翰の「火遊び」以後、一九二○年代の朝鮮で口語自由詩として成功した作品はそう多くありません。二○年代には外国の詩を表面的に模倣した、浅薄かつ頽廃的な作品が多く、現在でも比較的鑑賞に堪える韓龍雲[ハン・ヨンウン](僧侶・詩人・独立運動家、一八七九~一九四四)の一連の作品や、李相和[イ・サンファ](詩人、一九○一~一九四三)の「僕の寝室に」等の作品も、ひどく観念的であるという印象は免れません。また散文詩という形式で書かれた作品自体が、この時期には少ないのです。
 そう考えてみれば、「みなし子の夢」は散文詩形式において、誰のまねでもない芝溶の個性がはっきり出ているという点で特異な作品です。「みなし子の夢」はのびやかで敍情的であり、明るく健康で、世紀末的退廃とは無縁です。観念的な言葉を使わず、具体的なイメージを駆使することで読む者の共感を誘っています。この詩は何よりも話者の内面心理の描写が絶妙で、幼いころの思い出に対する郷愁、少年期に感じる、新しい世界への憧れや生と死に対する得体の知れない恐れなど、さざ波のように微細な感情の揺らぎを余すところなく表現するのに、散文詩という形式はよく合っているように思えるのです。芝溶の初期詩を論じる時、視覚的イメージの多用ということがよく挙げられるのですが、この作品から分かるように彼は聴覚イメージ(「ちろろちろろ 木琴[ザイロフオーレン]を鳴らすばかりに」、 「がつたん・がつたん・がつたん」、」窓がらすがあわただしうわななく」、 「水鶏が ぷん! ぷん!」)、 味覚・嗅覚イメージ(みかんや西瓜の味と匂いで季節を表わす)、触覚イメージ(暖かさと冷たさ、風、湿気や水の濡れた感触)など人間の五官をフルに活用した感覚的イメージを用いています。言葉に表現しづらい微妙な感情を描写するために詩人は全身の感覚を総動員して比喩をつくっているのです。
 もう一つ注目すべき点は、この作品が都会の中の孤独を描いているという点です。話者がどういう所に住んでいるのかは分かりませんが、川辺に窓ガラスのふるえる音が聞こえるなら、少なくとも民家の密集する町だということが分かります(当時、朝鮮の片田舎ではガラス窓など、あまり使われていません)。また、故郷を懐かしむというのは、故郷から遠く離れているからこそ可能になるものです。今見れば何でもないようですが、都会に滞在しつつ、変貌していく故郷を懐かしむというのは近代化以前にはありえなかったテーマで、朝鮮近代詩では一九二○年代以後、特に京城が近代的な都市に変貌した一九三○年代に頻繁に現れ始めた情緒です。おそらくはボードレールの『パリの憂欝』に端を発しているこの近代的な情緒を感じること自体が、若き日の詩人には新鮮であり、甘美な経験ではなかったでしょうか。美しい赤レンガの建物が並ぶ大学で勉強すること、新しい形式の詩をつくり、それが活字になること、喫茶店に入ってコーヒーを飲むこと、洋装の女学生やカフェの女給と言葉をかわすこと、そして時折、郷愁にひたることは、それ以前の人々は味わうことの出来なかった近代生活の一環でした。都会の中の孤独という新しい情緒を詩に表現したという点で「カフェ・フランス」、「幌馬車」、「郷愁の青馬車」と同じく、この「みなし子の夢」は先駆的な意義を持っています。