結論 鄭芝溶が朝鮮最初のモダニストである理由

 従来、韓国の文学史では鄭芝溶を、優れた言語感覚を見せたものの社会性には欠ける詩人として、比較的軽い扱いをしてきました。しかし実のところ、芝溶は詩作活動を始めた当初から、文学に社会性がなければならないと考えていたのです。ただ、それをストレートに表現するよりも、個人的なレベルに転換して詩的に表わすのが適切だと信じていました。そのことは『朝鮮日報』一九三七年一月一日付に掲載された「文学問題座談会」での次のような発言によって確認できます。「とにかく小説や劇文学などで大成しようと思うなら、どうしても、身辺雑記みたいな事を書くより社会への関心や民族的事実に対する大きな関心を持つ必要があるでしょう。したがって、政治や経済や、すべての社会的事実に対して、関心と言うよりはパッションを持つことが、文学の徳であるようです」。彼が同じ席上で語った、「社会的関心を身辺化しなければなりません。ハイネを見ても、その社会的関心が身辺化されているではないですか」という発言からすれば、彼が詩の創作にも社会的関心が必要であると考えていたことが分かります。そしてそれは、直接表現するのではなく「身辺化」、つまり個人的なレベルの問題に消化して、詩的に表現しなければならないのです。それは日に日に厳しくなる検閲を逃れる方法でもありましたが、一九二七年にも「恋も哲学も民衆も国際問題も笛で吹けばいいなと思ひます」(「手紙一つ」)と言っていたのですから、彼が最初から持っていた信念であったと見てもよいでしょう。
 『文章』時代、彼は、少なくとも積極的な親日詩を書きはしなかったし、かといって、ひたすら自然の美しさだけを歌っていたのでもありません。日本浪曼派のように滅亡の美しさを称えた訳でもありませんでした。芝溶のような有名人士が親日行為を拒絶するのは、一九三○年代後半以後は、やさしいことではありませんでした。このことを、無名の文学青年が親日行為に走らなかったことと同列に考えるべきではありません。一九二○年代に積極的な抵抗精神を表わしていた文学者達も、この時期にはたいてい、いくらかずつは親日行為に荷担し、そうでなければただ沈黙していました。鄭芝溶に明らかな親日作品がなかったならば、それは彼がそれなりに抵抗していたと評価してもよいものです。芝溶自身も「朝鮮詩の反省」の中で、「日帝の警察はともかく、文人協会に集まっていた朝鮮人文士の輩から脅迫と侮辱を受けていたのだが、それでも最後まで耐えようとしていたのは政治性のない少数の芸術派だけであった。プロレタリア芸術派はそれ以前に弾圧によって姿をくらませてしまっていたから、当時の非政治性芸術派を、何か資本主義の保護でも受けていたように非難するのは、実に不当であった」と不満を表しています。皆がゲートルを巻き国民服を着て歩いていた時代に、芝溶は民族服で外を歩いていました。それは、自分が朝鮮人であると主張する、せめてもの手段であったのです。この事実からしても、彼が意外に強靭な愛国心の所有者であったことが分かります。
 芝溶は、非政治的に見える詩を書き、それに自分の苦悩を盛り込んで発表する行為が、自国の言葉を守り、また消極的ながらも現実を批判することのできる、彼に残されたただ一つの道であると信じていました。朝鮮語の表現力を豊かにし、その美しさを追求するというのは、芝溶にとって民族の矜持を守ることと同義でした。「不朽の詩があって、それについて語ったり、暗誦したりして、楽しむことができる民族は、異邦人に対して常に誇ることができ、民族は誇りにおいて和合する。その民族の聖典が、まさに詩として書かれたのである」(「詩の擁護」、一九三九)
 ところで、以前に存在したことがないような新しい言語を創出して近代人の情緒を日本語で表現した白秋や朔太郎について考えてみれば、朔太郎の前には白秋がおり、白秋の前には与謝野鉄幹と晶子、蒲原有明などが既に斬新な作品を発表していました。また若き日の白秋には、石川啄木、三木露風といった才能豊かなライバルがいました。自由詩が成立する以前ですら、島崎藤村といった詩人達の洗練されたロマンチックな新体詩が、一斉を風靡した時期がありました。しかし、芝溶が一九二○年代前半に完成度の高い朝鮮語の自由詩を書いていたという事実を考えてみれば、それに先立つ朝鮮近代詩の業績は、あまりにも貧弱でした。芝溶が白秋や朔太郎の作品にひかれたのは必然であったと言えましょう。
 一九二○年代前半に日本の近代的システムの只中に入っていった芝溶とって、近代的都市に住む者の生活感情は、従来の朝鮮語では表現できないものでした。それで、芝溶は師と仰いだ白秋から、作品上の技法だけではなく、詩人としての生き方そのもの、すなわち新しい言語を開拓する単独者の姿勢とでも言うべきものを学んだのです。彼は近代人の感情を口語体の朝鮮語で表わす方法を、ほとんど単独で開拓せねばなりませんでした。芝溶は朝鮮語を錬磨し、外国語の表現を採り入れ、朝鮮語に固有なリズムや埋もれていた語彙を発掘したり、またそれらを変化させて新しい言葉をつくったりして、近代的な詩的言語としての朝鮮語を創出しました。『鄭芝溶詩集』が刊行された時、朝鮮の人々が狂喜し、その作品に陶酔していたのは、それまで表現できなかった自分達の情緒を芝溶が朝鮮語で表現して見せてくれたからです。芝溶の感覚的で繊細な表現を読んで感動したとき、人々は自分達の内面にそんな繊細な感覚があることに初めて気づき、驚いたのです。また、一九二○年代に近代都市のいろいろなシステムや都会人の心情を朝鮮語で描いていたという点でも、芝溶作品は類例のないものです。
 朝鮮モダニズム詩の代表的詩人であり評論家である金起林は「モダニズムの歴史的位置」(『人文評論』一九三九年十月号)という評論の中で、芝溶を「最初のモダニスト」と呼びました。朝鮮文学においても、モダニズムとは、近代化されてゆく社会に合わせて文学を変化させることである、とひとまずは定義してよいでしょう(言うまでもありませんが、近代社会に適応しようとするモダニズム文学は、批判的な視点を失い環境を盲目的に肯定するようになればファシズムと結びつく危険性を、どの国においても孕んでいました)。社会が近代の相貌をあらわにしてゆく中で、朝鮮の人々は近代都市に生きる人々の感性を表現する言語を渇望していたのです。この中で金起林は、一九三○年代末に詩壇が混迷した原因は、モダニズムがうまく発展できず、詩人達がモダニズムの歴史的必然性を忘却したからであると語り、モダニズムの意義を再確認して朝鮮近代詩史に位置づけようと試みます。
 金起林によると、朝鮮における「新詩の先駆者」はロマンティシズムと世紀末文学であったが、これらはいずれも現実逃避的な文学でした。一九二○年代半ばからの「傾向文学」(プロレタリア文学のこと、引用者)がそれに対して反撃を加えたものの、詩が実際に十九世紀的性格を脱皮できたのは、一九三○年代に入ってモダニズムが①ロマンティシズムと世紀末文学、および②傾向文学の偏内容主義を否定した頃からです。またモダニズムは詩を言語の芸術として認識し、近代文明を受け入れ、文明の価値を意識します。「(モダニズムは)現代の文明から逃避しようとするすべての態度とは異なり、文明の中から育った文明の息子であった。(中略)題材も、まず都会に求めたので、文明の様々な面が風月の代わりに登場した。文明の中で形成されてゆく新しい感覚・情緒・思考が現われた」。
 金起林は、朝鮮においてモダニズムは、グループによる文学運動の形態は取らなかったと述べています。そして朝鮮のモダニスト詩人達も、必ずしも意識的にモダニズム詩を書いたのではなく、「詩人的敏感による天才的発現である場合が多かった」と語り、「最初のモダニスト鄭芝溶は、ほとんど天才的敏感によって、言葉の、主に音の価値とイメージ、清新で原始的な視覚的イメージを発見し、文明の新しい息子の明朗な感性を初めて朝鮮語の詩に導入した」と言って芝溶の言語感覚を称賛しました。つまり金起林によると、芝溶は文学運動としてのモダニズムとは無縁のところから自然発生した、朝鮮最初のモダニスト詩人なのです。
 日本の代表的象徴詩人である北原白秋に私淑した芝溶を、モダニストと呼ぶことに疑問を感じる人が、いるかも知れません。たしかに狭義のモダニズムは、象徴主義以後に発生した一つの流派を指すものですが、広義のモダニズムと象徴主義は対立する概念ではなく、連続したものとして捉えるべきものでしょう。日本では春山行夫が『詩と詩論』において、北原白秋や萩原朔太郎をモダニズムに対する仮想敵に仕立て上げました。しかし、白秋の「フレップ・トリップ」(一九二五~二七)などは、まさに「シネポエム」とでも呼びたいようなモダニズム的作品です(近藤東は『近代風景』二巻五号に寄せた文章の中で、この作品を称賛しています)。実際、白秋は春山行夫、近藤東、竹中郁、三好達治、丸山薫など、後に『詩と詩論』のコアになる人々の作品を『近代風景』に登場させていますし、吉田一穂は白秋の愛弟子です。要するに、『近代風景』と『詩と詩論』の距離は意外に近いものであり、そのメンバー達は白秋から多くのものを学び継承しつつ、それを戦略的に隠蔽したのではないか、というのが私の推測です。春山行夫のポレミックな文章に惑わされてはなりません。若い頃の春山はアルベール・サマンに憧れ、白秋の雑誌である『詩と音楽』や『近代風景』にせっせと投稿していたのです。
 『鄭芝溶詩集』を手にした時、朝鮮の人々は自らの言語で自らの感情のすみずみまで、繊細に表現する術を知ったと言えるでしょう。言い換えれば、外国語の助けを借りないでもよくなったのです。民族というものが先験的に存在するのではないとするならば、民族の概念を確かなものにし、民族意識を持つためには、民族固有の言語が重要な役割を果たします。古びた語彙や表現方法だけでは、近代に生きる人間としては、新しい生活感情や思想を表現できないという不満を抱かざるを得ません。自国語が充分な表現力を持っていないと感じる人々は自民族の文化に誇りを持つことができず、いつまでも外国を羨むしかないでしょう。自分達の感情、情緒、思想を十二分に表現することのできる言語を獲得した時、初めて「ウリマル(我々の言葉)」に対する愛着が生じ、民族のアイデンティティーが完成します。そうであるならば、朝鮮語学会や『ウリマル本』などの業績と共に、鄭芝溶作品も民族意識の形成に大きな役割を果たしたと見ることはできないでしょうか。
 しかし、ひとたび自分達の言語が思想や感情を自由自在に表現できるほど成熟すると、人々は、まるで遥か昔からそんな言語を駆使してきたかのような錯覚に陥ります。そして言語を錬磨し、豊かにしてくれた先駆者の努力は忘却するのです。それで解放前の詩を語る時、研究者は思想の露出した「抵抗詩」を称揚したがるのですが、私達は『鄭芝溶詩集』が刊行されたとき人々が発した驚愕の声を思い出し、孤独な開拓者の業績をもっと評価すべきでしょう。

 白秋の作品を、近代文明を感覚的に受け入れた個人的芸術に過ぎないと非難した村野四郎は、後にその考えを改めます。先の批判(第Ⅱ部第三章参照)からおよそ十年後、村野は座談会において次のような発言をします。「今までも、よく白秋には思想がないと言われてきたんですが、いったい、詩人における思想というのは何かということを考えますと、簡単に論理が詩の中に出ているか、出ていないかということだけではおさまりがつかないということに気がついたんです」、「作品の上に現われた、イデオロギッシュな論理だけを取り上げて、もし論ずるとすれば、芸術至上主義的な単独者としての芸術は、成り立たなくなるわけです。それはおかしいじゃないかということを、考え出したわけです。つまり、いままでの象徴詩を、新しい感覚の中へ、それをことばによって開放したということが、そのことばに重要な意味があるんじゃないか。詩人が思想といった場合には、すべてがことばの問題に集約されるはずです」、 「(大岡信が三好達治の詩について) 論理的なものは浮き上がっては見えないけれども、思想は全部ことばの中へ入ってしまっているじゃないかということを言っていました。これは白秋についてもすぐいえるだろうと思うんです」「ぼくは、詩で思想という場合には、ことばそのものが最も根源的な思想の在り方だと考えます」、「詩の中で理屈をこねるのは、かなり次元が低いんでね、ことばの中に全部含まれてしまう次元のほうが、高次元ですからね。そういうふうに進むべきだと思いますね」(座談会「北原白秋の再評価」(『文芸読本北原白秋』河出書房新社、一九七八、九二~一一一頁)。 他の誰でもない、村野四郎の口から白秋の芸術至上主義的作品を擁護する発言が出たことは、意味深長です。村野は一九三○年代に社会批判性の強い作品を発表したモダニスト詩人であったからです。
 思想が言葉の中へ入っているというのは、白秋が、それ以前には誰も表現する術を持たなかった肉体的な感覚を初めて言語で表現したということ、それ自体が白秋の思想であるということでしょう。人々は自分の内面にそんな感覚や情緒があるということを、白秋の作品によって初めて発見したのです。あるいは、白秋がそんな内面を創造したと言ってもよいでしょう。柄谷行人は「風景の発見」の中で、「リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも『内的人間』なのである」と書いています(『日本近代文学の起源』、講談社、一九八八、三五頁)。白秋の耽美主義は自然主義小説に対する反発が大きく作用して生じたものですが、彼の感覚的言語は、貧しい文士の生活をそのまま描写する私小説のリアリズムとは違う、もう一つのリアリズム、いわば精神のリアリズム、内面のリアリズムと言うべきものでした。白秋は次のように言っています。「私はまた象徴の芸術を最高のものとは思念するが、リアリズムの骨法は多年短歌道に於て刻苦して来た。/ 私はまた謂ふところの芸術至上主義者とも違つた自分を知つてゐる。人生派の詩にも充分の同感は持つてゐる。自分もこの二つの融合を常に忘れる者では無い。ある意味に於てはむしろ国士を以て任じてゐるのが私だと思つてゐる」(「朝は呼ぶ」、 『近代風景』 一九二七年一月号)。矢野峰人は『邪宗門』について、「即ち、われわれは白秋の詩に於てはじめて、おのが肉体を鍵盤として奏でらるゝ新しい音楽を聴く事が出来る」と言っています。

 最後に我々は、もっとも根源的な所へ還らねばなりません。人間にとって詩とは何かという問題です。近代的芸術言語を完成させるというのは、ただ文学の領域でのみ考えるべきものではなく、もっと深い意味を持っているでしょう。フロイトは「抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(「トーテムとタブー」、高橋義孝他訳、『フロイト著作集』三、人文書院、一九六九、二○三頁)と言っています。それなら、感覚的言語表現は近代的自我をつくるのに不可欠なものであると言えるかも知れません。
 大岡信もまた、人は感覚的言語がなければ考えること自体が困難になると書いています。

 感覚がぼくらにもたらすものは、思考の最も基本的な素材であり、与件である。思考の正確さとひとは言うが、思考の正確さとは一体どこにあるものか。それは、初源的な意味でも最後的な意味でも、言葉という感覚的な素材を使っての、手さぐりのうちにしか求められはしないのだ
 (大岡信 「立原道造論」、 『叙情の批判』、 晶文社、 一九六一、一三四頁)

 感覚的表現が人間をして抽象的思考を可能にするのなら、近代人あるいは都会人の生活感情や植民地知識人の苦悩を、余すところなく表現したからという理由だけではなく、近代人の心理を表現することのできる言語を創り出したということだけでも、鄭芝溶は朝鮮文学が近代に入る決定的な契機をつくった詩人であると言えるでしょう。それならば、民族文学最大の功労者は鄭芝溶であると言うことも可能です。ボードレール以後の西洋文学が la littérature moderneであるという意味で、すなわち文学潮流の一つとしての狭義のモダニズムを導入したというだけではなく、朝鮮文学の近代化に決定的な役割を果たしたという意味で、鄭芝溶は金起林の言葉どおり「最初のモダニスト」なのです。