鄭芝溶年譜

(年齢は数え年)

一九○三(明治三六)年 (一歳)
陰暦五月十五日、大韓帝国忠清北道沃川郡沃川面下桂里四○番地にて父・鄭泰国と母・鄭美河の長男として生まれる。両親はもともと水北里(クェコリとも呼ばれる)に住んでいたが、漢方薬店を開くために下桂里に引っ越した。水北里は、松江・鄭澈の末裔が住む鄭氏の集姓村。

一九一○(明治四三)年 (八歳)
四月六日、沃川公立普通学校(現、竹香初等学校) 入学。

一九一三(大正二)年 (十一歳)
尤庵・ 宋時烈の末裔である宋在淑と結婚。

一九一四(大正三)年 (十二歳)
三月二五日、普通学校卒業。その後、京城で妻の親戚の家に滞在し漢学を学ぶ。

一九一八(大正七)年 (十六歳)
四月二日、京城にある私立徽文高等普通学校入学。成績は優秀だったが、学費が調達できず退学、銀行の給仕として就職するが、校主の配慮で校費生として復学。

一九一九(大正八)年 (一七歳)
学園紛争を主導したことにより無期停学になるが、やがて学校側が譲歩して復学する。十二月、小説「三人」を『曙光』に発表。

一九二一(大正十)年 (一九歳)
友人達と『揺籃』という謄写版の雑誌を始める。この雑誌は芝溶が京都に行ってからも回覧雑誌として続いた。徽文高普の校内誌『徽文』編集にも參加。

一九二二(大正一一)年(二十歳)
三月、徽文高普四年制を卒業、学制改編により同校が五年制になったため引き続き五年に進級。

一九二三(大正一二)年 (二一歳)
三月、高普卒業。代表作 「郷愁」を書く。
五月三日、京都にある同志社大学予科入学。当時の総長は海老名弾正。

一九二四(大正一三)年 (二二歳)
柳宗悦は一九二四、五年頃から同志社大学英文科に出講、ブレイク、ホイットマンなどを講義していた。京都には朝鮮人留学生の集まりもあり、『学潮』という雑誌を出していた。

一九二五(大正一四)年 (二三歳)
同志社大学の日本人学生達の同人誌『街』に參加、日本語詩 「新羅の柘榴」、 「まひる」、 「草の上」を発表。「真っ赤な 機関車」、 「海」、 「幌馬車」などを書く。

一九二六(大正一五、昭和元)年 (二四歳)
四月、同志社大学英文科に進学。
『学潮』、『新民』、『文芸時代』 などに詩を発表。北原白秋主宰の『近代風景』に 「かっふえ・ふらんす」を投稿、既成詩人と同じ大きさの活字で掲載される。芝溶は京都時代におよそ二七篇の日本語詩を書いている。「甲板の上」、「海」、「湖面」、「初春の朝」、「船酔」など。

一九二七(昭和二)年 (二五歳)
『学潮』、『新民』、『文芸時代』、 『朝鮮之光』、『近代風景』などに詩を発表。「悲しい汽車」、「葉書に書いた文章」、 「五月消息」、 「発熱」、 「かもめ」、「馬」など。 「発熱」の制作が “二七.六 沃川にて”となっていることからすると、最初の子供がこの時までに生まれていたらしい。長男・鄭求寛は幼くしてハシカに肺炎を併発して亡くなった姉の話を父から聞いている。「玻璃窓」も、この時亡くなった女の子に関する作品であろう。芝溶はあるところで五男二女をもうけたと書いているが、幼くして亡くなった子供もいる。本書では便宜上、無事に成長した息子である求寛、求翼[グイク]、求寅[グイン]をそれぞれ長男、次男、三男、娘である求園[グウォン]を長女と呼ぶことにする。
一月、ハワイの日本人教会で活躍していた同志社出身の堀貞一牧師が一時帰国し、同志社で特別伝道を行ったことをきっかけに同志社の各学校でキリスト教への関心が昂揚した。「同志社のリバイバル(信仰復興)」である。十一月十三日、堀牧師が同志社教会第十代主任牧師兼同志社大学宗教主任に就任、芝溶は同日、同志社教会に入会志願書を提出。十二月四日、同志社教会において堀牧師から洗礼を受ける。

一九二八(昭和三)年 (二六歳)
『朝鮮之光』、『近代風景』、『同志社文学』に四篇の作品を発表。前年に比べ、作品数がぐっと減っているのは、宗教に熱中していたため。一月一日現在の同志社教会信徒名簿には芝溶の名があるが、この年の前半期には既にプロテスタントの教義に懐疑を抱き始め、カトリックに傾きだしたようである。
陰暦二月、長男・求寛誕生。後に芝溶は子供達に文学書を読むことを禁じ、長男を手堅い職業につけるため商業学校に入れた。
七月、京都にある河原町教会でフランス人ジュッツ(Y. B. Duthu)神父によってカトリックの洗礼を受ける。芝溶の洗礼名はフランシスコ(方済各、パンジゴ)。代父は伝道師ヨゼフ久野信之助。
十一月、カトリックを信じる朝鮮人留学生の集まりである在日本朝鮮公教信友会京都支部が創立され、芝溶は書記に任命される。
郷里では、芝溶の説得によって父も信仰を取り戻し、芝溶の生母が家に戻った。

一九二九(昭和四)年 (二七歳)
六月三十日、同志社大学英文科卒業。卒業論文は“The Imagination in the Poetry of William Blake”。芝溶は宗教活動に熱中するあまり卒業が遅れたらしい。
九月、徽文高等普通学校に英語教師として赴任。長男と共に鐘路区孝子洞に転居。十二月、「琉璃窓」を書く。

一九三○(昭和五)年 (二八歳)
三月、『詩文学』 同人となり、京都時代に書いた詩を発表。『大潮』にブレイク詩の朝鮮語訳を、『朝鮮之光』などに創作詩を発表。
天主教鐘峴青年会で総務に任命される。

一九三一(昭和六)年 (二九歳)
引き続き鐘峴青年会総務として活動。カトリックソウル教区青年会会報『星[ピョル]』編集に參加。自作および翻訳した宗教的詩篇を発表。これ以後も京郷新聞を除いては、カトリック系の新聞、雑誌での編集はすべて無報酬のボランティア。「琉璃窓」を 『新生』に発表。宗教的詩篇を数篇書くが、創作は活発ではなく、この年に『詩文学』に発表した創作詩四篇のうち、三篇までが京都時代の作品である。
十二月、次男求翼出生。求翼は後に神父になるため修道院に入る。

一九三二(昭和七)年 (三十歳)
「故郷」、「蘭」など一○篇を 『文芸月刊』などに発表。

一九三三(昭和八)年 (三一歳)
五月、『星』が廃刊される。六月 、『カトリック青年』誌が創刊され、編集を引き受ける。同誌に 「海峡の午前二時」、「毘盧峰」、「帰路」などの詩と、散文 「素描」、翻訳 「キリストのまねび」などを発表。同誌に李箱、金起林などの作品を紹介した。
七月、三男求寅出生。
八月、九人会結成に參加。

一九三四(昭和九)年 (三二歳)
引き続き『カトリック青年』などに宗教的詩篇を発表。
鐘路区斎洞四五の四に家を購入して転居。賃貸でない住宅に住むのはこれが初めて。
十二月、長女求園出生。

一九三五(昭和十)年 (三三歳)
十月、詩文学社から処女詩集『鄭芝溶詩集』刊行。 「はしか」、「再び海峡」などを発表。

一九三六(昭和一一)年 (三四歳)
三月、九人会の同人誌 『詩と小説』創刊、これは創刊号だけで終わった。「流線哀傷」を発表。随筆「愁誰語」を『朝鮮日報』に連載。

一九三七(昭和一二)年 (三五歳)
西大門区北阿峴洞一の六四号に転居。「愁誰語」を『朝鮮日報』に連載。「玉流洞」を『朝光』に発表。

一九三八(昭和一三)年 (三六歳)
カトリック系の『京郷雑誌』編集に携わる。四月、徽文高普が徽文中学校に改称。八月、金永郎、金玄鳩と共に旅行しながら新聞に紀行文を連載。「多島海記」(『朝鮮日報』)、「南遊第一信~第六信」(『東亜日報』)。詩「悲しい偶像」、「むくいぬ」、「温井」、「毘盧峰」、「九城洞」などを発表。

一九三九(昭和一四)年 (三七歳)
五月、父・泰国死亡。
八月、『文章』創刊。芝溶は詩部門の審査委員として才能ある新人を発掘した。
「長寿山1」、「長寿山2」、「白鹿潭」など七篇の詩以外に詩論、評論も執筆。

一九四○(昭和一五)年 (三八歳)
吉鎮燮画伯と共に平安道、満洲などを旅しながら 「画文行脚」を『東亜日報』に連載。

一九四一(昭和一六)年 (三九歳)
一月、『文章』二二号に「新作鄭芝溶詩集」と題して「朝餐」、「盗掘」など一○篇の詩を発表。
九月、文章社から詩集『白鹿潭』刊行。

一九四二(昭和一七)年 (四十歳)
「窓」を『春秋』に、「異土」を『国民文学』に発表。以後、解放後まで文壇的活動はほとんど見られない。

一九四四(昭和一九)年 (四二歳)
京畿道富川郡素砂邑素砂里に疎開。同地でカトリックの公所(主任神父の常駐しない小規模の教会)設立に尽力する。

一九四五(昭和二十)年 (四三歳)
解放と共に徽文中学校を辞任。
十月、梨花[イファ]女子専門学校教授として赴任、文科科長となる。韓国語、英詩、ラテン語を担当。
十二月、金九、金奎植ら臨時政府要人達の帰国を記念して明洞聖堂で感謝のミサと歓迎会が開かれ、歓迎会席上で自作詩「あなた方が帰って来られたから」を朗読した。

一九四六(昭和二一)年 (四四歳)
ソウル市城北区敦岩洞山十一番地に転居。
二月、文学家同盟作家大会にて児童分科委長および中央委員に推戴されたが大会には參加していない。
五月、建設出版社から『鄭芝溶詩集』再版。母・鄭美河死亡。
六月、乙酉文化社から『芝溶詩選』刊行。
八月、梨花女子専門学校が梨花女子大学と改称。引き続き同校教授を務める。
十月、カトリック系の京郷新聞創刊と共に主幹に就任。小説家・金東里の紹介で廉想渉を編集局長に迎える。
「愛国の歌」、「あなた方が帰って来られたから」を雑誌に発表。

一九四七(昭和二二)年 (四五歳)
八月、京郷新聞社辞任、梨花女子大教授に復職。
ソウル大学に出講し現代文学講座で『詩経』を講義。大人気で、教室に入りきれない学生達が窓からのぞくほどの盛況だった。散文やホイットマンの詩の翻訳などを発表。

一九四八(昭和二三)年 (四六歳)
二月、梨花女子大辞任。碌磻里(現、ソウル市恩平区碌磻洞)の草屋に蟄居。一家の生計は長男求寛の事業によって支えられていた。博文出版社から散文集『文学読本』刊行。夭折した尹東柱の詩集に序文を寄せる。「朝鮮詩の反省」などを発表。

一九四九(昭和二四)年 (四七歳)
三月、同志社から『散文』刊行。ホイットマンの詩の翻訳も収録された。
五月、咸鏡南道にある徳源修道院が共産党に占拠され、同院で修行していた次男求翼が家に戻ってきた。

一九五○(昭和二五)年 (四八歳)
三月、トンミョン出版社より『白鹿潭』三版刊行。
五~六月、国都新聞に紀行文「南海五月点綴」を連載。挿絵は青谿・鄭鍾汝。統営で詩人・柳致環の家に一週間逗留する。
「曲馬団」、「四四調五首」発表。
この頃、芝溶が親しくしていたのは音楽評論家・朴容九、金練万、画家・吉鎮燮、薛貞植、金東錫など。
朝鮮戦争の混乱のさなかで芝溶は行方不明になり、死亡したと推定される。「自ら北に行った」という理由により鄭芝溶の作品は一九五〇年代初めに発禁処分とされ、公の場で論じることができなくなった。求寅、求翼もこの頃行方不明となる。

一九八二(昭和五七)年
六月、芝溶作品の解禁を求める運動が始まる。

一九八八(昭和六三)年
芝溶の作品に対する発禁処置が解除され、民音社より『鄭芝溶全集』全二巻が刊行される。以後、鄭芝溶に関する研究が盛んに行われる。

二○○一(平成十三)年
一九五○年頃から行方の分からなかった三男求寅が北朝鮮の両江道[リャンガンド]に在住していることが判明、離散家族再会によって長兄・求寛、妹・求園との再会を果たす。

二○○四(平成十六)年
四月、長男求寛逝去。