六、 詩と現実


 皆、しきりに現実、現実と言うのは、これは現実にとらわれているようですね。犬が死んだって現実だし、孔子が踊っても現実なのに、何をそんなに難しく考えることがあるのですか。現実批判は真理ですが、文学人とは理想人であり、享楽人です。朝鮮文学とは朝鮮語で書かれたものです。そこに朝鮮的な音、 色、喜び、哀楽、すべてのものが書かれるのです。それで充分でしょう。
    (座談会「明日の朝鮮文学(下)」、『東亜日報』一九三八年一月三日)

 純正文学の悠久な道を歩む人々がいるから、いずれ鮮明な理論家も出てくるはずだ。
 彼等は不肖ながら天生鶴羽の風格を持っているので、身軽な旅装でも各自が驥行千里するであろう。
 磁針の方向は太古より一定である。(…)

 純粋に! いっそう純粋に!
 異邦人よ 無駄な騒乱は起こすな。
(「新年の朝鮮文壇は、どういう方向に進むでしょうか?」という設問に対する回答、「私が感銘深く読んだ作品と、朝鮮文壇と文人について――文士諸氏執筆」、『朝鮮中央日報』一九三三年一月一日)

 解放前のこういった芸術主義的態度とはうって変わって、解放後の鄭芝溶は政治的発言も辞しませんでした。親日派の横行と私利私益を貪る輩を糾弾し、「人民」という言葉を使い、左翼詩人の作品に共感を示すかと思えば、唯物史観を擁護しつつ、それがキリスト教精神や民族主義とも矛盾しないと力説します。「まず天皇制打倒を、日本共産党系列と朴烈[パク・ヨル]氏の提案通りに実施してこそ日本の政治が日本人民の手に取り戻される。そして、八十万人の在日朝鮮同胞も世界人民の利益を共同で享受することができるであろうから、対馬島の回収と高句麗版図の大満洲遼東七百里が回収され、それと共に民族の一万年の楽土がいたるところに現れるだろう」(「東京大震災余話」)、 「革命を拒否しても親日叛徒を粛清することが可能だというなら、やってみるがよい」(「民族叛逆者粛清について」) などの発言は、解放前の芝溶の随筆や詩からは想像もつかないほど強い語調で書かれています。また一九四五年十二月八日に金九[キム・グ](独立運動家、一八七六~一九四九)、金奎植[キム・ギュシク](独立運動家、一八八一~一九五○)など臨時政府要人の帰国を記念して明洞聖堂で感謝のミサが行われた時、大講堂で開かれた歓迎会で芝溶は、自作の詩「あなた方が帰って来られたから」を朗読したそうです。矛盾だらけの言動を矛盾と感じないほど、芝溶の政治思想は素朴なものでした。
   解放後の芝溶は、左傾しているように見えます。彼は唯物史観を勉強したことはない」と言いながらも、「生産と労働、すなわち物質生活に唯物史観が成立することは、物理と化学部内に物理学史があるのと同じで、しごく当然のこと」(「『平和日報』記者との一問一答」)と語り、芸術と政治の分離を主張する人々を「反動」と規定します。(「散文」、 一九四八。一○)。 一九四六年一○月の『京郷新聞』創刊当時、文化部次長に任命された金東里[キム・ドンニ](小説家、一九一三~九五)は、芝溶が『京郷新聞』主筆時代(一九四六年十月~四七年八月)に急速に左傾したと言っています。「この新聞は私の期待していたのとは、少し違う路線を歩み始めた。政治面はそれなりに右翼に近かったが、文化面は明らかに左翼に傾いていた。のみならず、鄭芝溶(主筆)自身が新聞を始める以前よりもはっきりとその方に傾いてしまったのだ。それで、私とは距離のある新聞になってしまった。私はいっさい新聞社に行かなかった」(金東里、「横歩[フェン ボ]先生の思い出」、 『孤独と人生』、ペンマン社、一九七七、二四九~二五○頁。 金允植、『解放空間文壇の内面風景』、民音社、一九九六、九七頁から再引用)。詩と現実社会との関係に対する考え方が、なぜここまで極端に変わってしまったのでしょうか。

  解放後の芝溶の心境は、じつに惨憺たるものでした。『文章』廃刊以前、厳しい検閲のもとでも彼は読むに堪える作品を書いて発表したのに、いざ、その抑圧がなくなった時には、どうしたことか詩を書く能力が枯渇してしまったかのように何も書けなくなってしまったのです。解放後に芝溶が発表した詩は数篇に過ぎませんが、光復の喜びを高らかに歌いあげるべき「愛国の歌」、「あなた方が帰って来られたから」などは、ありふれた単語を並べただけのもので、詩人の鋭利な言語感覚などどこにも見いだせません。誰よりも詩人自身がその惨めさを身にしみて感じていたでしょう。
 彼は、創作能力を喪失した詩人の苦しみを、しきりに吐露しています。「芝溶が詩を書けないでいる、と哀れに思ってくれる人は人情の篤い人なので、こんな友とは、酒が手に入れば、じっくりと酒の肴にして泣くことができる」(「散文」、一九四八)。「詩を書けないのに詩を論じるというのも、恥ずかしい事だ」(「朝鮮詩の反省」、 一九四八)。「才能は蕩尽し、勇気も失い、八・一五以後、私は不当にも老いつつある。/誰かが「お前は一片の誠意までも失ったのか?」と叱咤すれば、少しも抗論せずに、居ずまいを正して膝をつくだろう」(「尹東柱詩集 序」)。金東錫は、そんな芝溶に向かって元気を出せとエールを送っています。「詩集『白鹿潭』に収録した散文は何を意味しているのだ。詩だけで『白鹿潭』を満たすことができなかった芝溶――この老いさらばえた芝溶よ、君の詩魂を踏みにじって殺そうとしていた強盗日本帝国主義の首は落されたのだから、再び勇気を出して若返れ」(「詩のための詩――鄭芝溶論」、『金東錫評論集』、 瑞音出版社、 一九八九)
 だが、解放後に読むに堪える詩が書けなかったのは、鄭芝溶以外の詩人にも共通する問題でした。「朝鮮詩の反省」において芝溶は、何人かの詩人が解放直後に書いた詩を例に挙げ、そのレベルの低さを率直に指摘しています。「李朝封建時代の有閑階級の繊弱な語彙が若干あったり、多少は韻律的な短文や、第二次大戦直前のフランス風の軽快でウィットの効いた詩風の模倣癖があったりする以外に、見るべきものがない」「八・一五直後から案の定、詩歌に類似したものが盛んに誌面を賑わすようになったが、これらの『解放』の歌はたいてい、一定の政治路線を把握する以前に、思想性が貧困で民族解放の大道の確固たる理念を準備できなかった在来文壇人の単純なマンネリ的文章手法で制作されているために、漠然としたお祭り的興奮、誇張、混沌、無定見の放歌以外に見るべきものがなかった」。
 自由を取り戻したはずの詩人達が読むに堪える詩を書けなかった原因を、芝溶は解放前から詩人達が知的探究を怠ってきたからだと考えます。「行動と実践において無力であったことを今さら責めるまでもないかも知れないが、ただ、知的追求においても完全に廃兵として除隊されていたのだから、八・一五以後、誌面と発表の自由を得た後に発表された詩人達のいわゆる『作品』を見れば分かる」「このことからすれば、日帝の最後の悪あがきの時代に、彼等はなるほど孤高超然とした隠士であったのかも知れないが、知的探求においても全く怠惰な棄権者であったことは間違いないだろう」、「四十年の間、朝鮮の新文学に弱小民族文学としての現状打開の誇るべき業績が見られないのは、それが日帝の民族文化弾圧政策によるもののみならず、朝鮮の文学芸術である自分達の知的負担に対する責任感と批判意識が薄弱だったからだ」。(「朝鮮詩の反省」)
 深い懐疑に陥った芝溶は、自分自身を含めた解放前の朝鮮詩の業績を厳しく批判しています。「解放されたおかげで、今では最大限に朝鮮人としての本分を果たさなければならないはずなのに、どうして八・一五以前のような小さく萎縮した文学に固執することができようか?」、「思春期に恋愛がわりに詩を書いた。それが詩集になってよく売れただけのことだ。この年になって恋愛がわりに詩を書くこともできない。/思春期をだいぶ過ぎてからは日本人が怖くて山に海に回避して詩を書いた。/そんなことが、今になって純粋詩人と言われるようになった来歴である。/だから、私の影響を多少なりとも受けた若い人達がいるならば、良くない影響なので捨ててしまうのが良いだろう。」(「散文」)
 惨憺たる心情の芝溶は、これからの民族文学は、現実を分析して作品に反映させることにより、文学で社会現実に介入する方向に進むべきであると思い至りました。芝溶の「左傾」は、こうした反省の結果であったのです。「詩と芸術だけは政治から超越させるとか、あるいは政治より上に置くべきだという芸術至上主義者が芸術の前進を拒否し、行動が前進できないものであるから、その悲劇的な姑息的安全地帯が文学と歴史の反動陣営にならざるを得ないであろう」、「科学と政治と経済と歴史と民族の推進飛躍期において、文学の前衛である詩と文学が一切を放棄して一切を獲得する革命的性能を最高度に発揮する運命的課業のため、何よりも芸術的理念と感覚の尖鋭熾烈になるのは、むしろ自然発生的な現象である」(前掲文)。じつに驚くべき転身です。今や「民族文学の路線と民族の政治路線が互いに 離脱することはできない」(前掲文)と確信するに至った往年の「純粋詩人」鄭芝溶は、「純粋芸術」を標榜する新進評論家趙演鉉と対立し唯物史観を擁護する悲喜劇を演じます。
 論争と名付けるにはあまりに貧困な趙演鉉とのケンカは、『平和日報』創刊号(一九四八年二月八日)に掲載された芝溶のインタビュー記事に端を発しています。「研究心のない文学青年達が自分達は『純粋芸術』だと主張して唯物史観に格闘を申し込むのは、まるで信仰を拒否する政治青年達が教会のために十字軍を志願するようなもので、いつ背叛脱走するか知れない奇怪な外人部隊だと思います」、「純粋な唯物史観の上に純粋な芸術観。何らの矛盾もありません」(「『平和日報』記者との一問一答」)。ここで純粋芸術を標榜する「研究心のない文学青年達」とは、趙演鉉、金東里などを中心として一九四六年に創立された青年文学家協会(青文協)のメンバーを指しています。この発言に反応して趙演鉉が 『平和日報』一九四八年二月十八日付けに寄せたのが、「手工芸術の運命―鄭芝溶の危機」(趙演鉉、 『文学と思想』、 世界文学社、 一九四九。 新聞発表当時のタイトルは 「手工業芸術の末路」)です。しかしこれは論理的に反論したものではなく単に低劣な人身攻撃で、鄭芝溶は言語感覚だけで詩を書く、頭脳も心臓もない「手工芸術」の詩人であると規定し、純粋詩人であった芝溶が文学家同盟に加担して唯物史観を肯定するような発言をしているのを皮肉る以上の内容はありません。
 これに対して芝溶は、「もともと叙情詩にも素質の薄弱な青年が純粋芸術を名乗り、不純にも早熟な青年が、苦悩惨憺と老いてゆく大人に向かって、新聞を借りて悪口を言わなければならないのが、純粋であるということなのか?」(「散文」)という力のない反発をしただけです。「不純にも早熟な青年」とは、趙演鉉が元来は詩人志望であったのに詩人としては芽が出ないまま、純粋芸術を掲げる評論家として華やかに登場したことを言っているのですが、芝溶はまた、自分のことを「苦悩惨憺と老いてゆく大人」であると認めてもいます。また、「朝鮮詩の反省」の終結部分では、「八・一五以来、朝鮮人民闘争文学が一部の小市民文学志願者にまで密告中傷されるとあっては、これ以上寛大になることは文学の徳とは言えません」と言いながら、青文協の人々をアマチュア扱いしています。
 このつまらない「論争」からわずか数年後、朝鮮で左翼陣営が力を失った時、政治と芸術を分離すべきだと主張していた趙演鉉達が権力と露骨に癒着して文壇のヘゲモニーを握ったという歴史的事実を考えれば、彼等を純粋芸術において「いつ背叛脱走するか知れない奇怪な外人部隊」であると評し、その不純さを警告した芝溶の直感は、正鵠を得ていたと言えます。
 ところで「手工芸術の運命―鄭芝溶の危機」で、芝溶を感覚だけの詩人、すなわち「手工芸術」の詩人であると規定した趙演鉉の視点は、芝溶作品の評価において後輩の評論家達に少なからぬ影響を及ぼしたようです。そうした後輩の一人が、『現代文学』で趙演鉉の推薦を受けて評論家としてデビューした金允植[キム・ユンシク](一九三六~二〇一八)です。芝溶のことを、「氏の詩篇が持つ価値と美は、手工芸術の持つ価値と美であった」という趙演鉉の批評から四十年後、鄭芝溶作品が解禁された時に、金允植は芝溶作品を「生と分離」したものと見て、「技巧的、人工的、貴族的」(金允植『近代詩と認識』、三七五頁。 初出は『現代文学』 一九八八年一月号)であると言い、「(…) 李敭河が(鄭芝溶作品について、引用者)感嘆したのは、平安朝千年の古都・京都の京人形の感覚、その精錬美なのかも知れない」(前掲文)であると語りました。金允植は芝溶作品を、京都の特産品である繊細で洗練された芸術的人形、つまり「手工芸術」になぞらえているのです。有名な評論家でありソウル大学教授であった金允植が解禁と同時に下したこうした評価は、芝溶作品に「感覚は優れているが、内容のない詩」というイメージを定着させるのに大きな影響を与えました。

 鄭芝溶は解放直後に結成された朝鮮文学建設本部(文建)の中心的人物の一人になっています。文建は、後に左派的性格を強めますが、当初は朝鮮プロレタリア文学同盟(同盟)のような強硬な左翼団体とは違って、プロ文学を人民文学に解消することを目標にして非カップ系列の人士を指導部に迎え、汎文壇的組織として出発した団体でした。やがて文建と同盟が統合して朝鮮文学家同盟が成立した時も芝溶の名はそのまま残っていて、一九四六年二月朝鮮文学家同盟が主宰した作家大会で芝溶は、児童分科委員長および中央委員に推戴されています。
 芝溶がどこかで唯物史観をまともに論じた形跡はなく、「唯物史観を勉強したことはない」という彼自身の言葉も謙遜ではないでしょう。要するに芝溶の左傾は、解放後の社会をろくに分析することも、表現することもできない詩人としての反省から出たものでした。彼は文学者も社会現実を分析する批判的な眼を持たなければならず、文学も社会を改善するための力になるべきだと思うようになり、社会現実を分析するために唯物史観が役立つだろうと期待をかけたのです。芝溶はまた、唯物史観は有神論、 民主主義、 民族主義のどれとも矛盾しないと信じていました。高普時代に読んだ賀川豊彦や木下尚江などの影響もあるのかも知れませんが、ともあれ、彼の政治思想は、単純素朴なものでした。
 そもそも芝溶という人は、直感的に何かを把握したり、感覚的に表現したりする術には長けていましたが、論理的にものを考えたり、考えを理路整然と整理し、構成することは得意ではありませんでした。彼は少なからぬ散文を残しているけれど、詩的な随筆に優れた文章がたくさんある一方、新聞社時代の論説などは、感情ばかり先走って文意が伝わりにくくなったものが多いようです。彼は若い頃から論理的に考え文章を構成することが不得手だったのです。

 何にか詩の時評みたいなものを書くやうにと言はれましたが私はまだ論ずることはできません。いきなり詩人になって、いきなり論ずるやうなことは、いきなり顔が膨張することでせう。今に皆喰つてしまふほどのすばらしいことが言ひたいのですけれども、それが、血の昇りがちな二十年代の激情の為めに青い気焔にしかなりません。
 青い気焔はこらえてゐませう。
                   (「手紙一つ」、原文日本語)

 学生の時から将来、作家になりたかったのに、機会はついに訪れなかった。(中略)他人から「詩人」、「詩人」と呼ばれるのが、このデキソコナイめ、と言われているみたいで好きではなかった。俺だって書こうと思えば散文ぐらい書ける――書こうと思えば、泰俊ぐらいのものは書けるのだ、と弁解しつつ散文の練習を試みたのが、一冊の本になった」(『文学読本』、一九四七)の序文より

 評論家・崔載瑞は一九三八年の「文学・作家・知性」という文章の中で、朝鮮の代表的作家として芝溶と李泰俊を挙げています。崔載瑞は、芝溶は純粋な朝鮮語の語彙をたくさん知っており、朝鮮語で豊かな表現力を示したと言っています。また、芝溶が感情を抑制して技巧を駆使しながら詩を書く「頭脳の詩人」であるとも認めています。しかし崔載瑞は、芝溶の詩が「才気の遊戯」に陥って現代性を欠いているという点で批判されるべきだと考え、それを「知性の欠乏」と呼びました。崔載瑞の言う「知性」とは何でしょう。彼は「芸術家にとって知性とは芸術家が自己の内部に価値意識を持ち、その価値観を実現するために外部の素材――すなわち言語とイメージを、ある意図の下に組織し、統制することに表わされる」ものであり、「詩人が知的に進歩してゆくなら、遅かれ早かれ現代性にぶつからざるを得ないであろう」と言います。そして芝溶は現代性にぶつかることなく、カトリシズムに回避してしまったと惜しんでいます。崔載瑞はまた、「詩人や小説家が一個の芸術家として社会的自覚(それは知性の覚醒である)を持つようになって後は、この要求(知性の要求、引用者)はほとんど自動的に生じる」と書いて、作家の社会意識と知性を結びつけています。端的に言って、「知性」とは「知力の問題と言うより、むしろ態度の問題」なのです。「知性の擁護」という文章の中で崔載瑞は、一九三五年四月にニースで開かれた国際連盟知的協力国際委員会(ユネスコの前身)のシンポジウムの論旨を要約しています。ポール・ヴァレリーを始めとするヨーロッパの知識人達が集まったこの会議では、各個人の知的レベルが低いほど全体主義に巻き込まれる危険性が高くなると指摘されました。崔載瑞自身、後にその「知性」をかなぐり捨てて露骨な親日行為に走ったことはよく知られていますが、この「文学・作家・知性」を書いた時点で崔載瑞が示した批判的眼目は、実に鮮やかなものです。彼は詩人や作家が社会意識、社会現実を分析し批判する能力や意識の不足を「知識の欠乏」と呼び、朝鮮の文学者達に警告を発したのですから。
 もっとも、芝溶が『文章』に発表した一連の散文詩を読んだ後であれば、崔載瑞の評価もだいぶ変わっただろうとは思います。「文学・作家・知性」は時期的に見て、『カトリック青年』に発表された芝溶の宗教的詩篇に対する反応として著されたものです。それは、たとえばこういった作品です。

町じゅうが仰ぎ見るような
薔薇が一輪 咲き上がったとしても
美しいとは思わない

私は私の年齢と星と風にすら疲労する

今 太陽を失ったとしても
驚くことはない

私はもう一つ別の太陽によって生きたのだから

愛のためなら食欲も失う
孤独な鹿のように耳ふたがれ 山道に立とうとも――

おお 私の幸福は私の聖母マリア!
                (「もう一つの太陽」一九三四)

 この信仰の表明の中で、確かに詩人は社会を分析し、批判する眼を放棄しています。崔載瑞の言葉を借りて言えば、「知性」を欠いているのです。私は、崔載瑞は鋭い所をついていたと思います。芝溶が小説家にも評論家にもなれなかった原因の一つは、彼の信仰でした。宗教的な詩篇は芝溶の作品のうちでも、あまり面白くない部類に属するものが多いため、研究者達は彼のカトリック信仰について深く考えようとはしませんが、実のところ、芝溶の生活において、芝溶本人が最も大切にしていたのは、信仰だったのです。長男・鄭求寛氏は、父親の生活の半分は教会に捧げられたと述懐しています。芝溶は忙しくともほとんど毎日教会に通い、カトリック教会の機関誌を無報酬で編集し、かなりの時間と情熱をカトリックに傾けていました。カトリックの世界観に従ってものを考える習慣が若い頃からついていた芝溶は、安易に東洋回帰したり、日本のアジア主義に幻惑されたりする危険からは遠かったと言えるでしょう。カトリックは、太平洋戦争末期の過酷な時期、芝溶の精神的な健康を保たせてくれたかも知れません。しかし、ある枠組みを通してのみ思考する癖があったがために、芝溶は社会の現実に深く切り込んだり、分析したり、ある論理を構築したりする訓練には熱心ではありませんでした。そのため解放後に芝溶は、自分があまりにも長い間、知的な探求を怠ってきたことに気づいて、戦慄したのです。しかし、その空白を埋める努力すら始めないうちに、彼の姿はどこかに消えてしまいました。
 ここで少し、萩原朔太郎のことを思い出してみましょう。一般に、朔太郎については、ふらふらぐにゃぐにゃした詩ばかり書いた人、というようなイメージがあるかも知れません。しかし朔太郎自身は、二種類の文学を並行してやってきたと自負していたし、事実、彼は膨大な量の評論、思想的散文詩、アフォリズムなどを書いています。引用は『絶望の逃走』の「自序」の一部です。

 詩人としての出発以来、私は常に二つの文学を対立的に書き続けて来た。一は『月に吠える』『青猫』等の叙情詩であり、一は『新しき欲情』『虚妄の正義』等のアフォリズムであつた。(中略)つまり後者のアフォリズムは、私にとつての「思想詩」であり、他の「叙情詩」と相対して、私の詩人生活を生成して居た。

 夜に於ての叙情詩人が、昼に於ての思想詩人を兼ねることは、世界を通じて共通であり、詩人とエッセイスト、詩人と文明批判家の名は、常に同義語[シノニム]として考えられてゐる。

 他人の眼には親の仕送りで暮らす馬鹿息子に見えたとしても、朔太郎は自分の頭で考えようと真摯な努力を続けてきた詩人でした。全集に収録された膨大な量の散文からは、彼の痛ましいほどの真剣さが感じられます。後代の詩人達がもっと朔太郎の姿勢を評価し、継承していたならば、日本の現代詩は違っていたかも知れない、と私は思います。