二、文壇の成立

 プロレタリア文学が勢力を失ってから数年間は、不自由な環境の中でも文学活動が活気を取り戻し一時的な盛況を見せるという現象が、日本と朝鮮に共通して見られました。日本では一九三三年から日中戦争が始まった一九三七年までが「文芸復興期」と呼ばれ、平野謙は『昭和文学史』(一九六三)において、「昭和十年前後」(昭和十年は一九三五年)に注目しています。朝鮮では一九三四年(カップの第二次検挙があった年)から、同様の状況に入ったと見てよいでしょう。言論の自由のない環境で、文学者達は伝統的なものに「回帰」する傾向を見せました。作家達は歴史や古い説話、古典文学に題材を求めて作品を書き、プロレタリア文学全盛期には主流になれなかった叙情詩が文芸誌を飾りました。日本では大正の私小説作家が再び脚光を浴びています。転向した作家も私小説を書き、朝鮮でもそれに似た「身辺小説」が書かれました。狂い咲きの花のような日本の文芸復興期は、朝鮮でも「燦爛たる三十五年代」 (金炳翼、 『朝鮮文壇史』、 一志社、一九七三)でした。

 朝鮮ではこの時期に文壇制度が確固たるものとして確立しました。それには文芸誌『文章』が重要な役割を果たしており、鄭芝溶が大きく関わっています。日本において「文壇」が成立したのは明治二○年代以後ですが、中村光夫によれば、それは明治政府の藩閥政治で疎外され官職につけなかったインテリ青年達が、新しい生き方を探求するためにつくった、閉鎖的な空間でした。

社会から無視され放置されたこと自体が、作家たちにひとつの鎖された別世界をつくり、そこで自由な芸術上の探求を行い、周囲の封建時代の遺習と隔絶した新しい倫理に生きることを許したので、その結果、明治大正の小説家は――ことに自然主義以後――一方で社会との隔絶という代償を払いながら、他方において同時代の世界の最も進んだ思想に歩調を合わせ、そこから芸術を生むことを、生活を賭けて希ったので、こういう観念的な生活態度を可能にするために、――東洋の島国の社会の、そのまた一隅に生きながら、頭のなかにはいつも世界の最新の思潮をながしておくために――文壇という特殊な社会が必要とされたのです。
(中村光夫 「序」、『日本の近代小説』、岩波書店 一九五四、四頁)

 明治二○年代に成立した文壇がもっとも華やかだったのは大正時代ですが、その華やかさの裏には幸徳秋水らの大逆事件が暗い影を投げかけています。政治的圧迫が強くなった時、人は思想をストレートに語る代わりに文学の垣根の中に逃避しました。その現象が一九三○年代半ばに、再び現れたのです。そのため、昭和の文芸復興の特徴の一つが、大正作家の復活でした。
一九三○年代後半の京城文壇の状況についても、これと似たことが言えるでしょう。カップの教条性から解放された時、不自由な状況の中でも伝統的なもの、敍情的なものを追求する作品が多数創作され、一時的な盛況を見せたことは事実です。そしてこの時期に『文章』などの雑誌が実施した新人推薦制度により、文壇は確固とした制度になりました。誰でも何か書いて同人誌などに出せば作家や詩人になれ、「今、わが国ではろくでもない奴等が、こぞって小説を書こうとする」と金東仁(『創造』 五号)が嘆いた一九二○年代初めとは打って変わって、『文章』時代の文壇は、権威のある審査委員の審査を経なければ入ることのできない、閉鎖的な空間でした。その一員になることは名誉なことなので、人々は競って「登壇」しようとします。三回推薦を受ければ既成作家または詩人として遇されるという『文章』の推薦制度は、一次、二次、三次試験を通過してようやく官吏に登用される科挙の制度を連想させますが、こうした登壇制度は、おそらく日本にすら存在したことのない、きわめて硬直した方式です。
 金東里は一九三三年から三六年前後を「汎文壇形成期」と表現し、文壇が形成されはじめた原因は、各新聞社の施行する新春文芸の盛況にあると見ています。また彼は、雑誌の推薦制度が現在のような性質のものになった時期を「一九三三年以後」だと言うのですが、新聞と雑誌のこうした制度の定着が、文壇の性格を決定づけたと言えるでしょう。(「あの頃の文壇新世代」、 『金東里全集 八』、 民音社、 一九九七、 一九○~一九一頁)。もっとも、『文章』のこうした推薦制は一九四○年九月号から「既成作家一名の推薦があれば可とする」という方式に変わりました。
 この時期、朝鮮では作家、詩人の数が激増して作品も多数創作され、『文章』は新人推薦制度を設けました。こうした事実は、閉鎖空間としての京城文壇を形成するのに貢献したでしょう。政治的な圧迫が言論を不自由にしたため、人々は一般社会から文壇を独立させ、その囲いの中で自らの考えを文学的に表現することを望んだと言ってよいかも知れません。比較的安全で快適なその垣根の中に入りたい新人達の推薦応募作品が殺到した時、「文壇」が確立したのです。
 とはいえ、文壇の成立の要因はそれだけではありません。一九三○年代半ばの朝鮮における状況を概括してみましょう。
 まず第一に、既に述べたごとく、プロレタリア文学の影響が払拭されたことにより、それまで抑圧されていた敍情、伝統、芸術性などを追求する文学が、堂々と発表されるようになりました。
 二つ目には、一九三○年代初めから多くの雑誌が創刊され、文芸雑誌ではない雑誌にも文芸欄が設けられたため、文学の読者数が飛躍的に増加し、文学に興味を持つ読者、作家・詩人志望の読者が増えました。もちろん、これには学校制度の普及が大きな役割を果たしているでしょう。
 三つ目は京城が都市化されたために東京に留学しないでも近代的な生活が可能になったことです。人々は近代人の生活感情を描いた新しい文学を渇望し、またそうした文学作品を多くの読者が実感とともに受け入れました。
 四つ目の要因には、鄭芝溶も関与しています。それは一九二一年末に誕生した朝鮮語研究会などの努力により、近代的な朝鮮語が整備され、『文章』創刊の頃には朝鮮語の口語文が一応の完成を見せていたという点です。ハングル表記法統一案が一九三三年十月に、一九三六年十月には「訂正版・朝鮮語標準語集」が発表され、どういったものが朝鮮語の標準語であるのかという輪郭が見え始めました。また崔鉉培[チェ・ヒョンベ](国語学者、一八九四~七○)は文法を整理して一九三七年に『ウリマル本』(「ウリマル」は「我々の言葉」という意味で、朝鮮語のこと)を出版します。民族主義的国語学者達のこうした業績のおかげで朝鮮語は、初めて近代的な言語としての「標準」を持ったのです。人々は朝鮮語の文章で自分達の考えや感情を、いっそう自由に表現できるようになりました。それゆえに 『文章』の新人作品募集広告に「つづりや分かち書きを正確にせよ」という要請が含められたのであり、李泰俊が「文章講話」を書いて、正しい朝鮮語の文章を提示することも可能になったのです。
 だが、国語学者ではない鄭芝溶は、口語文章体の完成にどう寄与したのでしょう。同時代の優れた評論家、崔載瑞の言葉を引いてみます。

鄭芝溶氏の人気は、今日に至ってもたいへんなものだ。特に、これから詩を書こうとする人達が、きまって『鄭芝溶詩集』を勉強することを我々は知っている。そして彼らは異口同音に、彼の朝鮮語を嘆賞する。彼の詩の言語的優秀さには、二つの要素が含まれている。一つは、彼が我々のよく知らない、純粋な朝鮮語の語彙をたくさん持っているという点(彼は言葉をたくさん知っているだけでなく、普通の言葉の語源についても、驚くべき知識を持っている)、もう一つは、彼の手にかかると朝鮮語が驚嘆すべき能力を発揮するという点で、こうした二つの要素が彼の詩的措辞の魅力を構成している。そしてこの二つ目の要素は、彼の詩の生命とも言えるものである。事実、彼の詩を読んだことのある者ならば、朝鮮語にもこんなに豊富な、あるいは微妙な表現力があったのかと一度は疑い、驚くであろう。
(「文学・作家・知性」、 『崔載瑞評論集』、 青雲出版社、 一九六一。 初出は 『東亜日報』一九三七年八月二十日)

 一九三五年に発行された『鄭芝溶詩集』は、学生時代、すなわち一九二○年代の感覚的な作品と、帰国してから一九三○年代前半に書かれた作品――宗教色の濃い作品も含めて――を収めています。もちろんすべて朝鮮語の作品です。
 上の引用から分かるように『ウリマル本』が文法の教科書であるならば、『鄭芝溶詩集』は一九三○年代後半以後の詩人志望の若者達が詩的言語を学ぶための、教科書のようなものでした。国語学の成果だけでは、詩を書くことはできません。埋もれていた純粋な朝鮮語を発掘し、言葉を変形させて新しい言葉をつくったりする詩人の努力が、人々の繊細な感情のすみずみまで表現することを可能にしたのです。だからこそ『鄭芝溶詩集』が出た時、人々は熱狂的に迎え、その後もこの詩集は長い間、絶対的な影響力を及ぼし続けてきたのです。そうであるならば、鄭芝溶は芸術言語、詩的言語の完成者であると規定しても、過大評価ではないでしょう。
 一九二○年代の朝鮮では、外国語・外国文学の影響なしに近代的な文学作品を創作することはほとんど不可能でした。しかし、一九三○年代後半の朝鮮語は、かなり整備されており、文学青年達は詩的言語のお手本である 『鄭芝溶詩集』を手にしていました。朝鮮の人々が外国文学を読まないでも自分達の言語で近代詩を創作することが可能になったのは、おそらくこの時期以降です。人々は詩をつくることのできる美しい言葉を自国に発見して狂喜しました。朝鮮半島において「民族文学」にこれほどの貢献をした詩集が、かつて、そしてこれ以後にも、存在したことがあるでしょうか。