2)教師として

 徽文高普(後に中学)で英語を教えていた芝溶は解放後、梨花[イファ]女子専門学校(後に女子大学)の教授になり、女学生相手に韓国文学、英詩、ラテン語などを講義します。梨花女専は裕福な家庭の娘達が通うキリスト教系の私立学校で、ブラウスとスカートのしゃれた制服は街でひときわ注目を集めていましたが、そんな学校でも食糧事情の悪い時代には、お腹をすかせていた学生が少なくありませんでした。

 「一人分と十人分」というエッセイの中で芝溶は、「先生、お昼を食べてないからお腹すいて死にそうなの。何か食べさせて」と学生達にねだられ、自分もお金を持っていなかったために皆で芝溶の知人宅に押しかけ、留守宅にあがって勝手にご飯を食べてしまったというエピソードを語っています。他の先生達が洋服を着ているのに、芝溶はいつも黒いトゥルマギ(民族服の外套のようなもの)を着て灰色のマフラーを首に巻いていて、しかも話す時には田舎の訛りがありました。要するに野暮ったく、かつ貧乏臭い姿なのですが、当時の学生の一人は、この純朴で生活感のない清貧そのものの先生は、背は小さくとも大きな目がいつもキラキラしていて、とても素敵だったと回顧しています。自作の詩などを朗読しては、「お前達、この感じが分からないのかね? 鈍いなあ。それでも文科の学生か」などと、よく言っていたそうです。
 芝溶はソウル大学にも出講し、「現代文学」という科目で、なぜか『詩経』の講義をしていました。高名な詩人の、身ぶり手振りをまじえた講義がとてもおもしろいと評判になって、教室に入りきれない学生が窓からのぞきこむほどの人気だったそうです。
 友人、後輩、芝溶に心酔していた文学青年達、教室で直接教えを受けた学生達は後に芝溶の著作に対する発禁処分を取り消させるための署名運動に参画し、大きな力となりました。