(3)明洞[ミョンドン]聖堂

 天使ガブリエルがマリアに受胎告知をする場面の聖画を『鄭芝溶詩集』(一九三五)の表紙に使っていることからも分かるように、帰国後も芝溶の信仰は衰えませんでした。盧基南[ノ・ギナム](一九○二~八四)大主教は、一九四六年一○月にカトリック教会が創刊した京郷新聞の初代主筆として鄭芝溶を起用したのは、芝溶が「熱烈なカトリック信者であり、私が鐘峴[チョンヒョン]聖堂(現在の明洞[ミョンドン]聖堂、韓国カトリックの総本山)の補佐神父だった時から鐘峴聖堂によく出入りしていて親しかった」ためだと証言しています(盧基南、『明洞聖堂』、 中央日報社、一九八四、一五二頁)。「星[ピョル]」一九三○年七月一○日付の記事によれば、芝溶はカトリック教会鐘峴青年会の総務を務めており、一九三一年二月一○日付の記事は、鐘峴青年会の定期総会で彼が聖歌隊の一員として表彰されたことを伝えていますし、解放後にも彼は、熱心な信者として活動しています。
 芝溶は 『星』『カトリック青年』などに宗教詩の翻訳を多数発表し、また自らも宗教的色彩の濃い詩を創作したり、『カトリック青年』にトマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis=Thomas Hammerken)の「キリストのまねび(De Imitatione Christi)」を訳出したりしています。
 芝溶のカトリック詩篇のうち「聖復活主日」は復活祭に合わせて『星』に、「勝利者金アンドレア」は『カトリック青年』の「福者アンドレア金神父特集号」(一九三四年九月号)に書いたものですが、緊張感を欠いた、無理に創作されたような感じの作品です。日本では三木露風がカトリックの信仰を詩に表わしたことで知られていますが、芝溶が露風の影響を受けた形跡もうかがえません。ただ、『カトリック青年』にはまったく宗教色のない詩「時計を殺す」や「帰路」なども発表しているし、李箱などの、カトリックとは縁のない詩人の前衛的な作品も掲載していることを考えれば、芝溶のカトリック詩篇のつまらなさは掲載誌の制約によるものではなく、詩人本人の問題でしょう。こうしたカトリック詩篇は、そのほとんどが一九三一年から三四年の間に創作されたものです。三四年以後も『カトリック青年』は続いていたのに芝溶が宗教的な詩を出さなくなったのは、自らのそういった作品に嫌気が差したためではないかと思われます。
 しかし、いかなる時にも芝溶の信仰は衰えず、彼の生活の中で宗教活動は最も重要な位置を占めていました。芝溶は一九三七年に『女性』という雑誌のアンケートに回答を寄せていますが、「朝鮮女性に読ませたい書籍を二冊ほど挙げて下さい」という問いに対して、東京のカトリック中央書院から発行された『真理之本源』『信仰生活の入門』『聖女テレジヤ自伝――小さき花』『カステイ・コンヌビイ』というカトリック関係の日本語書籍四冊のタイトルを記し、推薦理由としては「読めば自然に分かってくるはず」だと書いています。カトリックとは無関係な女性誌のアンケートにこんな回答をすることからも、芝溶のカトリック熱を感じることができるでしょう。
 芝溶のカトリック詩篇は朝鮮の近代詩史上、最初の宗教詩だという点で評価されています。しかしそれよりも重要なのは、宇宙の秩序をカトリックの整然とした体系によってとらえていたことが、暗欝な時代にも詩人の精神的健康を保たせていたのではないか、ということです。芝溶はカトリックを信じたために西洋に対する深い絶望や敵意を持つこともなく、西洋帝国からアジアを解放するという「大東亜戦争」の理念に幻惑されないですんだのではなかったでしょうか。
 ところが驚いたことに柳致環は、芝溶が一九五○年頃にカトリックを捨てたと書いています。

芝溶と最後に会ったのは、六・二五動乱(朝鮮戦争のこと、引用者)勃発のちょうどひと月前の五月下旬だった。そのとき芝溶は青谿[チョンゲ]・鄭鍾汝[チョン・ジョンヨ](画家、一九一四~八四)の挿絵入りで『京郷[キョンヒャン]新聞』(?)に紀行文(『国都[ククト]新聞』に連載された「南海五月点綴」(一九五○年五月七日~六月二八日)のこと、引用者)を発表しながら南海の方を回遊していたのだが、その途中で私の故郷である統営[トンヨン]に立ち寄って、わが家で一週間余り毎晩一緒に酒を飲んで、楽しく過ごした。芝溶が篤実なカトリック信者で、息子二人を神父にまでしようとしていたのを知っていた私としては、芝溶がカトリックを徹底的に憎み、それを放棄していたという事をその時彼の口から聞かされて驚いた。その原因は、カトリックのある戒律が人間性の極めて重要な面を過酷に抹殺しようとするのに憤慨しているようであった。彼の話の中には、徳源[トグォン]修道院かどこかに行って修道していた息子が、わが家恋しさに夜、そこを抜け出して歩いて帰ってきたことの顛末も含まれていたのだが、人一倍多感多情な芝溶は、そのことをひどく痛ましく、かわいそうに思っていたようすだった。私は芝溶を思うたび、彼がカトリックに対する信心を破棄した心情の打撃が思われて、何よりもまず心が痛んだ。

 だが、これには多少の錯覚が含まれていると思われます。まず、長男である求寛氏の証言によると、神父を目指していたのは次男の求翼[グイク]だけであり、しかも父の命令ではなく、自ら望んで神学校に入ったのだそうです。求翼の入った「徳源修道院」とは、一九二○年代に咸鏡南道[ハムギョンナムド]につくられた徳源聖ベネディクト(芬道[ブンド])修道院です。この修道院では「十四、五名のドイツ人聖職者と朝鮮人神父・修士・修女・雑役夫など合わせて百人あまり」が生活していて、広い敷地には修道院、 神学校以外にも印刷所、病院、パン工場、ワイン醸造場などの近代的な設備が整っていました。(崔奭祐『朝鮮天主教会の歴史』、朝鮮教会史研究所、一九八二、三八三頁) 求翼がこの神学校に入ったのは、戦争末期の宗教弾圧により、他の神学校が閉鎖されたためであろうと思われます。
 求寛氏は、弟が修道院から戻ってきたのは修道院の生活が嫌になったためではなく、修道院が共産党に占拠されたからだと述懐しており、これは記録によって裏づけられます。一九四九年五月九日、数十人の政治保衛部員を載せたトラックが徳源修道院に到着しました。彼らは神父達を逮捕し、修道院を占拠します。五月十一日には「残っていた朝鮮人の神学生と修士・修女達は神学校の中にみな収容された。この時から神学校は獄舎に変わったのだ。最年少者の十二歳から最年長者の六○歳を過ぎた老修士まで、全部で九九名の人々は一週間監禁された後にここから追放された。彼らはロザリオ・十字架・聖牌などはもちろん、聖物・修道服・神父服、 ひいては書籍まですっかり奪われ、個人の服何枚かだけ持ってゆくことが許された」。(崔奭祐、前掲書、三八四~三八五頁)。(この修道院は後に金日成農科大学として使用されました。徳源修道院の受難については、金昌文・鄭宰善編、『朝鮮のカトリック―過去と現在』<カトリックコリア社、一九六三>に詳しい記録があります。)
 この記述からすると、一九五○年に芝溶がカトリック教会に対する不満を口にしたとしても、次男が神学校をやめた理由は、このような事情で学業を続けることが不可能になったためだと考えていいでしょう。この切迫した状況を思えば、「夜、そこを抜け出して歩いて帰ってきた」というのも充分理解できます。また、もし芝溶が正式にカトリック教会との関係を切っていたとすれば、何らかの記録が残っているでしょうが、少なくともその証拠となる文書は見いだせないのです。
 柳致環の家を訪れた時、芝溶はすでに京郷新聞社も梨花[イファ]女子大学も辞職し、草屋に隠遁していて文壇の交友もあまりなかったため、柳致環以外には、これに関して書いている人もいないようです。酔ったはずみで、日頃カトリック教会や次男のいた神学校に対して抱いていた不満を芝溶が吐露し、柳致環の頭の中では、いろんな話がごっちゃになったのでしょう。彼らは連日連夜飲み明かしていたのです。

 一九五○年頃、芝溶は文壇から距離を置いていました。そのことは「小説家李泰俊君 祖国の<ソウル>に帰れ」(一九五○年一月)で、李泰俊がソウルから姿を消して五年にもなるのに、まったく知らなかったと書いているのを見ても分かります。朴容九[パク・ヨング](音楽評論家、一九一四~)の証言によれば、この頃、芝溶がつきあっていた友人としては朴容九以外に、金練万[キム・ヨンマン](『文章』経営者)、 吉鎮燮[キル・ジンソプ](画家、一九○七~七五)、 薛貞植[ソル・ジョンシク](詩人・小説家、一九一二~五三)、 金東錫ぐらいだったそうです(朴容九「毒舌の中の童心・鄭芝溶」、『東亜春秋』一九六三年四月号)。いずれも芝溶よりも年下の友人達です。