五、 帰る場所のない「回帰」

 前述のごとく、文壇を席巻していたプロレタリア文学運動が終結した後、西洋的なものより東洋的なもの、あるいは自民族のものを探し求める復古的風潮が、日本でも朝鮮でも見られました。作家や詩人達は古典文学や古典芸術を研究し、古い言葉を自らの作品の中で復活させ、あるいは歴史や民話を素材に作品を書きました。一九三○年代半ばからのこうした風潮は東洋回帰、古典回帰、日本では日本回帰などと呼ばれたりもします。またこの時期の文学には東洋的自然美をうたう自然回帰現象も眼につきます。
 日本で東洋回帰的風潮が高まった原因は、それほど単純ではありません。第一義的にはアジアを欧米列強の植民地支配から解放するという「大東亜戦争」の名のもとに侵略戦争が進む中で、西洋を追い求める内容の作品が発表の場を失っていく一方、日本的、あるいは東洋的なものを表現したものは、比較的自由に書いたり発表したりすることができたからだと言えるでしょう。「支那事変以来、わが古典の精神は顕揚され、外来文物への屈従は厳しく戒められてきた。古典による一斉掃射が行はれつつある。英米の風潮も唯物主義も次第に退却したかにみえる。少くとも大東亜戦の勃発は、従来の困迷に一の決断をもたらしたことは疑ふべくもない」。(亀井勝一郎、「現代精神に関する覚書」(一九四二) (河上徹太郎 他『近代の超克』、富山房、 一九七九、五頁)。日本回帰的傾向を代表する雑誌が『日本浪曼派』(一九三五年三月~一九三八年八月)ですが、古典の探求を通して民族の伝統を取り戻すという『日本浪曼派』同人達の高邁な理想も、主君のための死の美しさを称えることによって結果的に「聖戦」を肯定する論理としての役目を果たすことになりました。東洋(あるいは日本)への回帰は、それ自体が日本ファシズムに加担してしまう危うさをはらんでいたのです。
 しかし当時、多くの知識人達が東洋や古典に向かったのは、必ずしも前述のような政治的圧力のためだけではありませんでした。明治維新以来、日本の知識人達が慌ただしく押し進めてきた近代化が、この時期にはもう行き詰まっており、人々は西欧の文明を追求することに懐疑を抱き始めていたのです。「日本近代の行き詰りとは、明治維新以後、西欧近代に倣って急速におしすすめられてきたわが国の近代化(資本主義化・中央集権化・工業化・合理主義化・都市化などをふくむ)が、日露戦争終結ののち大正なかごろに至って、ほぼ限界に達し、さまざまな局面で破綻をみせはじめた、ということである。たとえばそれは、資本家対労働者の対立の激化であり、地方の疲弊であり、農業の衰退であり、民衆の伝統的エートスの圧殺であった」(松本健一「解題」、『近代の超克』、ⅰ頁)。ある文学史は、日本回帰的傾向に拍車を加えた要因を、「天皇制中心の国体観念は絶対化し、『非常時』意識の浸透につれて、右からの五・一五事件(昭七)、二・二六事件(昭十一)やその支柱となった井上日召、橘孝三郎、北一輝ら『昭和維新』思想、左からの、たとえば社会大衆党綱領の右傾と大政翼賛会への合流(昭十五)、あるいは哲学における田辺元の、天皇制国家を合理化するごとき『種』の論理や、東亜新秩序論・大東亜共栄圏ヴィジョンの展開などが民族的危機感を増幅させ、アジアの盟主意識を裏打ちとした『日本への回帰』の心情が急速に高まった」と説明しています。(紅野敏郎 他 編『昭和の文学―近代文学史3』、有斐閣、一九七二、一五九~一六○頁)。
 朝鮮においても、東洋回帰は、ある時は国策に追随する親日的行為であり、またある時は現実に背を向けて自然や古典の世界に没入する逃避的態度でしたが、一方ではそれが民族主義に基礎を置く抵抗精神の発露となる場合もありました。「日本的なもの」に対して「朝鮮固有のもの」を強調すれば、それは民族の矜持を昂揚させることになるからです。ちょっと見には似たような「東洋回帰」でも、植民地知識人達が東洋的なものに向かう心理には、いろいろな要素を考えなければなりません。
 鄭芝溶もまた、このような東洋回帰の大きな波に巻き込まれざるを得ませんでした。芝溶はもともと漢学の素養のある人ですが、一九三九年に東洋的文人趣味に傾いていた李泰俊や、嘉藍[カラム]・李秉岐[イ・ビョンギ](一八九一~一九六八)と共に『文章』を率いたことも影響を与えたでしょう。李秉岐は時調復興運動の中心人物で、徽文高普の先生でもありました。芝溶が『文章』に発表した「長寿山1」、 「長寿山2」、 「忍冬茶」などの作品は『詩経』の語句を採り入れるなど、漢詩のような東洋的枯淡の世界に染まっているようにも見えます。
 しかしこの時期に集中して書かれた散文詩の形式と内容を考えてみれば、芝溶がこの時期に東洋に回帰した、と言うのは無理でしょう。古語や擬古的な終結語尾が多用されるのは「長寿山1」、 「長寿山2」、 「むくいぬ」、 「温井」 などの数篇に限られており、その他の散文詩は非常に現代的な文体を採用しています。古語などの使用は、古風な衣裳に過ぎません。もちろんそれは、客地で挫折の日々を送った杜甫のような東洋文人の心境を思い起こさせ、歴史の重みと深みを作品に添加する役割を果たしています。しかし抑圧された詩人が自らを唐の詩人になぞらえ自然の風景に埋もれてみたとしても、それは一時的な慰労に過ぎず、そこに安住の地を見いだした訳ではありません。自然の中に身を置いてみたところで、作品中の話者や登場人物の心は「追われてきた一抹の雲」にすぐ曇ってしまう白鹿潭のごとく、不安定なのです。
 詩集『白鹿潭』の散文詩に至って、芝溶のモダニズム的性格は頂点に達します。先に見たように、『白鹿潭』の散文詩は日本のモダニズム詩人達が一九二○年代後半から三○年代初めにかけて旺盛に創作してきた散文詩と多くの共通点を持っています。冷静で淡々としたトーン、話者あるいは登場人物の気持は、運命の大きな波が押し寄せているのに、何もできず眼を見開き息を詰めているような不安感に満ちています。これらの作品を見ると詩人が東洋的文人趣味に満足していたとは、到底考えられません。また、当時、知識人達が東洋回帰に向かう動機の一つが西洋文明に対する不信感であったとすれば、一九二八年に洗礼を受けて以来、解放後までカトリック(catholic=普遍)信仰を維持していた鄭芝溶には、西洋文化に根本的な反感を感じる契機がなかったと言えるでしょう。
 北原白秋はどうだったでしょうか。一九一○年代の半ば、白秋は初期の南蛮趣味を捨てて東洋的枯淡の境地に浸ります。それは「聖戦」を賛美する民族意識に連なり、白秋は一九三○年代半ばから戦争協力詩を書き始めます。白秋が幼児のように純真な面を持っていたことは多くの人が証言しており、彼が権力に追従する人であったとは思えません。たとえば金素雲は、道端で物乞いをする乞食の稼ぎが思わしくないのを目撃した白秋が、突然、上半身裸になって踊りだし、その見知らぬ乞食のために人を集めてやったというエピソードを書いています。これが実話であるかどうかは重要なことではありません。要は、周囲の人々に「ああ、あの人ならそれくらいやりかねない」と思わせるような性質を、白秋が持っていたということなのです。ことに白秋は芸術に干渉してくる軍部に対しては、強い憎悪と敵愾心を抱いていました。そんな白秋が、なぜ戦意昂揚を促すような詩を書いたのでしょうか。
歌人宮柊二は、白秋についての座談会で、「つまり何かイデーのない詩人というものは、結局行きつく先は自分が日本人であるということしかない。それは一つの必然の過程ではないか、そういうことを考えております」と発言しています(座談会「北原白秋の再評価」、 『現代詩手帖』一九八六年十月号)。白秋はアジアを西洋諸国から解放するという大東亜戦争の理念を信じ、それが民族意識と結びついて古代日本への回帰を促したのだと思われます。白秋だけではなく、かつてのモダニズム詩人、プロレタリア詩人、民衆派詩人達が戦争協力詩の創作に手を染めましたが、その多くは七五調の文語体で書かれ、古代あるいは中世の語彙が使用されました。伝統的な韻律は、共同体意識を呼び起こし、それまでずっと社会の異端者であった詩人達は国民の大多数の支持を得る幸福に酔っていました。
 吉本隆明は「戦争期に浮動的な庶民通念以外の立場から戦争詩、愛国詩をかいた詩人があるとすれば、高村光太郎と『四季』派の詩人達をあげなければならない。高村光太郎の場合、それは自我意識に固執しながら、もっとも典型的に日本的な近代性と庶民性との綜合された性格が、必然的に戦争肯定にはいってゆく経路にほかならなかった。『四季』派の場合には、その詩概念のなかにある自然観が風土的、地域的、社会構造的、歴史的、政治形態的といったような要素を綜合したものとして形成された日本の恒常民の自然観をよびおこすだけの類似性があったために、伝統的な感性をほりおこすことによって必然的に絶対主義的な天皇制によって推進された戦争の肯定、讃美、プロパガンダにはいったということができる」と説明しています(「詩人の戦争責任論」『吉本隆明全著作集』第十三巻、勁草書房、一九六九)。 望郷の念を古語で表わし、侵略戦争を日本古代神話になぞらえて荘重な調べでうたう白秋を、人々は「国民詩人」と呼びました。若き日の憧れであった師のこういった行動を、芝溶がどんな眼で見ていたのかは、想像に任せるほかありません。
 高田瑞穂は日本の文学者達の日本回帰を、明治型と大正型の二つに分けて考察しています。

明治日本の知識人とは、和魂洋才の人であった。かつて和魂漢才の人であったように。詩人に限定してもそうであったにちがいない。半封建的近代に生きた彼等に、和魂は常に内在し続けた。従って、西欧の詩心を体得するのにそれが妨げを及ぼしたとしても、『日本への回帰』に際しては、改めて伝統を再認する必要はなかった。帰ろうと思えば、何時でも、自然に、心の家に帰ることができたのである。(…)外発的開化の中に人と成り、詩壇に登場したものの日本回帰が、総じて自然な道行であったのも当然であった。
  (『日本近代詩史』、 早稲田大学出版部、 一九八○、二○二~二○三頁)

 高田によれば、白秋の日本回帰は明治型です。それに対して、萩原朔太郎の日本回帰は大正型です。ボードレールの影響の濃い作品を発表して日本語口語自由詩を完成した詩人であると言われた朔太郎も、一九三○年代には文語体に回帰します。しかし、「石をもて蛇を殺すごとく/一つの輪廻[りんね]を断絶して/意志なき寂廖を踏み切れかし。」(「漂泊者の歌」、 一九三一)と叫ぶ朔太郎において、難しい漢字語や固い文語体は、激しい怒りや切迫感を表現するための手段に過ぎず、彼は東洋的文人趣味に安住の地を見いだしていた訳ではありません。

少し以前まで、西洋は僕等にとっての故郷であった。(…)だが今では、その幻灯に見た夢の市街が、現実の東京に出現され、僕等はそのネオンサインの中を彷徨している。そしてしかも、かつてあった昔の日より、少しも楽しいとは思わないのだ。(…)

明治以来の日本は、殆んど超人的な努力を以て、死物狂いに西欧文明を勉強した。(…)
日本人の西洋崇拝熱は、西洋に隷属する為の努力でなくして、逆に西洋と対抗し、西洋と戦う為の努力であった。そして遂に支那を破り、露西亜[ロシア]と戦い、今日事実上に於て世界列強の一位に伍した。もはや我々は、すくなくとも国防の自衛上では、学ぶだけの者は自家に学んだ。そこで初めて人々は長い間の西洋崇拝から覚醒し、漸く事故の文化について反省して来た。つまり言えば我々は、過去約七十年に亘る「国家的非常時」の外遊から、漸く初めて解放され、自分の家郷に帰省することが出来たのである。
だがしかし、僕等はあまりに長い間外遊して居た。そして今家郷に帰った時、既に昔の面影はなく、軒は朽ち、庭は荒れ、日本的なる何物の形見さえもなく、すべてが失われているのを見て驚くのである。僕等は昔の記憶をたどりながら、かかる荒廃した土地の隅々から、かつて有った、「日本的なるもの」の実体を探そうとして、当もなく侘しげに徘徊しているところの、世にも悲しい漂泊者の群なのである。(…)

僕等は西洋的なる知性を経て、日本的なものの探求に帰って来た。その巡歴の日は寒くして悲しかった。なぜなら西洋的なるインテリジェンスは、大衆的にも、文壇的にも、この国の風土に根づくことがなかったから。僕等は異端者として待遇され、エトランゼとして生活して来た。しかも今、日本的なるものへの批判と関心を持つ多くの人は、不思議にも皆この「異端者」とエトランゼの一群なのだ。或る皮相な見解者は、この現象を目してインテリの敗北だと言い、僕等の戦いに於ける「卑怯な退却」だと宣言する。しかしながら僕等は、かつて一度も退却したことは無かったのだ。逆に僕等は、敵の重囲を突いて盲滅法に突進した。そしてやっと脱出に成功した時、虚無の空漠たる平野に出たのだ。今、此所には何物の影像もない。雲と空と、そして自分の地上の影と、飢えた孤独の心があるばかりだ。
(萩原朔太郎「日本への回帰」(一九三七)、 『昭和文学全集4』、 小学館、 一九八九、三七二~三七四頁)

 白秋において「日本」は、傷ついた自我を優しく包んでくれる懐かしい古里でしたが、朔太郎にとって、それは虚妄に過ぎないものでした。「たとえ現実の日本がなく、すべての日本的な物が虚妄であっても、尚且つ我等は、イデーとしての日本を所有せねばならないのだ」(朔太郎、「漂泊者の文学」前掲書、三六九頁)と悲壮な決意を見せているように、朔太郎の日本回帰は、帰る故郷が既に失われていることを知りつつなされる、アイロニカルなものでした。小林秀雄は「重要な事は私達はもう西洋の影響を受けるのになれて、それが西洋の影響だかどうか判然しなくなつている所まで来ているという事だ。(中略)私達は生れた国の性格的なものを失い個性的なものを失い、もうこれ以上何を奪われる心配があろう。(中略)こういう時に、徒に日本精神だとか東洋精神だとか言ってみても始りはしない。何処を眺めてもそんなものは見附かりはしないであろう」(小林秀雄、 「故郷を失った文学」(一九三三)、『小林秀雄全作品』四、新潮社、二○○三、一八二~一八三頁)と語りました。失われた故郷は回復不可能なのです。
 白秋と朔太郎の年齢差はわずか一歳ですが、二人の日本回帰の様相が大きく違うのは、早熟だった白秋が日本の古典文学の教養を豊富に身につけていたのに対し、朔太郎の教養が比較的貧弱だったことに原因の一端がありそうです。朔太郎が漢字や文法をよく間違えていたのはよく知られていますが、教養の不足は、朔太郎をして伝統的な七五調のリズムを捨て、のびのびとした口語体の詩をいち早く創作させた要因でもあります。日夏耿之介は朔太郎について、無学なのが奴の強みだ、と言ったそうです。
 芝溶の東洋回帰は朔太郎の型に近いと言えるでしょう。芝溶が漢詩的な世界、東洋的枯淡の境地にしばしひたったとしても、それは帰るべき故郷ではありませんでした。白秋のような日本の明治型詩人は古語を用い、七五の韻律に回帰することができましたが、芝溶に帰るべき韻律はなかったし、『文章』時代の芝溶は、むしろ散文詩という形式に執着していたのです。朴龍哲[パク・ヨンチョル](詩人、一九○四~三八)との対談で、芝溶は「だいたい、東京文壇には新体詩の時期があり、その次に自由詩ができ、その後、民衆詩とか何とかいう一種の混沌時代がありましたが、我々には新体詩の時代がありませんでした」「もちろん外国に比べて我々にも古代歌謠や時調があったといっても、それが一貫して伝統になれなかったのは事実でしょう」(「詩文学について」、 一九三八)という発言をしており、朝鮮近代詩は伝統と断絶しているとの認識を示しました。また朴龍哲の「詩はこれから東洋趣味を取るべきか? 西洋趣味を取るべきか?」という質問に対しては、「我々はそれほど深く考えないでよいと思います」と答えており、一九三○年代後半になっても、芝溶が特に東洋回帰を志向していたのではないことが分かります。
 都市が近代化すれば、あるいは人間もひとたび近代的自我=内面を持つようになれば、再びそれ以前の状態に戻ることはできません。それは不可逆的な過程なのです。パリに渡航した友人の舞踊家・趙沢元[チョ・テグォン](一九○七~七六)から来た、「詩は東洋にこそ、あったのです」という手紙を読んで、芝溶は「そうだろうかと思い、ある日、雨に降られながらブリキ屋根の家、藁葺きの家、レンガの家、建陽社[コニャンサ](庶民向けの韓国式住宅を大量に建てて分譲した、組合方式の建設会社の名。訳注)の家々の路地を半日歩き回って家に帰り、返事を送った。『詩は東洋にもなかったよ』と」(「斬新な東洋人」、 一九三八)。芝溶は、帰るところがとっくに失われているという事を、何も無いところから出発しなければならないことを、京都で「幌馬車」を書いた時から感じていました。「帰りたい。 あつたかい爐[いろり]のそばに帰りたい。(…)でも私は帰られるでせうか?」。詩人は、帰る場所が無いことを、始めから知っていたのです。