第三部 『鄭芝溶詩集』発刊以後 (一九三○年代後半~一九五○年) 一、九人会

    朝鮮においては一九二五年から三四年頃までがプロレタリア文学の全盛期で、プロレタリア文学でなければ認められないような雰囲気が、それ以外の作家や詩人を苦しめていました。そうした風潮に反発した人々が一九三三年に「九人会」というグループを結成し、鄭芝溶も結成当時から参加しています。従来、このグループをモダニズム運動の拠点のように評する人が多かったのですが、これは間違いです。

 カップが日本のナップをまねて結成されたように、九人会も日本の「十三人倶楽部」(川端康成、尾崎士朗、中村武羅夫ら十三人の作家が結成したグループ)にならって構想されました。一九二九年の末に「芸術派の十字軍」を標榜して誕生した「十三人倶楽部」の内実は作家達が雑談する会に過ぎませんでしたが、翌一九三○年四月には新潮社をバックにした「新興芸術派倶楽部」に発展しました。プロレタリア作家を除いた新進作家三十人が大挙参加したこのグループは目立った活動はなかったものの、「反マルクス主義文学部隊の結成」(平野謙)を目指してつくられたには違いありません。しかし参加者にこれといって共通する思想があったわけではないので、間もなく活動を終えてしまいました。
 朝鮮で九人会が結成されたのは一九三三年夏です。カップ第一次検挙(一九三一)と朴英煕の脱退(一九三二)によって衰退しかけてはいたものの、プロレタリア文学はまだ相当の影響力を保っていました。九人会結成メンバーの一員であった趙容万[チョ・ヨンマン](小説家、英文学者、一九○九~九五)の証言(趙容万、「九人会の話」、『三○年代の文化芸術人たち』、ポミャンサ出版社、一九七八、一二三~一三九頁)に従って整理すると、十三人倶楽部に刺激されて反カップの文学団体をつくろうと言い出したのは、小説家李鍾鳴[イ・ジョンミョン]と映画監督金幽影[キム・ユヨン]です。会員の人選にあたって彼らがまず考えたのは、カップ陣営の非難攻撃に備えるために、主要新聞社の学芸部関係者を一人ずつ参加させるという戦略でした。その結果、『東亜日報』客員の李無影、 『朝鮮日報』記者金起林、『中央日報』部長の李泰俊に加え、李鍾鳴と親交のあった『毎日申報』記者趙容万が選ばれました。李鍾鳴、金幽影、趙容万は、李孝石[イ・ヒョソク](一九○七~四二)と鄭芝溶に参加を要請しました。また李鍾鳴は、プロレタリア文学陣営と論戦を繰り広げた廉想渉をリーダー格として迎えたかったのですが、廉想渉本人が拒絶し、李泰俊も廉想渉の参加に難色を示したため実現しませんでした。続いて趙容万が柳致真[ユ・チジン](劇作家・演出家・評論家、一九○五~七四)を推薦して会員は合計九人になり、会の名前も「九人会」に決まりました。
 しかし柳致真はたった一度顔を出しただけで脱退の意思を表明し、会を発足させた李鍾鳴、金幽影は李泰俊にリーダーシップを奪われたのが気に食わず、やはり脱退してしました。前々から九人会に入りたがっていた李箱(ひょっとすると李箱は北園克衛らの「アルクイユのクラブ」のようなグループに憧れていたのかも知れません)、朴泰遠の加入で会は活気を取り戻したものの、最初から消極的だった李孝石の脱退と同時に趙容万もやめてしまいました。そのため金裕貞[キム・ユジョン](小説家、一九○八~三七)、金煥泰[キム・ファンテ]、 朴八陽が新たに参加しましたが、最も熱心に働いた李箱が一九三六年ごろ東京に去り、九人会も自然消滅しました。
 この概観から分かるように、初めから九人会には、反カップ以外の特別な主張はありませんでした。またカップの第二次検挙(一九三四)を契機にカップが解体されたため、カップに対する対立意識を持つ必要もなくなりました。この会の反カップ的性格は、李鍾鳴と金幽影の脱退と共に、ほぼ完全に失われたと見てよいでしょう。すなわち、結成当時を除けば、この会は文学者達の親睦会ていどの性格しかありませんでした。モダニズムの理論家と目されている金起林自身が、九人会は「文壇意識を持っていたというより」、ただ中華料理を楽しみながら歓談する集まりだったと回想していることからしても、彼らがモダニズム運動を起こそうとしたのではなかったことが分かります。(片石村「文壇不参記」 『文章』 一九四○年二月号、十八~十九頁)。また、当初、廉想渉の参加が検討されており、金裕貞が参加していたという事実は、九人会が反リアリズムの性格を帯びた集まりではなかったことを物語っています。白鉄[ペク・チョル](評論家、一九○八~八五)が九人会を「無意志派」と規定し、一九三五年七月に開かれたある座談会で韓仁沢[ハン・インテク](小説家、一九○三~三七)が、「九人会は相互親睦という漠然とした意味で集まったけれど、それぞれの思想が違うだけに、遠からず分裂するでしょう」(「朝鮮文学建設のための文芸座談会(一九三五年七月十六日)」、『新東亜』 一九三五年九月号)と予言しているのは、当時でも九人会が明白な主張を持たないグループとして見られていたことを証明するものです。実質的には雑誌一冊を出しただけで終わったこの会が、それでも派手な話題を集め後の文学史で大きく扱われるのは、参加したメンバーが重要な文学者達だったからであり、カップ解散後には他にこれといった文学団体がなかったためです。
 カップがナップを、九人会が十三人倶楽部を模倣してつくられたと言っても、それは必ずしも、京城文壇が東京文壇をひたすら追随していたから、というだけのことではありません。両者が共通して直面していた状況が、必然的に類似の軌跡をつくりだすという場合も多いのです。日本の文学者も当局からさまざまな圧迫を受け、自由にものを書けないでいたし、戦争協力を強要された日本の文学者の苦悩は、親日行為を強要された朝鮮人文学者のそれに通じるところがあったに違いありません。