四 散文詩という形式

 一九二○年代半ばの「幌馬車」、「みなし子の夢」以後、宗教詩「勝利者金アンドレア」(一九三四)を例外とすれば、ほとんど断絶していた芝溶の散文詩が一九三○年代後半、突然復活するのは、なぜでしょう。既に検討したように、『白鹿潭』時代の散文詩は、それ以外の明るく落ち着いたトーンの作品とは違い、侵略戦争が進行する現実の中で積極的に闘えない植民地知識人の苦悩を生々しく伝えています。つまり、『白鹿潭』収録の詩は、形式によって内容に際立って差があるのです。それならば、散文詩という形式が持つ意味について、ここで考えてみなければなりません。
 「新しい詩は、われわれを弾丸のやうに遠くへ導き明るくするか、さもなければ、われわれの心臓の中に怒りを持ち込むか、どちらかの機能を具へてゐなければならぬ」(北川冬彦『詩人の行方』昭和四年、 「現代詩における私の実験」、 『現代詩の実験』、 宝文館、 一九五二、三五頁から再引用)と主張した北川冬彦は、一九三○年代に「新散文詩運動」を展開します。「『短詩運動』から『新散文詩運動』への発展、――これはまさしく発展であった。というのは、圧縮し、純化した短詩の詩技をひっさげて現実をまさぐろうとすることであったからである。その技法として、いい加減な行ワケをせず散文型を採用した」(前掲文、三五頁)。 北川において散文詩とは、詩の音楽性を犠牲にして内容、すなわち現実に対する追求に重点を置くための形式であったのです。北川の影響は特に一九三○年代の『詩と詩論』を通じて広まり、散文詩を書く詩人が続出しました。もちろん、散文詩がこの時始まった訳ではありません。北原白秋は『近代風景』に散文詩のコーナーを設けるほど、この形式に興味を持っていましたし、そこに竹中郁、近藤東、吉田一穂など、後に『詩と詩論』に参加する若手達の作品を登場させています。
 『詩と詩論』の現実遊離的傾向に不満を抱いた北川達は、『詩と詩論』を離れ、新たに『詩・現実』を創刊します。社会批判を前面に押し出した北川の作品を引用してみましょう。

 軍国の鉄道は凍った砂漠の中に無数の歯を、釘の生えた無数の歯を植えつけて行った。
 突然、ひとかたまりの都市が出現する、潅木一本ない鳥一匹飛ばないこの凍った灰色の砂漠に。
 芋虫のやうな軌道敷設列車をめぐつて、街の構成要素がひとつひとつ集まつてくる。例へば脚のすでに冷却した売淫婦。一連の列車の中の牢固とした階級のヴアリアシオン。(…)軍国はやがてこの一本の傷痕を擦りへらしながら腕を延ばすのである。

 壊滅へ。
          (「壊滅の鉄道」、 『詩と詩論』一九二九年六月号)

 芝溶の作品に日本のモダニズム詩の影響があるとすれば、それは『白鹿潭』時代の散文詩にもっとも目立つと言えるでしょう。芝溶の詩は、散文詩という形式を取った時、もっとも現実批判的要素が濃くなるのです。もっとも北川の作品ほどその批判はストレートではありません。それはむしろ、次のような作品に近いでしょう。

 鹿は角に麻縄をしばられて、暗い物置小屋にいれられてゐた。何も見えないところで、その青い眼はすみ、きちんと風雅に坐つていた。芋が一つころがつてゐた。
 そとでは桜の花が散り、山の方から、ひとすぢそれを自転車がしいていつた。背中を見せて、少女は薮を眺めていた。羽織の肩に、黒いリボンをとめて。
             (三好達治 「村」、『測量船』、 一九三○)

 机の上で、ラムプの位置を近よせたり遠のけたりする。壁にうつつてゐる自分の影が伸びたり縮んだりする。
 影の中に、先刻[さつき]から、赤い蟻が一匹動かうともしない。丁度僕の心臓を食ひやぶつてでもゐるかのやうだ。ラムプを消すと、僕の動悸のはばたくのがきこえる。暗闇にはつきりと、はげしく何ものかに負けてゐる音がきこえる。
        (竹中郁 「赤い蛾」『詩と詩論』、一九二九年十二月号)

歪な太陽が屋根屋根の向ふへ又堕ちた。
乾いた屋根裏の床の上に、マニラ・ロープに縛られて、少女が監禁されてゐた。夜毎に支那人が来て、土足乍らに少女を犯していつた。さういふ蹂躪の下で彼女は、汪洋として河を屋根屋根の向ふに想像して、黒い慰の中に、纔[わずか]にかぼそい胸を堪へてゐた―

河は実際、さういふ屋根屋根の向ふを汪洋と流れてゐた。
           (安西冬衛 「河口」、 『軍艦茉莉』、 一九二九)

 日本の詩人の多くは、植民地の詩人達と同様に書きたいものを書けない苛立ちを感じていました。そうした詩人にとって散文詩は社会に対する直接・間接的な批判や苦悩する自我の表出を通じて社会現実を作品に反映させるために採用された形式であったと言えるでしょう。
 前に述べたように芝溶の散文詩には直接的な社会批判はほとんど見られません。しかし一九三七年に開かれた座談会の席上で、芝溶は次のような発言をしています。「ともかく小説や劇文学などで大成しようと思うなら、どうしても、身辺雑記みたいな事を書くより社会への関心や民族的事実に対する大きな関心を持つ必要があるでしょう。したがって、政治や経済や、すべての社会的事実に対して、関心と言うよりはパッションを持つことが、文学の徳であるようです」。『社会的関心を身辺化しなければなりません。ハイネを見ても、その社会的関心が身辺化されているではないですか」(「文学問題座談会」、 『朝鮮日報』一九三七年一月一日)。 前者は小説と劇文学についての発言ですが、後者はハイネを例にとっており、芝溶が詩にも社会的関心を反映させるべきだと考えていたことが分かります。ただ、社会現実をストレートに表現するよりも、「身辺化」すること、すなわち詩的話者の問題に縮小して象徴的に表現しようというのです。
 時代状況を登場人物個人の思想や行動に圧縮して提示する作業は、詩という形式に最も適していると言えるかも知れません。長い敍事詩は時代遅れの感があるし、かといって短い詩の中で社会制度の矛盾まで説明するのは難しいでしょう。それよりも、その社会に生きる話者の感情を細かく表現した方がはるかに実感を与えることができます。また検閲がいっそう厳しくなった三○年代後半にはストレートな社会批判を発表することができなかったので、象徴的な表現をするほか、ありませんでした。
 『文章』が創刊された一九三九年には日本の時ならぬ文芸復興期もとうに終わっていて、詩としては戦争協力のための作品や自然の美しさをうたう叙情詩が氾濫していました。鄭芝溶のように名の知れた詩人が社会批判をあらわにした作品を発表することは、かなり難しくなっていたと思われます。社会現実を作品に盛り込んで発表するには、象徴的な作品に韜晦するほかなかったでしょう。一九三七年に『鮫』という詩集を出した金子光晴は、次のように述懐しています。「『鮫』は禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかった。なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。(…)政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に値する人間だったのだ」。(金子光晴、前掲書、一六八~一六九頁)
 評論家・金東錫[キム・ドンソク](一九一三~?)は鄭芝溶を論じた文章の中で「自分の手で首をくくるように朝鮮語を抹殺しようとしていた作家や評論家のいるこの地で、生涯、朝鮮詩に固執するというのも、芝溶でなければ難しいものがあった。碧初[ペクチョ]や為堂[ウィダン]、安在鴻[アン・ジェホン]氏や李克魯[イ・グンノ]氏といった人々も、潔白なようでいて、結局は口を閉ざしていたか、それでなければ頑迷固陋でしかなかったという事は、中央文化協会から出版した『解放記念詩集』が雄弁に物語っているではないか。/日本帝国主義の強圧のもとで最も純粋な行動人が誰であったかということは、今しばらく待つことにして、鄭芝溶氏の詩は最も純粋な精神であった」と書いて、親日に傾かず自国語を守り通した芝溶の功績を称えています。(「詩のための詩――鄭芝溶論」(一九四六)、 『金東錫評論集』、 青雲出版社、 一九六一、四九頁から引用)。象徴的な意味を理解できずに、作品の表面に明らかな思想が見て取れないという事を詩人の「限界」と見る研究者もいましたが、それはむしろ、読む側の怠慢であり限界だったのです。