千マイルブルース
「千マイルブルース」収録作品
表題作です。
北海道をバイクで旅し、自分を見つめる男の物語。
私のロードノベルの原型が、いえ山田深夜の始まりが、ここにあります。
※サービス画像あり。
千マイルブルース
1
「なんだ、こりゃあ?」
俺のバイクに中腰になり、その男は呆れたようにそう言った。そして、まるで友人にでも話しかけるような顔を向けてきた。
「子牛かと思ったぞ、ニイチャン」
ギターケースを背負ってはいるが、愉快な相手にはとても思えない。俺はバイクにしゃがみこんだ男を一瞥し、視線を他に向けた。
「ああ、よく間違えられる。こないだは投げ縄をかけられた」
そいつはいい、との笑んだ声がバイクから跳ね返った。
ホンダ、ワルキューレ。たしかに、珍しいバイクではある。総排気量1520㏄、重量は三百キロをはるかに超える。たぶん、生まれて一年後くらいの牛の生体重と同じだ。
スタイルはアメリカンだが、流行の縦置きVツインではない。水平対向六気筒。横に大きく張り出したシリンダーのメッキが光を放ち、周囲を威圧する。その強烈な存在感からなのだろう、なかなか乗ろうとするライダーがいない。だからか、あまり走っている姿も見ない。こんな乗りやすいバイクもないのだが。
しかし、この男も充分珍しい。俺は横目で、バイクを観察する男を観察した。「中肉中背」だけではとても収まらない。黒いサングラスに黒の開襟シャツ、黒色のダボッとしたパンツは裾が絞ってある。今時ボンタンだ。そしてこれも黒のエナメルの、先が異様に尖った靴を履いている。パーマの伸びたような頭髪は、顔面の無精ヒゲにつながっていた。背負っていたギターケースが外されると、黒いシャツの背中に真っ赤な手描きのドクロ。派手なのだか地味なのだか、よくわからない。年齢は俺よりふたつみっつ上、四十前後だろう。いや、もっと老けているか。まあ、こんな男を見られただけでも、横須賀はドブ板通りに遊びに来た甲斐はあった。
「いいバイクだ。でも、大食いだろう」
男は立ち上がり、満足したような顔をこちらに見せた。
俺は肩をすぼめた。
「反芻すりゃあいいんだけどね」
男のヒゲの中の口が赤く開き、笑い声が辺りに響いた。意外に声がでかい。すると、まじまじと俺を見だした。
「……誰かと待ち合わせか? それとも、こいつを囲うオリでも探してるのか?」
どこまでも冗談に付き合うつもりはない。ましてや、早期退職制度で会社を辞め、ヒマを持て余して横浜から遊びに来た、とまで明かす必要もない。男の向こうを、パトカーがのろのろと走るのが見えた。俺は言った。
「パトロール中」
男はほんの一瞬顔を曇らせたが、すぐに表情を戻して頬を緩めた。この通りで、この手の冗談はシャレにならないのかもしれない。
男がギターケースを持ち上げた。
「そいつはご苦労なこった。でも、この通りならオレがさっき見まわった。どうだい、中で聴いていかねえかい?」
男が、背後の店をアゴでしゃくった。どうやらライブハウスらしい。男はまたバイクに目をやり、そして俺を見た。
「大丈夫だ。牛泥棒ならこないだ俺が追っ払った。もっとも翌日、助けたそのホルスタインに逃げられちまったがな」
男がギターケースを背負い、笑いながらライブハウスに向かった。
俺は首を巡らせた。七月の湿った夕闇が、辺りに粉雪のように降っている。しかし足を取られるほど、積もってはいない。そして、サラリーマンを辞めてから敏感になった嗅覚が、俺の胸ぐらをつかんでいた。
2
薄暗い店内に、客は半分もいなかった。親しげな挨拶と冗談が、ステージの男に飛ぶ。どの客も彼を目当てに来ていることがわかる。街の人気者、といったところか。男が、アコースティックギターのチューニングを続けながら応えている。
「……この前の女かい? あのオッパイがでっかいの。とっくにいねえよ。今頃もっといい飼い主見つけて、乳繰り合っているんだろうよ」
気持ちよく酔えそうな店だ。俺は、バイクを置いて帰ることに決めた。
メニューから東郷ビールを選んだ時、男のギターが、ブルースをズルッと吐き出した。
本物だ。俺は男に目を向けた。フットストンプがリズムを刻み、真鍮のスライドバーが、まるで墨のかすれのように音を際限まで引きずり出す。そしてその上に被さる、猫の舌のようなざらついた声……。
なにか、とてつもなくいい予感がする。
聴いたことのないブルースが始まった。
あんまり風が強すぎて
上着もサイフも飛んでった
あんまり風が強すぎて
アパートも車も吹っ飛んだ
あんまり風が強すぎて
仕事も貯金も消えてった
あんまり風が強すぎて
かわいいあの娘も消えちまった
間奏が始まり、俺は隣の客に曲名を訊いた。すると、知らないのか、という怪訝顔で教えられた。『風の強い日のブルース』。オリジナルらしい。
いい場所に辿り着いた。行き先に迷っている時に、ドブ板を勧めてくれたスタンドのオネエチャンに感謝しよう。
ブルースマンだった男が、続ける。
あんまり風が強すぎて
つかまるものを探したが
あんまり風が強すぎて
おいらのまわりにゃなにもねえ
あんまり風が強すぎて
飛ばされ流され横須賀さ
あんまり風が強すぎて
今じゃあこんな吹きだまり
店内は、一曲目からアルコールとブルースで充満していた。そこに男のギターが圧縮をかける。そして、曲が終わるごとにスパークし、爆発のような歓声と拍手が起こる。気がつけばいつの間にか店内は満員だ。しかも客は、男も女も、皆うさんくさい奴ばかり。この街にこの店、この店にこの曲、そしてこの曲にこの客か。
しかし、ブルースで「街」を歌っているのに、店内にはなぜか「旅」の匂いがする。たぶん、男は流れ者なのだろう。もしかしたら、この喜んでいる観客たちも。
心地よいブルースが続く。けれど、ブルースマンは心から楽しんで演奏しているようには見えなかった。途中のMCこそ浮かれてはいるが、一曲一曲、なにかをたしかめるように弾いている。いや、それがこの男の演奏スタイルなのか。
俺が三本目の東郷を空にした時、客席からリクエストが飛んだ。また知らない曲名だ。
男がポケットからタバコを取り出した。ハイライトだった。
「ハマローズかい……」
ブルースマンは、伸びたパーマに指を突っ込み、頭を揉んでいた。この男の、考えごとをする時の癖なのかもしれない。沸いていた客席が、まるで重い布地でも敷いたかのように静まった。男がくわえていたハイライトに火を点けるのをやめ、灰皿に置いた。
見つめていたスライドバーが、ゆっくりと弦の上をすべる。俺の中でなにかが震えだした。
横浜の刑務所にいた時にゃ
横浜の刑務所にいた時にゃ
朝から晩までセッケン作ってた
おかげで手なんか洗った事ぁねえ
だけど出たらすぐに汚れちまった
だけど出たらすぐに汚れちまった
おふくろが夢で毎晩泣いてた
「人様泣かす事だけはしないで」
クニに帰る汽車で驚いた
クニに帰る汽車で驚いた
網の中でもがき細るハマローズ
排水孔に消えてゆく涙
ハマローズとは、横浜刑務所で作られていた石鹸のことだ、と隣の客が俺に囁いた。
歌わざるを得ないという曲がこの男にあるのなら、きっとこれがそうなのだろう。男は苦悶の表情を見せていた。そしてラストは、走り去る汽車の音を模して終わった。これは旅出の歌でもあったのだ。俺の中の震えが倍加し、わからぬ音色を発していた。おそらく、旅心とでもいう奴が共鳴したのだろう。
酒と曲とにからめとられ、結局、俺は演奏が終わるまでいてしまった。
「さあて、飲もうぜい」
隣に座ってグラスを傾けたブルースマンは、とても気さくで陽気な人間だった。いや、出会った時からそうなのだが、こちらが扉を閉めていた。しかし、開けた。すると酔いも手伝い、俺はいつの間にか、不思議なほど饒舌になってしまった。
今は無職でブラブラしているが、なにかやりたくてしょうがないこと。しかしそれがなにかわからないこと。そして演奏を聴いていたら、無性に旅に出たくなったこと……。まるでシャボン玉でも吹くように、俺は喋っていた。
ハイボールを飲みながら黙って俺の話を聞いていたブルースマンが、窓の外を向いた。
「……なあ、カウボーイ」
ワルキューレがネオンの下、静かに佇んでいる。メッキパーツが、赤や緑に輝いていた。
「頼みがあるんだがな」
ニヤッと笑った口元から、八重歯だかブルースだかわからぬものが飛び出した。
「ニポポを、買ってきてくれねえかい?」
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