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「エウレカセブン」は名作か、迷作か

昔、北条司の「シティーハンター」という名作があって、北条先生がそれの続編「エンジェルハート」を描いたら大ブーイングを食らったことがあったよね。
そりゃブーイングも当然だわ。
だって、「シティーハンター」のメインヒロイン・槇村香が既に死んでいるという事実が発覚するところから続編が始まるんだから。
慌てて「これはパラレルワールドの物語ですから」と弁解してたが、たとえそうだとしてもファンは納得しないだろう。
そうなんだよね。
続編ってのは気をつけて作らないと、ヘタすりゃ前作を汚してしまうことになりかねないから・・。

というわけで、今回はアニメ「エウレカセブン」シリーズについて触れたいと思う。

「交響詩篇エウレカセブン」

「エウレカセブン」は2005年に放映されたアニメである。
いわゆるロボット物なんだが、「ガンダム」以降アニメ制作会社はロボット物の制作に積極的になり、色々な作品が生み出された。
それも「ガンダム」にはない独自の個性を付与してきて、「マクロス」なら歌と恋愛三角関係、「アクエリオン」ならマシンの合体、「エヴァンゲリオン」ならセカイ系、そして「交響詩篇エウレカセブン」は、ボーイミーツガールの青春物という個性を打ち出していたと思う。
この「交響詩篇」は名作と名高く、よって劇場版とテレビアニメの続編も
制作されたんだ。
ところが、これがまずかったんだなぁ・・。
まず、劇場版「ポケットが虹でいっぱい」は「交響詩篇」で主人公レントンの仲間だったメンバーが悪役っぽい位置づけになってるし、テレビの続編「AO」ではレントン自身がラスボスみたいな位置づけになってるし。
当然皆が「はぁ?」となり、よし、これは見なかったことにしよう、と当時私も思ったもんさ。
それでもBONESはメゲずに新劇場版3部作「ハイエボリューション」を公開する運びとなり、こいつらどんだけ「エウレカ」に執着してんのよ、と驚いたもんだが、2021年にそれが完結し、十数年越しでようやくシリーズにオチがついたわけです。

歳月を経て、エウレカはアル中で自傷癖のある歪んだオトナになってました・・

というか、また何で「エウレカ」シリーズはこんなにも迷走してしまったのか。
その理由として、まず「エウレカ」はSFアニメとして非常に難解なんだよ。
多分、難解さでいえば「エヴァンゲリオン」以上のレベルだと思う。
なぜって、設定そのものが難解すぎるから。
設定を理解せずにこの作品を見てると、本当にわけ分からなくなってしまう。
そして、作品の理解が及ばないと人はそれを単純に駄作と定義づけてしまうもんで、「エウレカは交響詩篇以外全部駄作」という認識が一気に広まってしまったんだな・・。

映画「ハイエボリューション」3部作
主役は、1作目がレントン(右)、2作目がアネモネ(中)、3作目がエウレカ(左)

ではまず、「エウレカセブン」の概要説明を簡単にしておこう。
最初に理解しておくべきなのは、物語全ての前提となる「スカブコーラル」という存在のことなんだ。

スカブコーラル

上の絵を見ての通り、スカブは地表を覆うサンゴ礁のような形態をとってるんだけど、その正体はナノマシンっぽい感じの情報知的生命体なのね。
知的生命体ゆえ、当然知能もあって意思もある。
ただ言葉をもたないがゆえ、コミュニケーションがとれない。
スカブの唯一のコミュニケーション手段は「融合」で、かつて多くの人間と融合したとされる。
ひとつ人類は誤解してるんだけど、スカブが人と融合する=融合された人は死ぬ、ではないんだ。
融合された人は意識体となって、ちゃんとスカブの中で生きてる。
つまりスカブって、実はそれほど悪意ある存在ではないってこと。
だけど軍は人と融合するスカブを害悪と解釈してて、その殲滅を目標としている。
まあ、その考え方もあながち間違ってはないんだけどさ。
しかし、対話を求めるスカブは自らの端末として人型の分身を創造したわけよ。
見た目が人間とほぼ変わらず、言葉も話せる有機的端末。
それが、この物語のヒロイン・エウレカの正体である。
こういう端末のことを、作中では「コーラリアン」と称している。
レントンが乗っている機体・ニルバーシュもまた、コーラリアンの一種。
ニルバーシュはエウレカのように言葉は話せないまでも、ちゃんと意思を持っている。
しかし自我を持たない、侵入してきた異物を排除しようとするだけの白血球のような細胞的コーラリアンも存在する為、多くの人類はコーラリアンを敵と認識してるんだけどね。

これもまた、エウレカと同じコーラリアンである

頭を整理する為に、ちょっと基本に立ち返ろうか。
先ほど、私は「スカブが人と融合する=融合された人は死ぬ、ではない」と書いたが、ここを少し疑ってみてくれ。
というのも、融合された人は肉体を持たない意識体(すなわち幽霊)となってスカブ内にいるわけだし、果たしてこういう状態のことを「生きてる」といえるのか?
いえないよね。
死んでるじゃん。
つまり、そういうことなんだ。
スカブの本質とは、「あの世」なのよ。
そもそもニルバーシュという名称が、「涅槃」を意味してるわけで。
私がこの「エウレカ」で最も驚愕したところは、「あの世」を宗教的概念でなく、敢えてSF的概念で描いたところだね。
スカブは情報生命体であるがゆえ、仮想世界を構築することが可能。
つまり、あの世=仮想世界、という解釈さ。
また同時に、スカブは仮想世界を量産することも可能なことは劇場版「ハイエボ」が実証しており、これは涅槃から派生する「輪廻転生」なわけよね。
輪廻、すなわちループ。

「ハイエボ」2作目で、エウレカは完全に闇落ちしている

思えば、劇場版「ハイエボ」完結編で最大のキモとなったのは、ラスボスデューイが最後の局面で「今自分がいる、この世界もまた仮想現実の中」と気付く瞬間である。
でも実は、デューイが気付く前からそれに気付いてる人はいて、それが「スーパー6」を含めた子供たちである。
作中で彼らだけが死を目前としても怖れてないという、不思議な描写がある。
「スーパー6」に至っては、「また転生しましょ」とハッキリ明言して爆死するという非常に大事な描写があったのを忘れないでくれ。
そしてラスト、エウレカとレントンはどこかへと消えたんだが、あれは一体どこに行ったのか?
思えば「交響詩篇」でも最終回、エウレカとレントンはお爺ちゃんや子供らの待つ家に帰ってきてないわけで、ふたりはどこに行ったのか?
上記の流れから推測するに、「転生した」、あるいは「ループした」と解釈するのが最も自然なんだよ。
この作品がキリスト教でなく、敢えて仏教をモチーフにしている意味はそこにあるんだから。

「交響詩篇」最終回、このシーンはほとんど涅槃とも解釈できる光景である

よく、「交響詩篇を含む今までの物語の全ては、ハイエボ世界のエウレカが見ていた夢である」という極端な解釈を見かける。
つまり、夢オチ。
もしそうだとしたら、ハイエボ世界すら仮想世界と判明した事実をどう説明するつもりなんだ?
夢の中で夢を見てるという多重構造?
いや、そうじゃない。
多層世界を創造してるのは、エウレカ本人というより主体はスカブの方なんだ。
そして、その多層世界を移動することが転生であり、どこか特定の世界だけが本物で、あとは偽物という解釈をすると話が変になってしまう。
極論すれば全部が本物であり、だから最後、エウレカは命を投げ打ってまでハイエボ世界を救おうとしたんでしょ?
スカブが時空すら超えられること、さらに世界改変すら可能なことは「AO」でも証明されており、もはやここまでくると神の領域であるがゆえ、全てに
説明がつかないのは不可抗力といえるかも・・。
ただひとつだけ言えるのは、「ハイエボ」2作目でエウレカが夢を見て生み出したという複数の仮想世界って、あくまでイレギュラーだと思うよ。
だって、レントンが必ずエウレカをかばって死ぬ世界なんて、そんなの既存の「エウレカ」のどこにもなかった世界じゃないか。

私の解釈では、これら全てが「現実」である

しかし、これほど難解な作品もそうそうあるもんじゃないわ。
この作品のプロットを作ったのは誰か知らないけど、その人は相当に色々な知識を持ってるバケモノだね。
たとえば、作中に「クダンの限界」という概念が出てくるんだけど、これは知的生命体の総量が一定のキャパを超えると宇宙が裂けるという情報力学に立つ理論で、こんなのをさりげなく盛り込んでくる時点で只者じゃないわ。
ある意味この作者は、今我々がいる世界すら仮想世界だと考えているんじゃないだろうか。
量子力学に精通してる人ほど、どうしてもその結論に辿り着くものらしいからね。
そして、その概念を仏教的輪廻転生論と融合させたのが「エウレカセブン」であって、輪廻転生を司る神の姿を「スカブコーラル」という謎多き有機体として描いている。
こういう発想力は、もはや天才としか言いようがないわ・・。

「ハイエボリューション」ラストシーン ここでエウレカのセリフ「私、幸せだった」
「だった」という過去形なのがキモ。この世界では死亡したことを意味する

しかし、ちょっと難しい話になってしまったから、多分今回私の書いたことは意味が半分すら伝わらないだろう。
おそらく「エウレカセブン」というアニメも全く同じことで、本当の意味が視聴者に半分も伝わっていない。
ゆえに、これが夢オチの作品と誤解されてるもんだから、お陰で駄作だと
不当なレッテルを貼られてるわけよ。
まあ、うまく表現しきれない制作側も悪いんだが・・。
庵野秀明なんかは伝わり切らないことを最初から織り込んでて、その対策としては作品の宗教色を強めて雰囲気でごまかす、というテクニックに走ったわけだ。
ある意味で、誠実じゃないと思う。
その点でいうと、「エウレカセブン」はかなり誠実だよ。
ホントなら庵野式に倣って宗教色でごまかすこともできたのに、敢えてそこに逃げず、真っ向からSF的に描き切ったのは正直凄いと思うぞ。
その矜持は、遥かに「エヴァンゲリオン」を超えてるだろう。

「エウレカセブン」は名作か、迷作か。
この表題に答えを出すなら、私は名作の部類だと考えている。
ただ、作品の解釈を誤解される限りは駄作とされ続けるだろうし、世間一般でも名作と認知されるようになるのは、ずっと先のことになるような気がする。
映画「2001年宇宙の旅」みたいな扱いになっちゃうね。
かくいう私だって、まだ正しく解釈できていないよ。
時間をかけて、これからの作業である。

レントンとエウレカの息子・アオも「夢」ではなく、実在すると私は解釈している

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