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わたしの鎖をほどく旅

テレビの中のその少年は、無機質で淡々と、しかし目の奥には言葉には出来ないくらい沢山の想いを抱え、逞しくも悲しく歩いている。

その手には優勝旗を抱えてーーー。


数年前の甲子園開会式。

今年はチーム全員で踏むことのできなかったグラウンドを、主将の少年はたった1人で、優勝旗を抱え、歩いている。


突然、胸が「きゅー」と苦しくなったのち、ドクドクドクと大きな鼓動を打ち始めた。


またか、、。

わたしの胸は、時折、過去の鎖に締め付けらる。



そうだ。あの日も、ひと際暑い夏の日だったーーー。





10年以上も前の話。



あの日、あの少年と同じ17歳の少女だった私の夢は叶うことなく砕け散った。


二度と叶えることのできない過去の夢。



頰をキラリとしたものが伝うが、汗か涙か分からない。


少女の後ろにいた大応援団の声はピタリと止まり、神に祈るように力強く握っていた両手の拳は、少し震えながらゆっくりとほどける。

その時の両親や家族の表情は、想像したくもない。



その日の出来事、また、その時代の経験は、

わたしの人生の鎖となって、10年経った今もなお、時折苦しめてくる。



ちょっぴり小っ恥ずかしいけれど、今日はわたしの過去を少しだけお話させてください。

もしも皆さんにも同じような経験があったとしたら、少しでも多くの人が、原動力を思い出せる機会となりますように....



テニスに全てを捧げた青春時代。

中学1年生の時、大好きな先生に出会った。教育実習で来ていた、当時まだ20代前半のその若い先生は、女性らしくて可愛いが、とてもパワフルだった。

放課後の部活の時間に、ふと顔を上げると、遠くで先生が「頑張れ〜」と手を振っている。部活動後、1年生は片付けもあり毎日下校時間ギリギリで走って正門を目指す。閉まりかけた正門で、先生が冷たいジュースを「秘密ね」と言ってこそっと渡してくれたことを思い出す。

そんな大好きな先生とのお別れの日。

最後に1つ、大きな約束をした。


「高校生になったら、インターハイに出て、あの坂の上に横断幕をかけるからね!そうしたら、あの時の子だな!って、思い出してね。わたし、頑張るからね。」


わたしの住む小さな町は、全国大会出場を果たした青少年は、坂の上に横断幕をかけられる。これが少年少女の一つのステータスだった。


中学1年生のわたしは、夢に向かって燃えていた。


“ インターハイ出場を果たして、坂の上に横断幕をかけるぞ! ”


今思うと、なんとも不純な動機。全ては街の英雄になりたいから。そして、大好きな先生に自慢したいから。

しかしそれから、インターハイ、そして、全国の頂点を目指す戦いが始まった。





わたしのこころの鎖

高校は、全国でも有数のテニスの名門校へ進んだ。

中学時代は県大会レベルで終わった自分が、本当に大丈夫かと周りには相当心配された。

中高一貫校の女子校。可愛らしい女性が沢山いる中、私は部活の規則で、髪も短く、肌は真っ黒だった。モンチッチに似ていることから “モンチ” というあだ名だった。恋愛なんてもちろんする時間もなく。


部活動は休みなく厳しい練習が毎日続いた。

20時に部活が終わってから、今度は場所を移動し、外部での練習を行い、帰るのは23時。これを週2回、6年間続けた。

朝練は強制ではないが、毎朝6時代の電車に乗り、眠い目を擦りテニスコートに向かった。一人しかいないコートで、ひたすらサーブの練習やランニングに励む。天気の悪い雨の日も、みんなが帰った後で1人残ることもあった。

家に帰ってからも寝る前の素振りやフォームチェックは毎日の日課のように行われた。それは、畳が擦り切れるほどだった。


なぜあそこまでストイックになっていたのか分からない。

ただひたすら、キャプテンという鎧に負けないように、全国大会上位に名を連ねる先輩や後輩達に負けないように、実力のない自分を肯定するものが欲しくて、認められるものが欲しくて、ひたすら死にものぐるいでもがいていた。



そして、その日はやってきた。
インターハイ予選。インターハイをかけた大事な一戦。
相手は全国トップクラスの強豪校。

相手も緊張のためミスが続く。


ファイナルゲーム。5-5。
あと2点。あと2点とれば、人生の勝ち組になれる!今までの努力がすべて報われる瞬間!恩師や家族、昔約束した先生の顔、坂の上に横断幕がかかっている情景が目に浮かんだ。


、、、、、。浮かんでしまった。



ふと気づいた時、私はコートに呆然と立ち尽くしていた。力んだ右腕は一気に力が抜け、ラケットを落としそうになった。



私は負けた。人生のドン底に落とされた気がした。



翌週の団体戦。弱い私は、当然のことながらキャプテンでありながら団体メンバーから落とされた。

かつて、こんなに弱いキャプテンはいなかった。団体メンバーにキャプテンがいないなんて史上かつてないと、罵られた。私が負けたせいで、親にも恥をかかせたと、17歳さながらに分かっていて、それが本当に苦しかった。


わたしは試合前、監督に泣きながらお願いした。
「私をチームに置いてください。命を懸けて戦います。」


命を懸けて、、だなんて、女子高生がいう言葉ではない。いつの時代の侍であろうか。今思うととても恥ずかしい。

しかし、それほど追い詰められていた。キャプテンという鎧に。

もちろん監督の答えは、No。
分かっていた。分かってはいたが、一応やれることはやりたかった。

とても惨めだった。穴があったら隠れたかった。



ーーーそれからというもの、私はこの時代の鎖に、ずっと締め付けられている。

名門校の主将という名を汚し、誰からも認められることなく、夢が何一つ叶うことなく、莫大な量の努力が、泡となって消えた。



わたしはまさに、ただの「努力の人」だった。

いや、正しくは、「努力の報われない人」だった。




みなさんには、心の鎖はありますか?


いま、わたしはこの過去の鎖を解くための長い旅路の途中です。

あれから、人の痛みがわかる人になりたい、人を支える仕事がしたいという思いで、スポーツの世界を捨て、医療の世界に飛び込みました。


あの時代に味わった何とも言いようのない心の痛みは、劣等感となり、私の心の中に静かに眠っていますが、それが今、強いパワーや原動力となり、わたしの中で細々と燃え始めています。


あの時の苦しみに比べたらこんなこと、、、!

一度きりの人生、もう一回、死に物狂いで何かにチャレンジしていきたい!

と、最近は思えるようになりました。



“ もしかしたら、この鎖が解ける時。それは、鎖が完全になくなる時ではなく、この鎖とともに生きていくことを決めた時なのかもしれない。”


今はまだ、この鎖に本当に感謝することはできていない。


しかし、いつか、、きっといつか、



“ この鎖があったからこそ、今の私があるんだ。”


そう自信を持って、笑顔で語れる自分がいるのかな。





テレビの中のあの少年は、これから鎖を解く旅に出るのだろうか。

そんなくさいことを考えながら、わたしの原点に戻った夏の日だった。



Yumiko   

Twitter:https://mobile.twitter.com/kawamoo_n_n_




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“心の鎖”  という言葉は、私の大好きな弁護士コラムニストさんこの文章からいただきました。

いつも素敵な文章をありがとうございます。
これからも楽しみにしています。

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