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大学生のレポート:「甘えの構造」の要約〜日本社会の分析〜

2018年8月12日 日曜日 12:01

当時の自分の要約なので、なんだかほぼ本の内容をそのままコピーしているようではあるけれど、自分を褒めてあげたい。結構面白い内容を抜粋して、1万字以内で綺麗にまとめている気がする。ただ、今考えてみると、大学生活初めてのレポートで1万文字(卒業論文が2万文字)を書いていたとは、驚いたものだ。昔触れた、興味深い本の内容をもう一度さらってみると、昔よりももっと頷ける部分が増えていたり、「ここは違うんじゃない?」と思ったり、自分の変化に気づくことができて楽しい。

クソがつくほど長いnoteを最近書きまくっていて、ちょっと読み手のことを考えると顰蹙(ひんしゅく。漢字変換してびっくりした。難しくてこれじゃあ自分も読めない笑)ものだなとは思う。ただ、面白い内容だから、興味関心とドンピシャで、楽しんでくれる人が、このnoteに出会って、喜んでくれたら嬉しいなという思いで公開している。あとは「自分がまた振り替えれるように」というのが大部分ではあるが。

では、早速同時の内容をそのまま。いきます!👇


はじめに

春セメスターの授業を通して、最も重要視されていた内容は、世の中の物事の「切り取り方」であったのではないかと私は考えた。我々にとっての言語の持つ意味、そしてそのそれぞれの違いによって生じる価値観や世界観の差異に関心を持った。よって、本レポートでは土井健郎による名著「甘えの構造」を要約し、日本的発想と西洋的な発想を比較していく中で「切り取り方」の違いについてのイメージに具体性を持たせていくこととする。

日本人的な考え方、感じ方

日本人的な考え方や感じ方はアメリカ人とは根本的に異なっている。アメリカでお腹が空いているかと聞かれて、もう一度くらい聞いてくれるだろうと心のどこかで期待し、いいえと答えるとただわかったとだけ言われて内心悔しい思いをすることもある。「すいません」のニュアンスを含む適当な言葉が思いつかなかったから、代わりにSorryと英語で言うとネイティブからはWhat are you sorry for?と返される。日本では食べ物が口に合わないかもしれなくても、とりあえずお客様に出すことがもてなしとされるのに対して、何が好みなのかを細かく聞いてから出すのがアメリカ的な丁寧なもてなしである、といった具合だ。

筆者は「ある国民の特性はその言語に習熟することのみによって学ぶことが出来る。国語はその国の魂に内在する全てを含んでおり、それ故にそれぞれの国にとって最上の投影法なのである。」「言語と心理の関係から日本人の心理の特異性を明らかにできる」と述べている。

そこで注目した「甘え」という日本独特の語彙は、英語では表現することが出来ない。日本で甘えとして捉えられている感情は欧米では同性愛的感情としてしか経験されない。「甘え」は日本独自な発想であるため、アメリカの精神科医は概して患者が苦しんでいる状況、あるいは患者の隠れた「甘え」の感情に鈍感で、容易に感知することは出来ない。「甘え」は日本の社会構造、日本人の精神構造を理解するための鍵となる。甘えというのは一義的には感情であり、欲求的性格をもち、その根底に本能的なものが存在している。以下に示す言葉は、甘えの精神が根底にあるものだ。

甘えの精神が根底にある言葉

「ひねくれる」
甘えることはせず、却って(かえって)相手に背を向けること。

「ひがむ」
甘えのあてが外れたことで、自分は不当な扱いを受けたとして勝手に思い違うこと。

「すねる」
素直に甘えることができないため起こる。

「頼む」
甘えさせてほしいというニュアンスを含む。

「こだわる」
甘えたい気持ちはあっても人間関係の中で頼むことが苦手な人に多い。甘えたい気持ちはあっても相手が受け入れてくれないかもしれないという恐怖があって、素直に気持ちを表に出すことができない。

「すまない」
謝罪と感謝という二つの意味合いを持ち合わせている。親切な行為をしてくれる人にとってその行為は負担になっていると考える。日本人は親切に対して単純に感謝するだけでは事足りず、相手の迷惑をも想定して詫びる。相手がこちら側を非礼と受け取り、好意を失ってしまうことを恐れる精神が表れている。つまりは末永く甘えさせてほしいので、「すまない」を頻繁に口にするというわけだ。

「人を食う」「呑む」「舐める」
甘えの欠損を示す。このような態度は表面的には威勢の良いように見えるかもしれないが、内心では頼れるものがなく孤立していると言える。

「義理」

物事の正しい筋道。また、人として守るべき正しい道だ。社会生活を営む上で、立場上、また道義として、他人に対して務めたり報いたりしなければならないことで、つきあい上しかたなしにする行為。

「人情」

人間の自然な心の動で、人間のありのままの情感でもあり、人としての情け、他人への思いやりを意味する。「人情」を強調することは甘えを肯定することで、相手の甘えに対する感受性に応えることであり、人を依存体質へと導く。

「義理」を強調することは甘えによって結ばれた人間関係の維持のためで、人々を依存しあっている関係に縛り付ける。日本の社会では義理と人情に重きが置かれてきた。これは甘えの蔓延した状態とも言い換えることが出来る。甘えが自然と発生する親子の関係は人情の世界甘えを持ち込むことが許される関係は義理の世界である。もちろん人情も義理も及ばない他人同士の関係も存在する。ただし、親子で会ったとしても冷たい義理の関係になることもありうる。

「遠慮」

人々は遠慮することを好んではいない。できれば遠慮したくないという気持ちを持っているのが一般的であるが、関係が疎遠であればあるほど遠慮は増す。親子の間には緊密な関係がみられることから、遠慮は少ないことが多い。遠慮は実質「こだわり」と同義であるといえるだろう。相手の好意に甘えすぎてはならないということで遠慮をするわけだ。遠慮しなければ相手に厚かましいと思われて、嫌われてしまいはしないだろうかという懸念が遠慮という感情の元となっている。

遠慮があって話しにくいこともあれば、遠慮がなくて困る人もいる。つまり遠慮は通常好ましくないものだとされているが、価値が見いだされる場合もあるということだ。人を慮る(おもんぱかる)ことが重要視されている。自分のこととしては遠慮を嫌っても他人には遠慮を求める傾向があるのは甘えの心理が社会生活の根本的なルールになっているからである。

「内」と「外(パブリック)」

遠慮の有無によって内と外を区別する傾向が日本人にはみられる。身内では威張っていても外に一旦出ると周りに優しくなるというような傾向は日本人一般の特徴であるとして外国人からは批判される部分である。親密な関係で無遠慮な内のパターンと、他人であるため何も意識する必要のない外に対する無遠慮が存在している。

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」(主君に忠義を尽くそうとすれば親に逆らうこととなり孝行できず、親に孝行しようとすれば主君に背くことになり不忠となる。大切な二つのものの板ばさみになって進退きわまった状態のたとえ。平重盛が、父の清盛と朝廷との間で苦悩したときの言葉。)

このように、「内と外の区別」がはっきりとつかなくなった時が問題となり、葛藤が生まれることがある。二者択一を迫られて甘えてはいられない状況を嫌うのが一般的である。

「内」という日本語は、身内や仲間内といった個人が含まれている「集団」を意味する。英語のプライベートといった発想が日本では薄い。日本では集団から独立して個人のプライベートな領域の価値が認められていない。日本で西洋的な自由の概念が根付かないことと深く関係していると考えられる。日本は個人の自由が確立されていないにとどまらず、個人の集団を卓越するパブリックの精神に乏しい。内外の区別はしっかりしていても公私の区別が曖昧である。


人間全体として内と外を区別する傾向はあるといえるにしても、欧米社会では集団を超える個人の自由の精神があり、他方にパブリックの精神がある。

旧来の日本では由緒ある「閥」が大きな権力を握っていたため社会にそのような「閥」(出身が同じなどで団結・連絡し、自分たち仲間の利益を図ろうとする、人々のつながり)を超えたパブリックは存在していなかった。

そもそもパブリックの対訳である「おおやけ」は、元来皇室を意味していた。戦後におおやけの意味が皇室から切り離されて、西洋的な意味を与えられた。しかし日本人の精神には未だに閥意識が強く残っている。

日本では特に、「外側」に分類される「他人」脅威を感じているときには反動的に「人を食った態度」「呑んだ構え」「舐めたふり」をすることで威嚇しようとする傾向がみられる。

取り込む

それが仮に成功しなかったなら代わりに「取り込む」手段をとる。日本が外来文化と接触した際に示した反応はこの傾向にぴったりと当てはまっている。明治の初めごろに西洋からの文化が流れ込んできた際には、日本人は結果的にはそれをどん欲に食って自分のものとしてしまった。大東亜戦争までの近代の日本の国策は西洋の模倣摂取を繰り返して西洋列強に伍する(肩を並べようとする)意図が最後まで貫かれたといえるだろう。日本は外が己より優れていると判断すると取り込もうとする。

日本人はザビエルが手紙の中で述べたように、知識欲に富んでいて、探究心旺盛で、他の異教徒と大きく異なる。これが要因となって日本は急速な近代化を東洋諸国の中で最も早く遂げることができたのではないだろうか。

中国人は対照的で、西洋文化に対して侮蔑を続けてきた当時の文学にもその態度は大きく現れていた、これは自身の国の文化に対する誇りのためだ。中国人の社会は甘えの世界とはかけ離れている。

罪悪感

西洋人の目に、日本人の罪の感覚はあまり深刻に映っていない。日本人の罪悪感は、「自分の属する集団を裏切ってしまうのではないか」という自覚において最も顕著に現れる。あくまで西洋的な罪悪感は個人の内部のものであると考える傾向がある。日本人は自分の属する集団の人たちの信頼を裏切ることに最も強い罪悪感を抱く。

甘えられる理由

親の場合は、あまり「甘える罪の意識」が自覚されないが、それは互いに密着した関係で、裏切っても「許してもらえるという甘え」があるからだとされる。よって、親の死後にこれまで抑圧されていた「罪の意識」が自覚されることがある。

義理的な関係の中で日本人は多くの罪悪感を経験する。したがって「すまない」という言葉が罪悪感の告白の方法として最もふさわしいものとなる。日本人の「罪悪感」は裏切りに発して謝罪に終わる。日本では心から詫びると和解が容易く成立するのに対し、詫びることを好まない人種である西洋人では同じようにはいかない。

ここで和解に関する例を挙げる。殺人犯が、被害者の子供と面会した時に「堪忍してください、申し訳ない」と泣き喚くと、周りが静まり、中には涙を浮かべる人も出たという事態が起きた。これは言い換えれば「すまない」と、繰り返したことになる。

「すまない」には相手の好意にすがる意味が含まれている。甘えられた義理ではないが、許してほしいという意思表示とも取ることができる。このような懇願は日本では共感を呼び起こす傾向がある。このような人情劇は稀なものだが、少なからず日本人の精神にはこのような心理が知らないうちにも働いていると考えられる。

守られていたい

日本人は外国人と接するときに自由にふるまうことが出来ない傾向にあるのは劣等感の作用のせいである。仲間として扱われたいがそうは思ってもらえないのではないかという恐怖が存在している。日本人は集団に守られていると感じることで外の眼を意識しなくていいと考える傾向にある。

西洋人の恥の感覚はより罪に近いが、日本では罪よりも恥の文化が根強い。恥の感覚は自分自身の存在そのものが「不完全で不足しているものだ」と感じるから生まれる。周囲に暖かく包まれたいという甘えが満たされず、衆人環視の状況に身をさらすことが恥である。

自分を輔弼(ほひつ…明治憲法下で国務大臣等が天皇の機能公私に対して助言すること)してくれる人が欲しい。対外的には自分が責任を持つものの、実際は自分に助言や承認を与えてくれる人が欲しいのである。

天皇は最高の地位につきながらも周りに頼り切っており、日本においての幼児的依存が尊重されていることのいい例となる。日本の社会で上に立つものは周りのものによって盛り立てられているだけだという事実は、幼児的依存を体現できる者が社会のいい地位につく資格があるということを意味している。日本人の甘えを理想化して、制度としたものが天皇制であったといえるだろう。

機嫌取り

甘えのイデオロギーを支えてきた敬語はしばしば小さい子供に対しても使われる。「お嬢ちゃんのお洋服、よく似合っているね」のような場合は小さい子供の機嫌を取ることが目的とされている。これは通常の敬語にも機嫌を取るニュアンスが含まれていることを示しているのではないだろうか。目上に対して敬語を使わないと、機嫌を損ねてしまい、結局は自分の不利益につながってしまうかもしれない。この事実は、日本人において子供心が成人した大人の中でも持続しているということを物語っている。子供と老人がもっとも自由気ままを許される社会構造の原因ともいえるのではないだろうか。

死をもって気づく

甘えを支えてきた例として、祖先崇拝の問題も挙げられる。「両親の死をもって、はじめて両親の独立した人格を、親という面目を抜きにして捉えることが出来るようになる」という体験談がある。ここから、死を目の当たりにすることによって人間関係の中に埋没したその人の真の人間性がみつかるということがわかる。甘えが充足される立場である天皇を信仰した古来の考えと矛盾はない。つまり、甘えの葛藤の彼岸にある者を神と呼んでいるのであり、そこに日本人の神観念の本質がある。

何かにつけて祭りをしたがる日本人はめでたい状況を好むとも言い換えることが出来るかもしれない。しかし「あいつはすこしおめでたい」といった表現が聞かれるようになってきている。日本人は、昔は純粋に祭りでめでたいと純粋に感じることが出来ていたが、近年はめでたいことが徐々にめでたくなくなってきたのではないだろうか。

言語と精神

一つの言語を話す国民は似た精神的特徴を持つといえる。甘えるという語彙に対して豊富なバリエーションを持つ日本語に対して英語には、それに相当する表現がみられないのは、世界観ないしは現実理解が異なっていることを示している。一つの言語は言語の使用者の施行をある程度条件づけている。しかし思考は完全に言語に依存しているというわけではないのだが、言語に頼っていない思考というのは、本質的に言語表現を超越しているともとることが出来る。そこで言語学の見地からだけでなく精神的分析理解を踏まえて考える必要性が出てくる。言語は心理的発達の初期段階の、個体が欲求を介して環境とかかわりあう状況を指摘している。

甘えと一体感

「甘えの原型」は乳幼児が、母親は自分とは別の存在であると知覚し、母親と密着することを求めることであり、甘えるということは母子の分離の事実を心理的に否定することなのである。甘えは「一体感」を求めるのだ。これは、乳幼児が「知覚」することが出来るようになるまでは精神的に退治の延長であるためだ。日本的思惟(しい)構造は西洋に比べて非論理的直感的である。分離の事実を止揚し、情緒的に自他一致の状態を醸し出す甘えの心理はまさしく非論理的である。日本人の思惟方法を比較研究した結果、精査的な人倫的組織を重視する傾向がみられた。しかし閉鎖的な世界観の中の住人である日本人にとってそういった意識自体は極めて認知されにくい

甘えの世界を批判的に見れば非論理的で閉鎖的であるということになるが、肯定するとすれば無差別平等を尊び、極めて寛容であるということが出来よう。甘えにおける一体感を求める際に、相手がこちらの意図をくみとり、受け入れてくれることが絶対的な条件である。だが、これはいつでも実現できるわけではないため、甘えを求める者はフラストレーションを感じることが多くあり、満足したとしてもそれは長続きしない。このことから永続的な一体感を求めて禅やそのほかの宗教に走るのである。

環境との一体感

日本的な審美感(しんび)として特に名高い「わび」や「さび」は人界を避けて閑寂(かんじゃく)を愛する心であり、甘えにみられる人と交わることを求めることとは正反対のように見える。しかし、境地に立った人間は却って(かえ)自分を取り巻く周りの環境との一体感を味わう。わび、さびといった発想は甘えによって発生する複雑な心境を抜きにして生きることに価値を見出したものともいえるだろう。「もののあわれ」も物にせよ自然にせよ対象に感動することであるので、しみじみとした情感をもって物との一体化を試みている。

日本の自由

自由という言葉の日本国内での従来の意味は「甘える自由」、すなわち「わがまま」を意味していたと考えられる。西洋的な自由の概念は、ギリシャの「自由人と奴隷の区別」に発しているように思われる。つまりは奴隷のよう強制的に従わされることがないということで、人権だとか尊厳と深く結びついている。これは個人の「集団に対する優位性」の根拠のもとにこういった観念が成り立っているということだ。

一方で日本的な発想で言えば、甘えでほかを必要とする場面は多くみられたとしても、集団から「真の意味で独立すること」はあり得ないのだ。これとは反対に個人の自由を強調する西洋社会では、甘えの観念は軽視されてきた。西洋の考え方では、謝罪というものは恥をともない、その恥が感謝の念を邪魔するらしい。したがって西洋の人々は今まで恥の感覚を消そうとして感謝をあまり感じないよう永年努力してきたと考えられる。日本人は人から好意を受けると外見はそうみえないとしても心のどこかで恐縮する遠慮のある他人の好意に対しては負い目を感じ、一体感を持てる身内の好意には平気でいられるのが日本人の習慣である。

「気」(気まま・わがまま)

「気」というもの、は一つ一つの瞬間における精神の動きを指す。日本で気の快楽原則以外に精神活動を支配する原則は考えられない。それぞれの気が求めているのはお互いの気が合うことであるため、「気が合わない」という事実は不快なこととして認識される。「気まま」というのは気が満足を求めることが前提とされ、時として「わがまま」と等置される。しかしニュアンスとしては明らかな差があり、わがままは第三者に対して使われることが多く、「気まま」は主に自分自身について使われる。日本の社会ではわがままは許されないが、気ままはわがままにならない限り許されるという面白い原則が存在している。

甘えの本質:依存

甘えは本質的には全くの「依存体質」であって「主客合一」(しゅかくごういつ。個々の人間としての主体が客体を認識する場合にそれと合一するようなことを言う哲学の概念)を願う動きである。日本で発達している気の概念の存在意義としては、甘えを気の動きとして捉え、客観視することを可能にすることが挙げられる。

「人見知り」は主に子供に使われるという印象があるだろうが、この場合に、「この子はもう人見知りをするようになった」というと精神的発達の指標としての捉え方であり、プラスであるとされている。そしてもう一つのパターンとして、「この子は人見知りが激しくて困ります」といったものがあるが、この場合では乳幼児の域を脱しているのはずの子どもが未だに母親の元を離れようとせず、初めての人と馴染もうとしないというマイナスの意味で使われている。

しかし成人にも人見知りはあり、これは日本人の間で多く見られる傾向である。人間関係に絡んだ困難を訴える患者の数が多いことと深いかかわりがあると考えられる。日本の社会では常に「内と外」が区別されてきて、内側では保護されて甘えることが出来る仕組みになっているが、外の者に対してはすぐに甘えることは出来ないので、多少の人見知りは考えられるということになる。

恥と照れ

近代日本においては恥に対する感覚の評価が推移している。「人見知り」をする人たちは慣れない人に対して「照れ」を意識するが、それはある種の「恥の感覚」である。日本では伝統的に「恥」が重んじられてきて、恥じらいの気持ちは理解され、親しまれてきたが、近代になって西洋の影響を受けることで心に余裕がなくなり、恥じらいの気持ちはプラスとしてとられることが減っていった

「気が済まない」

「気が済まない」は自分が「決めたように」物事が進まないことをいう。どうしても何かをせずにはいられなくなる、反響的でしばしば些細な行為であり、それをしないでいると不安が増すが、やってしまえば少なくとも一時的に緊張が解かれる。

日本人は気(ある瞬間の精神の動きであり、精神活動の原則)という形の快楽志向を客観視することで精神ないし主体性を確保する。このことから考えると、「気が済まない」と感じる人は自分の精神の動きを自覚することが出来ている人である。よって、そのような人物は「自己本位」でさえあり、「気難しい」ともいうことができ、相手の気よりも自分の気の方に重きを置く。従って、「気の済まない性格の人」は、一応は幼児的な甘えを卒業している「自律的な人」として分類されるだろう。済まないと感じる人は相手に対する甘えが温存されていることになる。

勤勉な理由

従来日本人が勤勉であるといわれるのは、「気が済まない」が過剰になってしまっていることを暗示している。日本人に多い傾向として仕事自体が持つ本当の意味や効果をあまり考えない。そこで問題となってくるのが、仕事をする理由が「気が済まない」からになってしまうことだ。

「遊び」の捉え方

このような理由で物事に取り組む姿勢は精神病的な状態に直結してしまう。仕事以外にも遊びにおいても同じようなことが起きており、「仕事のお付き合いで自由な時間を終わらせてしまってはいけない」という「義務感のもと遊んでいる」のが、本当に遊んでいるかのように見える。

面白いことに、日本語には遊び人、高等遊民などといったマイナスの「遊び」にまつわる表現が多く、好ましいこととは捉えられていないことがわかる。遊び自体に積極的価値が認められないのは、気が済まない気質が日本に深く浸透しているからだろう。これが原因で外国人の目に、日本が「生真面目でゆとりのない国」のように映ってしまうことが多くある。日本人は甘えたいが、甘えることができないので、甘えを否定して「気が済まない」という心境に陥ってしまうと考えられる。


米国でパーティーを催すと必ずと言っていいほど男女のペアで招待が行われるが、日本では少し異なる現実がある。日本では修学旅行に始まり、社会人になっても団体旅行を盛んに行う傾向がある。しかし、アメリカでは家族同伴での旅行が多くみられる。同性間の友情に関しても、日本では躊躇うことなく同性間の友情関係を持つことが出来るが、アメリカでは同性愛を疑われてしまうことに神経質になりがちである。

小説「こころ」

小説「こころ」は日本の同性愛的感情の黙認される社会をありのままに描いており、それと同時にそれについての批判をもしている。ひたむきな男同士の友情が当事者を破滅にまで追いやってしまうことにより風刺的に社会構造が描かれているといえる。「先生」は人生の経験から、甘えの感情が容易に憎しみに変化しうることを知っていたのだ。「先生」の中には真実を知らせることで甘えから目覚めさせ、新しい自己の誕生に導くことができるという理念があった。甘えは仮に友情や師弟関係の中で満たされたとしても安心することは出来ず、満足は一瞬で終わり、最後は幻滅に終わってしまうのだ。

「悔しさ」と「悔やみ」

負けて悔しいというように「悔しさ」は外向的な性質を持っている。しかし「悔やみ」は内向的であり、自責のニュアンスを強く持つ。鬱病の場合はもっぱら悔やみが前景にあり、悔しさは意識されない。つまり、悔しいと感じることができる間はまだ大丈夫で、悔しいとも感じることも出来ない状況に追い込まれてしまった時に「鬱病的な悔やみ」が始まるのだ。

「悔やみ」の発達段階を説明するならば、「甘えられないこと」があり、そこで気が済むように試みるがなかなか気が済まないので悔しく感じ、悔しくてどうにもならない時に悔やむということになる

親しいものを亡くした場合について考えると、死者との生前の関係を思い出してあれこれ悔やむ。これは自責のようにみえ、どこかで死者を恨んでいるとも言える。また、運命を恨んでいるのだ。これは罪悪感を持たないようにしたいという願いである。つまり一種の甘えということができる。しかし人の死を迎えた以上、今までどうにかして気の済むようにしていたとしても、もう同じようには出来ない。悔しいという感情は日本では大切にされてきた。欧米人の持つ復讐の概念は正義感と密接に関係しているのに、日本人の悔しさは甘えとの結びつきが強い。ルサンチマンの真理はアメリカでは口外したくないと考えられるのに対して日本で悔しさが重んじられるのは対照的な事実である。

被害者マインドセット

日本語には「被害者」という言葉があるが、これは現在の私たちの言語生活になくてはならないものになっている。あることがらを「被害的に受け取る」という意味を英語で表現しようとするならば、「ある事柄を自分が攻撃非難されたかのごとく誤って感じ取る」と言い換えなければならない。

その他にも、「遊び場に家が建てられてしまった」というような英語には存在しない受け身の用法を日本語は多く持っている。この場合ではこの結果遊び場を失ってしまった「子ども達の気持ち」までを含んでいる。また、似た例としては、雨に降られたといった表現もある。

利益を授受する概念

日本語は「~してやる」「~してくれる」「~してもらう」等の利益の授受を示す表現を多く持つ。これは、「明らかに利益を受けられなかった場合の被害的な心理の象徴」とも言えるだろう。

幼児の甘えと嫉妬

「甘える」といえばその原型は「幼児の甘え」であるが、これは甘えの対象の母親を独占しようとして、母親が他の者に注意を向けることに強い嫉妬を抱く。甘える場合に邪魔な意識されることが多いのは、甘える者が「受身的依存的姿勢」を取ることと関係する。

甘える相手は自分の思い通りになるわけではないので、甘える者はそれだけ傷つきやすく干渉されやすいと言える。甘えの心理が支配的であればあるほど邪魔ということを人々は強く意識するのだ。

成人した後に被害妄想・誇大妄想をする人は執念的な性格を持ち合わせていることが多い。執念は悔しさの心理に極めて近い。悔しい、よりも一歩進んで復讐心を内包する。こういった「執念的人間」は、目標が非現実的で、漠然とした充実感と全能感を追及する傾向にある。甘えを媒介とする人との共感関係をあまり経験したことがないのだ。だから、彼らは物にしがみつく傾向を示す。

自分がある・ない

自分がある、ないとかいう表現は日本語に独特である。はっきりと表現するなら、私は自分がない、と言った具合になる。欧米語では一人称代名詞を使う限り自我が意識されており、自分がある事は当然だというわけだ。欧米では言語的背景により、一人称の使用が強制されることで、非常に早くから「自我意識」が目覚めさせられるのだ。集団所属によって否定されることのない「自己の独立」を保持できるときに自分があるといわれる。

自己と集団

自己と集団の利益の合致を誰しもが望むが、それが実現しない場合に主張をするとしばしばワガママで自分勝手だという印象を与える。現実に、わがままを通すことができないと内心に深い傷を負う。

集団というのは「大きな心の支え」であり、集団から離反し、孤立する事はすなわち自分をなくす事である。だから自己を一時的に滅却してでも集団に所属する方を選びとろうとする。これは義理人情の葛藤、言い換えれば個人の甘えに発していると考えられる。

人は集団を求め、集団無くしては生存する事は出来ない。我を捨てて集団を取ることが美徳とされるなら、集団で行動することがよりやりやすくなる。内部での摩擦は減り、集団行動の効率は上がるのだ。経済成長でも挙国一致体制が容易に取れたからという理由が挙げられる。これは日本人の「全体一致の体裁を取りたがり、意見の対立を避ける傾向」が顕著に現れた例である。

個人的なヒステリーは「ワガママ」が原因となって起こることが多いが、個人のワガママを許さない集団の中でも、全体としてのヒステリックな行動が起こる可能性はあるということだ。集団に埋没してしまえば自己は当然なくなってしまう。が、かといって埋没しないようにとワガママな振る舞いを続けたなら自分が出てくるという訳でもない。自分を持つという事は大変に難しい事なのだ。

欧米では集団に対する「個人の優位」を意識する。集団の中の「自分たちは内的には自由」であり、決して「集団に属してはいない」と考えたがる。集団に所属はするものの、根本的な発想としては、「自主的任意的な参加」が前提とされている。だから、仕事もいつでもやめられるのが常識なのだ。だが、彼らにも心理的な所属欲求すなわち甘えは存在している。


最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

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