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日本酒コミュニティの距離感と多様性。

「さけのわ」という日本酒レビューのSNSがあり、ぼくも昨年12月頃からやっています。

飲んだ日本酒の味わいを記録して文章(メモ)と写真を投稿する、というのが基本的な使い方なんですが、

純粋に個人的な記録用として詳細数値(日本酒度や酸度等)だけをメモする人、解説文無しで写真だけをひらすら投稿する人、その日本酒の味わいから想起される過去の記憶を辿って散文調にまとめる人、など実に多様な人がいます。

「さけのわ」の中の様子は以下で詳述しますが、日本酒を飲み始めたばかりの人から長年の愛好家まで、年齢や男女を問わず色んな人が、「日本酒に興味がある」という一点だけで繋がっている、非常にゆるいコミュニティなんですね。

「フォロー」「スキ」といった機能はあるものの、あまりそこには重点が置かれてなくて、且つ自分の好きなやり方で投稿する。コメントしてもいいし、しなくてもいい、冒頭の通り使い方も自由だし、仮に投稿内容から味わいが伝わなくても別に大丈夫。

誰でもそこに居て良いよという、このゆるい感じが非常に心地良いんですね。この距離感がとっても良いなーって。安心感があるというか。

学生時代の海外ボランティアに始まり、社会人になってから一貫して海外の方々を相手に仕事をしてきたぼくにとって、「多様性」というのが身近で大きなテーマの一つなんですが、

この日本酒SNSのコミュニティの距離感、あり方というものが、「多様性」を考えるにあたって大きなヒントになる気がして、以下思うところを書いていきます。

1. 「さけのわ」の中の様子

「さけのわ」の使い方は大体上記で述べた通りで、機能としては「フォロー」機能はあるものの、自分が誰から、何人からフォローされているかといった情報は可視化されておらず、また「スキ」機能では投稿に対する「スキ」の数は見えるものの、意味合いとしては「見たよ!」程度だと感じます。

要は、フォロワー情報が数も含めて可視化されておらず、スキの数も投稿を続けていれば自然と増えていく(単にタイムラインに乗る回数が増えるから)といった状況なので、

フォロワーの数=影響力!みたいな安直な世界とは無縁なんですね。

もう一つは、これまで数千件単位の投稿を見てきて、マウント的なものを含め否定的なコメントを一度も目にしたことが無いんですね。この点は、この日本酒コミュニティの大きな特徴かなと思います。

そういった最低限のマナーや配慮は自然と存在していて、誰でも安心して使えるし、そこに居られる。使い方は自由で、且つその場所はとっても穏やかで平和という感じです。

他のユーザーとの距離感も心地良いものがあって、ある程度投稿を続けている方であれば、伝統的でクラシカルな純米酒が好きな方、とにかくラベルデザインのおしゃれなものが好きな方、愛する銘柄ばかりを飲んでいる方、などまずは各人の日本酒の好みがリアルに伝わってきます。

そして、例えば伝統的でクラシカルな純米酒が好きな方はいつも夕飯時の家飲みの様子を食卓の写真と共に投稿されていて、食卓に並ぶ日常的な和のおかずがその日の日本酒にほんとに合いそうなものばかりなんですね。

そんな投稿を見ているだけで、ほんの少しその方の人柄が伝わってくる気がして。その方の性格や仕事や家族構成など詳しいことは当然知らないけど、一方で情報ゼロ、ということでもない。


2. 異文化とのスタンスについて

今回は多様性を考えるにあたって、まずは異文化とのスタンスについて考えてみたいと思います。

高校の時、世界史の先生から「異文化理解とは何か」って質問されて、自分が何と答えたかは忘れたけど、上手く答えられなかったことだけはよく覚えてます。

その先生の答えは、「異文化理解とは、異なる背景・考え方・生活様式、つまり異なる文化を持つ人を『しっかりと自分の中で受け入れること』」というもの。

それらしい答えだけど、ちょっと違うかな、と今では分かる。

少なくとも、自分の文化圏において美意識というレベルで組み込まれた考え方や価値観、生活様式というものは、そう簡単にはアップデートできない。

例えば、時間に厳格ではない人々と接した経験。友達と遊びに行こう!飲みに行こう!と待ち合わせをして、5分や10分といった誤差ではなく、待ち合わせに30分、40分といったレベルで普通に遅れてくる。

そういったことが続けば、時間に厳格な文化の下で育った日本人であれば、やっぱりイライラしてしまいます。しかも、一言目がごめん!じゃなくて、「道が混んでたのよー」なんて毎度言われたら。。

そういう隔たりのある感覚や様式を「しっかりと自分の中で受け入れる」なんて、やっぱり出来ないんですよね。しっかりと受け入れる、なんて出来ない。

上の待ち合わせの例だと、時間を守る、待ち合わせに遅れない、待たせたらそのことを詫びるという基本姿勢は、日本人のぼくには美意識レベルで体の芯まで染み付いていること。

だから、そこから大きく外れる様式を、自分の中にしっかりと受け入れるなんて出来ない。美意識というものは、そんなに簡単にはアップデート出来ないんですね。

宗教的な背景から禁忌食材(豚肉とか)を持つ人が、「それを食する異文化圏で生活することになった」という理由だけで、その規律を解禁するなんてことは有り得ない、それと同じです。

自分の美徳や美意識レベルのものを簡単にはアップデートできない。

でも、

「自分とは全く違う価値観や世界観で生きてる人がいる」という事実を認識することは出来る。

「自分とは違う様式で、違う美意識で生きる人は世界に沢山いる」という事実は否応無く認識させられる。

そして、

「価値観や世界観や美意識が違う人と、その根本を競う必要は無い」

「無理に議論して、理解するところまで話し合おうとする必要も無い」

という、極めてシンプルで重要な視座に気付きます。

「共存」の根本はこれだと思う。

3. 日本酒コミュニティにおける距離感と多様性の担保

冒頭の日本酒コミュニティ(SNS)の話に戻ると、「日本酒に興味がある」という共通点以外は、みんな具体的な嗜好も生活様式も(どこで誰と飲むか)、投稿のスタイルも、そこに求めるものも違っている。

これが、同じ価値観や共通目標のもとで、同じ投稿スタイルで、同じ投稿頻度で、なんて基準を揃えられたら、多様性は全く担保されないんですね。

何より心地良さが担保されないし、その基準から外れる人にとっては「そこにいてもいいよ」というメッセージが発生しない。安心感が得られない。

多様性の担保というものを考えるとき、そこに必要な要素は、「あなたのこと全面的に承認して受け入れているよ」とか、「何があっても味方だから」という濃密なコミットではなくて、単に「排除されることがない」というベースがあること、その安心感じゃないかと思います。

日本酒コミュニティで言えば、「スキ」がついて、「あ、自分の投稿を見てくれたんだな」ぐらいの、非常にゆるい繋がり感。

昔で言えば、近所のおばあちゃんやおじさん達と顔を合わせて、別に特段会話をするでもないけど、会釈をして「認知し合っているよ」ぐらいの関係があれば、最低限の多様性は担保されるのだと思います。

もちろん他人へのマナーや配慮は必要だし、非建設的で否定だけが目的のコメントも不要。

でも、多様性の担保にあたって根本的に必要なことは、そういった自制というよりも、人格や仕事への評価や承認という立派なものは無い代わりに「あたなのことはちゃんと認知しているし、そこに居てて良いよ」という、非常にゆるい繋がり、そういった承認のあり方なんだと思います。

そういう場って何より心地が良いし、別に特段の貢献がなくともそこに居られると思うんですよね。

「そこに居て良いよ」「そこに居るだけで良いよ」というゆるい繋がり、そういった承認のあり方こそが多様性を担保するんだと思います。

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