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親は子供の純粋さを見て育つ。「子育て」は「親育て」。

子供は、ほんとに可愛い。

楽しい、嬉しいをなんの遠慮もなく表現してくれる。

真っ白の画用紙に無心でお絵描きして、粘土をこねこねしてなんだかよく分からないものを一生懸命に作って、その日にあったことを本当に楽しそうに話してくれる。

納得いかない、腹が立つことを真っ直ぐに表現してくれる。

イヤなものは絶対イヤだし、親の言うことなんて聞かない、思ってることを全力で伝えてくれる。

テレビが見たい!スマホでYou tubeが見たい!

そして、夜はこの上ない安らかな顔でスヤスヤと眠る。今日をめいっぱい生きた充実の眠り。

そんな表現の全てが可愛い。


子供の純粋さ

子供の純粋さを日々目の当たりにして、自分が大人になる過程で失ってきた大切なものの多さに気付かされる。

時の流れとともに失ってきたものの多さに気付かされる。

感じたことを純粋に表現すること。

変化しないもの、というのは多分ないはずだから、仕方ないのかもしれない。大人になる過程で身につける「社会性」の代わりに、純粋さは少しずつ形を変え、「社会で上手くやっていく」という大義名分に飲み込まれていく。

だって、社会に生きながら純粋さを貫き通す辛さは並大抵ではないと、どこかの時点で理解するから。

だから仕方ないのかもしれない。

でも、子供の純粋さを目の当たりにして素直に心を温められるのは、きっと純粋さへの憧れがあるんだと思う。

イヤなことは、はっきりイヤだと伝える。

嬉しいことは誰の目も気にせずそのまま表現する。

謝る必要なんてないと思う場面では、堂々と知らんぷりを通してみる。

「社会性」なんてものは、結局は他人との軋轢を怖がる心理、それを覆い隠す美言に過ぎないのかもしれない。

そんなことを考えさせられる。


「子育て」は、「親育て」

「子育て」とは、「親育て」のことだ。

「子育て」なんて言葉は、結局おこがましいんじゃないかな。

子供に栄養のあるご飯を食べさせて、清潔な服を着させて、乾いた布団を用意して絵本を読みながら寝かしつける。一緒になって遊んであげる。必要な支出を賄えるだけのお金を稼いでくる。これは親の責任だし義務だと思う。

でも、純粋さに支えられた子供の生きる力や、可能性を出来るだけ邪魔しないよう、温かい視線でひたすら我慢強く見守ってあげる。そうすれば子供は勝手にすくすく育っていく、という視点も大切にしなきゃいけない。

子供になにかを「教える」「仕込んでいく」ことが子育てだとは、ぼくは思わない。

むしろ親は子供に教えられているという事実にきちんと目を向けないと。

「大人になる」という意味をもう一度考え直さないと。

子供の純粋さを目の当たりにして親が考えさせられる、気づかされる。それこそが大切なこと。

娘と接していて、ほんとにありがとうと思う。純粋さをめいっぱい表現してくれてありがとうと思う。

だって、その純粋さこそが親を育ててくれてるんだから。

ほんとに大切なことはいつも子供が教えてくれる。

そう、「子育て」の行き着く先は、「親育て」なんだと思う。

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