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友田 健太郎・評 『白い孤影 ヨコハマメリー』檀原照和・著 【プロの書き手による 書評】

2018年の12月に本を出した。
世の中の著者たちは、いったいどうやって自分の本を宣伝しているのだろう?

いろいろな方法が考えられると思う。
・友人・知人への口コミ
・SNSやブログでの拡散
・イベントをひらく
 ……といったところが一般的か。

一通りやってみたが、届いている気がしない。
そこで歴とした文芸評論家に直接書評を依頼することにした。

友田健太郎さん。
慶應義塾大学文学部元講師。群像新人文学賞評論部門優秀作受賞者。書評媒体として有名な『週刊読書人(https://dokushojin.com/person.html?i=85)』ほかで健筆を振るう批評家である。
「ガチでお願いします」。
そして返ってきたのが、以下の原稿だ。

 横浜の街に40年以上立ち続けた白塗り・白いドレスの街娼メリーさん。ヒットしたドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』で全国的に知られるようになった。本書の著者・檀原照和は、もはや掘りつくされたと思われたこの題材に二十年をかけて挑み、メリーさんの真の姿に迫った。生前のメリーさんに会ったことがない著者は、驚くばかりの執念で事実を解き明かそうとし、かなりの部分までそれに成功しているといえるだろう。発見と驚きに満ちた一冊である。

それにしても、かつてメリーさんに接した人たちの証言の錯綜ぶりはものすごい。矛盾する証言が次から次へと登場する。「メリーさんは昔から年を取っていた」という証言もあれば、三十代、四十代のころの輝くばかりの美しさを語る人もいる。座らずにずっと立っている姿に感銘を受けた人もいたが、イスによく座っていたという証言も。白粉を手には塗っていなかったとある人が言えば、彼女が触ったところに白粉がべっとりつくので迷惑だったという声も。同じ様子を見ていた夫婦ですら別の証言をする。こうしてメリーさんを見た人々の様々な声が乱反射する。聞けば聞くほど、かえって謎は深まっていく。著者も言うように、伝説が生まれる瞬間を見るような気さえするのである。

例えば、帰省の謎である。メリーさんは年末年始に毎年帰省していたと言われ、横浜の行きつけのクリーニング屋は、毎年大みそかに彼女が来るのを待って店を開けていた。彼女がこの店に寄ってから帰省するのを恒例としていたからである(クリーニングしたての純白のドレスに着替えて帰省したのだろうか)。

ところが、雑誌記事で証言しているメリーさんの実弟は「こっちへは2回くらいしか里帰りしてません」と「毎年の帰省」を否定している。果たして正しいのはどちらなのだろうか。もし帰省していないとすると、メリーさんは毎年どこに行っていたのか。メリーさんも実弟ももはやなく、それは永遠の謎である。

 著者は横浜に長く住んでおり、映画『ヨコハマメリー』の作り手たちの周辺にいて、その物語を共有していた。メリーさんについても既に何度か書いている。しかし、まったく新しい本を書こうという気持ちから、映画で語られたメリーさんの生涯を改めて一つ一つ洗いなおしていった。通った小学校や女学校はどこだったのか。どうして郷里を出たのか。戦後暮らしていたといわれるホテルは。彼女が待っていたと言われる米軍将校とは。実家は、そして晩年を過ごした老人ホームはどこだったのか。一歩一歩事実に迫る取材の過程はスリリングである。特に老人ホームの特定のくだりは興奮させられた。明らかになった真実は、『ヨコハマメリー』の作り手たちの深い配慮を示すものでもあり、感動的である。

 これ以上は無理ではないかと思われる徹底した調査の結果、これまで知られていたメリーさんの物語の中でも、証言によって確証が取れた部分もあれば、確証がなく、おそらく事実ではなかったと思われる部分もある。確証が取れた部分は巻末の「メリーさん年表」にまとめられている。

 明らかになった実人生は、いくつかの点で「伝説」を覆している。詳細は本書を読んでもらいたいが、本書を通読して最後にごく簡潔な「メリーさん年表」を見ると、正直なところ、かなり寂しい人生であったという印象を受けるのだ。特に人との縁が薄く、上述のクリーニング店のように、面倒見のよい行きつけの店などはいくつかあったが、深い交流を持った人は皆無といってよいほどである。「白い孤影」という本書のタイトル、また文中で使われる「孤絶」という言葉はその寂しさを表しているのだろう。

私としては、本書の随所で示唆されながら、正面からは論じられていない点に関心を持つ。それは彼女が患っていたであろう精神疾患の問題である。そもそもホームレスやそれに近い生活を送る人々が精神疾患を患っている割合はかなり高いものだといわれる(『ヨコハマメリー』で描かれたように、横浜時代の最後の何年か、メリーさんはビルの廊下で寝泊まりするホームレスであった)。また、セックスワーカーも精神疾患を患う人がしばしば就くしごととして知られている。客との接触の形式が限られ、高いコミュニケーションスキルが必要なく、時間的束縛も少ない割にはまとまった収入が得られるからである。本書にもメリーさんの精神疾患を伺わせるエピソードや証言がいくつか収められている。

 結局のところメリーさんの実人生は、一人の精神を病んだ女性が郷里で生きられずに、半ば追われるように出奔し、壊れやすい自我を守りながら自力で生きる道を探し、ほとんど必然的に街娼になっていったということではないか。こうした女性はメリーさん一人ではなかった。
だが、若いころのメリーさんは、類まれな美しさゆえに、白いドレスやきらきらのアクセサリーで見る者を圧倒して自分の周囲にバリアーをはり、顧客にも恵まれて、自分だけの物語を生きることができた。若いころの彼女が「皇后陛下」「クレオパトラ」「バラ色の貴婦人」などと呼ばれていたという証言は、彼女が放っていたオーラの強さとその反面の周囲との孤絶感を感じさせる。

 著者がメリーさんの精神疾患を強く示唆しながら(例えば彼女が「ある種のアウトサイダー・アーチスト」であったという結論にもその示唆はあるだろう)、精神科医に取材するなどしてこの問題を正面から掘り下げることを避けたのはなぜか(あるいは取材したとしても、その内容を書籍化するときに省いたのはなぜか)。

 メリーさんの行動を精神疾患の結果とすることは楽屋落ちのようで、物語を平板にするように思われたのだろうし、また、彼女の尊厳を奪うもののようにも感じられたのだろう。著者はメリーさんを病気のかわいそうな人ではなく、自ら選んだ孤高の表現者として遇したかったのではないか。人情としてわかる気がしないでもない。

 以上はあくまでも私の推測であり、本当に著者がそう考えているかはわからないのだが、ただ、メリーさんの生き方を、専ら自らが選んだ自由であり表現であるとすることに私は疑問を感じる。彼女が選択した生き方であり服装だったことは明らかにしても、疾患によって選択が狭められていたという面も確かにあったからだ。即収容して治療すべきだったというようなことを言いたいのではない。彼女自身が自分の人生の在り方に苦痛を感じていなかったかどうかはわからないし、その意味で精神医療にできることがなかったとも断言できないということだ(もちろんかつての精神医療の劣悪さといった問題はあるが)。究極的には自己選択の問題であったにしても、そもそも治療という選択肢が彼女に示されていたのか、そういう機会を与えられていたのかという疑問は残る。

 それにしても街に立ったメリーさんが身にまとったのが、西洋のイメージを戯画化したような白いドレスであったことは、日本の女性にとって西洋というものが何だったのか(そして今なお何であるのか)をしみじみと考えさせる。著者はメリーさんのドレスを「青春時代を戦争で押さえつけられた反動が噴出したものではないか」としている。それはきっとそうだと思うが、もっと言えば、日本の女性にとって明治以来西洋は一貫して「自由」の象徴であり、束縛の多い「いま、ここ」の向こう岸にある何かだったのではないか。

 もちろん西洋社会には西洋社会の問題があり、言われるほど男女平等でもない。それでもなお、「いま、ここ」が女性によって生きづらければ生きづらいほど、海の向こうに夢を見てしまう。そしてそれは、地方で困難な立場に立たされたメリーさん、支える人もなく、壊れやすい自我をぎりぎりで支えなければならなかった彼女にとっては、一層そうだったに違いない。メリーさんの白いドレスの裏には、そうまでして意識下に抑え込まなければならなかった深い傷があった。

 彼女はやがて老い、武器とした美貌は衰えていくが、彼女には自分の世界を守り通す以外の選択肢はなかった。なまじ街頭で光り輝いた記憶があるだけに、ほかの生き方を知らなかった。背中は曲がり、白粉は濃くなり、アイシャドーはどす黒くなる。彼女が奇人として町の名物になるにつれ、かつての様々な呼び名は「マリー」、次いで「メリー」に収れんしていく。

 彼女が「メリー」の名で呼ばれるようになったことは重要なポイントだ。著者は取材を通し、日本では外国人女性一般をポピュラーな名である「メリー」と呼んでいたことがあること、またアメリカを指す「メリケン」などとも交差して、「外国かぶれ」「外国好き」な人を指す一般名詞として「メリーさん」という言葉があったことなど、多くの興味深い事実を発掘した。そうしたことからすれば、米軍関係者を顧客として好んでいたとされる彼女がメリーさんと呼ばれるようになったのはごく自然なことだったのだ。

 それでもなお、そこには何か面白い照応があるように私には思える。それは、メリーというのが英語圏で一般的な女性名であるにとどまらず、強い象徴性を持つ名前だからだ。

つまり、英語でMaryとはほかならぬ聖母マリアのことであり、だからこそキリスト教が主流である英語圏で多くの女性にMaryの名が与えられてきた(Maryは日本では「マリー」「メリー」「メアリー」など様々に読まれるが、全て同じMaryのことである)。

例えばビートルズの代表作Let it beの冒頭にMother Maryが登場するが、あれが聖母マリアのことである。悩めるもののそばにやってきて、「すべてはそのままに」と「知恵の言葉」をささやく。実は、この曲を書いたポール・マッカートニーにはMaryという母親がいた。横浜のメリーさんの12歳年上にあたる。愛情豊かで賢く、働きものの母親は、ポールが14歳の時乳がんで急死し、彼に大きな打撃を与えた。Let it beのMother Maryにはこの母Maryの面影が投影されている。また、ポールはこの曲を作っていた頃に生まれた娘に、母にちなんでMaryの名を与えた。

聖母マリアを源泉として世界中に広がる、Maria, Marie, Maryなどと呼ばれる無数の女性たちの連鎖。その中に横浜のメリーさんも確かに位置している。実人生においておそらく子供を持たなかった街娼が、老いるとともに横浜の地霊のような存在になり、遂に聖母の名で呼ばれるようになる。それは皮肉なことといえるが、一方で、単に外国人を顧客にしていた、外国かぶれであったといったことを超える何らかの象徴的な意味をそこに見出すこともできるかもしれないと思えるのだ。

ただ、本書を見ると、彼女自身はメリーを名乗ったことはなさそうだ。世話になった相手に出した礼状ではペンネームらしい「西岡雪子」を名乗り、なじみの店などに書いた色紙などでは本名を添えることもあったという。自分の白さを「雪」にたとえた彼女は、この点では意外にも日本の伝統的な美意識を継いでいたようである。いずれにせよ彼女は、自分がメリーと呼ばれていることは知っていたにせよ、本当の意味でそれを自分の名前として意識したことはなかったのではないか。

ヨコハマメリーとは彼女自身の物語ではなかった。彼女自身が胸に秘めた物語は決して明かされないまま永遠の謎となった。彼女が生きていたのは、他人とは交差しない島宇宙のような世界だった。特定の恋人はいなかったらしい彼女が何を待っていたのかは結局のところ分からない。著者が示唆するように、多分、何も待ってはいなかった。彼女はただ雪のような白いドレスを着て立っていただけなのだ。

恋人を待つ港の女メリー。それは結局のところ、人々が彼女に見出した物語だった。寂寞とした彼女の実人生の周囲に、人々の思いばかりが伝説として付着し、膨らんだ。メリーさんは人々がどう思おうが、それには興味すらなかっただろう。

本書は伝説が生まれ、膨らむ過程を生々しく捉えた稀有な記録である。著者が言うように、本書自身が、メリーさん亡き後にその物語を更新するものでもある。それは彼女の物語ではない。私たちの物語なのだ。


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