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世界遺産!聖徳太子の「法隆寺」-法隆寺・斑鳩周辺!-

607年創建。2021年は聖徳太子が亡くなり1400年になるため、法隆寺展が様々なところで行われていた。推古天皇の摂政であり、冠位十二階、十七条憲法で有名な聖徳太子所縁の寺である世界遺産!元々は金堂の薬師如来が始まりで、聖徳太子の父・用明天皇の病を治すべく建立された。聖徳太子がお亡くなりになったときに、釈迦如来坐像を安置したようだ。

 670年頃、火災焼失し寺院のランクも落ちたことで、国からの補助金が少なくなる。結果、経営は厳しくなりピンチとなるのだが、そこで「太子信仰」を生み出し復興の道に進む。つまり、法隆寺=太子信仰は、没後の話であるようだ。その太子を持ち上げ復興させたのが、鎌倉時代に活躍した「親鸞」である。若かりし親鸞は法隆寺で修業し、太子に帰依したことから太子信仰を広めたようだ。

 親鸞のおかげで復興したのだが、明治時代の廃仏毀釈で法隆寺も影響を受けるのだが、なんとか難を流れる。復活した方法は、皇室に300の宝物を贈り、そのお金で修繕したそうな。今どこにあるかというと東京国立博物館「法隆寺館」である。法隆寺館には大陸から渡った仏像たちが多く、それを見れば、法隆寺、京都・広隆寺、京都・清凉寺の仏像たちと比較すると、大陸から来たものと日本で作られたものもあると納得いくかも。
 
 背景を知れば、複雑な思いをする人もいるかもしれないが、この分離により戦火・天災による焼失・喪失のリスクも分散できたので、良しとしたいと思う。負の歴史・遺産も受け止めなければ。

変更履歴

  • 2023/07/29 テレビ番組で知ったことを追記

  • 2022/06/09 見どころ追加

  • 2022/04/16 金堂追記

  • 2022/04/16 2021年大阪市立美術館「聖徳太子展」NOTEリンク

  • 2021/10/03 初版


▼HP

▼アクセス

〒636-0115 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1の1

▼祭神・本尊と脇時

※後述の「▼見どころ」に記載。

▼見どころ

 700年前後に建てられた建築物には、中国・北魏から随の文化が色濃く残り、それ以降に建てられたものには唐の様式が見られる。法隆寺には、日本と中国が密接に交流していた証が残されている。

長いので箇条書き。

  • 世界遺産

  • 20歳で推古天皇の摂政になり、大陸で流行っていた仏教を広めた人物で、冠位十二階、十七条憲法で有名な聖徳太子所縁の寺

  • 聖徳太子ゆかりの寺だが、自分の宮室としたのが斑鳩宮で、太子発願で斑鳩寺こと法隆寺が出来た

  • 宮室にしたのは太子が28歳のときで601年で32歳で移住。それまでは父・用明天皇の上宮で過ごした(日本書記より)

  • 622年、聖徳太子亡くなる

  • 670年頃、火災焼失し寺院のランクも落ちたことで、国からの補助金が少なくなる。結果、経営は厳しくなりピンチとなるのだが、そこで「太子信仰」を生み出し復興の道に進む

  • 明治時代の廃仏毀釈で法隆寺も影響を受けるのだが、なんとか難を流れる。皇室に300の宝物を贈り、そのお金で修繕したそうな。その宝物は東京国立博物館にある

  • 中門、回廊@国宝はギリシャのパルテノン宣伝と同じくエンタシス!711年作の金剛力士像は世界最古の金剛力士で380mの高さ

  • 西円堂@国宝「薬師如来坐像@国宝」は見どころ

  • その他は後述参照。

▽南大門@国宝

 このアプローチだけでテンションが上がります。東大寺も似たアプローチですが人が邪魔なんですよね。金堂などにたどり着かないアプローチが逆に良い。
 ポイントは、団体客は来るので早めに仏像を見ることをお奨めします。

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▽西院伽藍:中門

 ギリシャのパルテノン宣伝と同じくエンタシス!と言いたいところだが法隆寺の柱は上と下が細く真ん中が太い構造となっているという隠れポイントがある。

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 711年作の金剛力士像は世界最古の金剛力士で380mの高さがある。木を芯にして粘土で完成させたもの。そういう意味で木で作った東大寺・金剛力士像と見比べるのも良いかも。

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▽西円堂@国宝「薬師如来坐像@国宝」

 参拝の初めは左手の小高い西円堂に行くのがよいかも。光明皇后が母・立花三千代の病回復を願って作られた仏像が安置されており、無料で常時見仏できる数少ない国宝「丈六・薬師如来坐像」である。
 お祭りのときは最古の「聖徳太子7歳座像@重文」が薬師如来の前に置かれる。

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 本尊「薬師如来坐像@国宝」は、像高約2メートル半の坐像で、法隆寺に残る数多い仏像の中でも最大の大きさ。 東大寺法華堂の不空羂索観音像や唐招提寺の盧舎那仏像と同様、脱乾漆という技法で作られている。この背後から法隆寺を見下ろす風景がすばらしい。

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▽西院伽藍

→五重塔・金堂・大講堂

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→西院伽藍:回廊@国宝

 真正な場所を仕切る役割の回廊は150本の檜で出来ている。法隆寺の柱はエンタシスの柱ともいわれており、上の部分と下の部分を徐々に細くなるデザイン。これはギリシャ発祥の建築方法ともいわれ、法隆寺のエンタシスの柱には檜が使われているそうな。

→西院伽藍:五重塔@国宝

 上に行くほど小さくすることで高く見えるよう錯覚を狙った設計の五重塔。
 焼失した木材で出来ているのだが、心柱のみが590年と古く、細く、時代に合わないという謎がある。これも財政難から若草伽藍の柱をリユースしたとか。

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 わが国最古の五重塔の中は釈迦が亡くなり嘆き悲しむ弟子たちのシーンが像としてあらわされています。

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造りや耐震性に興味がある方は以下をどうぞ。

→西院伽藍:金堂@国宝

 巣化時代に中国の御堂を参考にしたもの。ただし、この様式はここにしか残っていないという代物である。お堂の扉は当時の大木で一木なのだそうな。格子も一枚の板をくりぬいるのも注目。

 金堂は、「中の間」「東の間」「西の間」の三つに分かれている。それぞれに「天蓋、天人、鳳凰」と呼ばれる天蓋があり、楽器を演奏する童子と鳳凰が吊り下げられている。
 中の間には、金堂の本尊である国宝「釈迦三尊像@国宝」が安置され、聖徳太子の姿を写した像とも。両隣には「毘沙門天立像」「吉祥天立像」夫婦が安置されている。
 東の間で見られるのは、国宝「薬師如来坐像」で、光背の裏に法隆寺創建の由来が刻まれており、創建当時は薬師如来が本尊だったとされたとする理由である。

 西の間には重要文化財「阿弥陀三尊像」が安置されている。

 釈迦三尊像、薬師如来、阿弥陀如来と独特の空気感が漂っている。オペラグラスで詳細部分まで見入っていると、団体客に取り囲まれていた。。

2023年1月16日東本願寺 法隆寺のクローンです

 飛鳥寺の本尊と同じくアルカイックスマイル全快である。四天王は鎌倉時代になると憤怒の顔で邪気は苦しそうだが、古い四天王の邪気は穏やかな雰囲気をである。

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 木造建築世界最古の建物である金堂は、2階部分だけで23トンあり、内部にはかなりの補強材が使われており、三重塔と同じく内部構造は荒く構造は弱いらしい。
 つまりは構造をあるべき木材で出来るほどお金がなく、継ぎはぎでやったのだろうというのが建築家の意見である。個人的には地震でその都度、作り直さず修理したのかもと思うのだが。。冒頭の通り、歴史的に苦しい経営をしていたことがわかる。

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 →釈迦三尊像@国宝

 アーモンド型の瞳に微笑みを浮かべた「アルカイックスマイル」の代表作で、飛鳥時代の傑作!仏師は止利仏師である。そう飛鳥寺、大安寺でお馴染みの飛鳥の有名仏師である。台座に衣まで垂れ下がったもので、鎌倉の仏像が引き継いだのかも?と思ったり。また、金銅に金で宇羽がいたものであり、部分部分に金が残っている。
 脇侍は薬上菩薩、薬王菩薩であり、こちらも国宝である。

 光背には、621年、聖徳太子の母が亡くなり、病の太子を願い発願したが、製作中に亡くなったと光背に記されている。太子等身大の釈迦如来とのこと。

 →金堂堂内:四天王立像@国宝

 四天王は運慶快慶の南都仏師たちの影響力が強く、迫力あるイメージだが、飛鳥時代の古風な四天王である。2021年奈良国立博物館の法隆寺展で、手の届く距離で見れたのはよかった!

 →金堂堂内:薬師如来坐像@国宝

 聖徳太子が父・用明天皇を病が治るように作った仏像で、この仏像が金堂最古の仏像である。
 台座に赤外線をあてると絵が出てきたそうで、復元したところ弥勒菩薩が現れるまで守ることを釈迦から命令された弟子「大迦葉」が描かれていた。    
これは当初の仏像様式と100年ずれており、過去の中国の様式を入れた推察され、聖徳太子の死後に、釈迦三尊像を真似て造ったものだとか。

 →西院伽藍:大講堂@国宝に「薬師三尊@国宝」

 本尊は薬師如来坐像@国宝である。唐招提寺と似ている感じがする薬師。注目は脇侍の日光・月光菩薩@国宝だが、坐像なんですよね。薬師三尊は薬師は坐像で脇侍は立像がほとんどで、まれに薬師も立像もあるのだが・・。

 →西院伽藍:正霊院(太子堂)

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▽夢殿@国宝

西院から東院へ。このアプローチもよい感じです。

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左に行けば中宮寺がある。
※拝観時間が違うので要注意!中宮寺は9:00からです。

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 八角形のお堂が特徴の「夢殿」は行信が739年ごろ、太子供養のために建立し、その前は斑鳩宮があったということです。 聖徳太子が住んでいて跡地にあるといわれている。「生信」という僧が建立した。この僧の像も国宝で、目が吊り上がっている像である。
 

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 →東院伽藍:救世観音立像@国宝

 元々は法隆寺とは別で上宮と言われていたところで、ここに太子が暮らしていたそうな。西院伽藍・金堂の本尊と同じく聖徳太子を模したと等身大の仏像で、樟の一木作りで180cmの高さ。いうまでもなくアーモンド型の目のアルカイックスマイルで、天衣が絶妙な流れであり、木材とは思えない。また、胸元に持つ宝珠もエレガントである。

 これだけの保存状態の良い理由は、僧侶も見れない絶対秘仏で、包帯でぐるぐる巻きにされていたたからだ。
 見れるようになったきっかけは、明治時代に岡倉天心・フェロノサコンビで、僧侶の説得が長く続くが、僧侶は祟りが起こると拒否し続けるが、開扉することを許された。二人は見仏し仰天したそうな。明治まで大事にされたので金も残っており、金堂本尊の昔も想像できる。こちらは春秋のみ開扉します。

 2020年に最新の赤外線カメラを当てたところ、口髭と顎髭がはっきりあることが、わかった。元祖、ヒゲダン!?
 そのほかの技法として、目・眉などの縁どりに墨を使っていることがよく分かったそうな。

▽法隆寺大宝蔵殿

歴史的に価値のあるものが多く、見入ってしまう。記憶が残っているものを記す。後述の「▽2021年:奈良国立博物館『法隆寺の至宝』メモ」も参照ください。

 →百済観音立像@国宝

 金堂・釈迦三尊像、救世観音立像と並ぶ名作・名仏「百済観音立像@国宝」は美しい。大きさもそうだが、横から見たらモデル以上に細く、ツボを持つ手が何とも言えないエレガントさである。そして、この細さ!唯一無二とはこのことだろう!
 当初、大陸で作られたとされたが、日本で作られたことが分かっている(※)。

 体内は内ぐりと呼ばれる「体内空洞」化でひび割れを阻止するようにしており、水瓶と胴体は釘で繋がっていることがわかっている。水瓶はケガレを払う聖水が入っているとか。

※当初、大陸で作られたとされたが、日本で作られた
初めて記録は江戸時代のもので、百済で造られたとあったが、楠は日本でしか仏像に使われていなかった。また、明治に宝冠が見つかり、この百済観音に嵌って今に至る。

 →観音菩薩立像@国宝(夢違観音)

 なんでも願えば悪夢が良い夢に代わるとか。江戸で運ばれたときは人気殺到だったそうな。優しい顔の金銅仏である。

 →海磯鏡@国宝

光明皇后が太子の命日(736年2月22日)に奉納したもの。古代の人が夢見た平和を描かれている。

 →伝橘夫人念仏と厨子@国宝

 橘三千代という天皇に仕えた方の持念仏だとか。三千代は藤原不比等の妻であり、光明皇后の母である。この美千代の子供たちが太子信仰を信じており、そこから光明皇后は聖武天皇にお願いし、法隆寺と皇室とつながりを持ったともいわれている。
 救世観音を安置するお堂なども、三千代の娘たちが奉納・移築したものである。
 なぜそんなに太子に帰依したかというと、当時女性は成仏されないとされたが、救われるよと言い始めたのが聖徳太子だったようだ。厨子の天蓋も金堂釈迦三尊像と同じ模様である。


 →九面観音像@国宝

白檀の一木造で、衣文などの彫刻が細かく、日本的な優しい観音様だが、中国・唐のものと云われ、唯一無二の九面であり、一木造で細かな装飾も当時のものである。
 ※2021年「法隆寺展」

 →竜首水瓶@国宝

 仏像にお水をやるときに使うもの。水が出るところが竜の顔になっており、金がきれいに残っている。銅には綱差を広げた天馬(ペガサス)というものが描かれており、ペルシャと中国の影響を受けたとされ、海外から輸入したとされていたが、近年、日本の技法が数多くあることから日本製とされている。
 ※2021年「法隆寺展」

 →聖徳太子絵伝@国宝 & 聖徳太子像

 聖徳太子が生まれてから亡くなるまでを描いた屏風のようなもの。馬に乗って富士山を超える、僧侶に説法するシーンなどが描かれている。
 聖徳太子2歳像、7歳像、16歳の教養像もこの絵から広がっている。教養像は用明天皇の病が治るよう願っている親思いな時を現した像で、1000以上が全国にある。教養像を広めたのはご存知の親鸞である。浄土真宗は聖徳太子の思いを継承しているのかもしれない。
 そして摂政時代の「聖徳太子摂政像」は冠をして、大人びた坐像で没後500年後に作られ、X線を通する小さな観音様が口元の像内にあることが分かっている。

▼祭り「聖霊会」

▼セットで行くところ

中宮寺、斑鳩神社、法起寺、法輪寺。車なら松尾寺、龍田大社、広瀬神社。

▼旅行記

▼仏像展 ※古いもの順

▽2017年:京都国立博物館『開館120周年記念特別展覧会「国宝」』

 四天王のうち「広目天@国宝」が展示!!
 鎌倉仏像が好きな私としては法隆寺の四天王はピンと来ないのだが、修学旅行などで行った人も多く、ライトアップされ近くで見られるため、人だかりだった。法隆寺の邪鬼は独特感のあるものなので注目です。

▽2021年:奈良・東京国立博物館『法隆寺の至宝』

 歴史で学んだものをここで見る!!
 聖徳太子1400年遠忌記念・特別展「聖徳太子と法隆寺」。聖徳太子は推古天皇の摂政として、蘇我馬子と共に政治を補佐し、仏教を中心とした国造りを行った。冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣によって政治制度を整えた有名人。

↓私のメモ・・。専門家にはかなわない・・。

◆第一章
鶴林寺の「あいたた観音」と同様に大陸仏教(仏像)のままの金銅仏が展示されている。橘寺から移されたものも多いようで、現在は東京公立博物館に多く安置されている。その中から「如来及び脇侍像@重文」「如来坐像@重文」が(奈良)里帰りしていた。如来坐像は法隆寺金堂の本尊、飛鳥寺の本尊に繋がっていると思われる「アルカイックスマイル」の表情に感じる。この章ではアルカイックスマイルの仏像が続く。「菩薩立像@重文」と「菩薩半跏像@重文」と仏像の基本様式の仏像が続く。菩薩立像は聖徳太子の写しとされる夢殿「救世観音菩薩立像@重文」と顔の表情や印相やバランスが似ている。最後に不思議な「如来立像@重文」が目に飛び込む。日本人的に今からお辞儀しようとしている?と感じる印相。法隆寺ではなく、こちらは法起寺のものだった。

◆第二章
法隆寺創建で、鎌倉時代のものと思わせるリアルな仏「聖像坐像@重文」で、大陸より日本に来た「観勒」だろうとのこと。観勒は推古天皇に近い位置で仕事をし、占いなどを持ち込んだ人でもある。

◆第三章
法隆寺東院となっている。「行信僧都坐像@国宝」は夢殿・救世観音立像の脇侍で、この夢殿を作った方だそうだ。注目株は「阿弥陀如来@重文及び脇侍観音立像@重文」の阿弥陀三尊で説法印を結ぶ阿弥陀如来で、伝法堂に安置されている。奈良時代作でここまで金箔が残っているのも珍しいかと。「観音菩薩立像@国宝」はどこか百済観音立像@国宝を思い出させる風貌。聖徳太子展なので、聖徳太子2歳像、16才像なども展示されている。面白かったのは「聖徳太子7歳坐像@重文」で、墨書より生誕505年と記され、仏師は信貴山の僧でもある「円快」である。”快”とあるので快慶繋がりと思ったが、そうではないらしい。

◆第四章
「聖徳太子と仏像」ということで、見慣れた平安末期から鎌倉時代の仏像が中心になる。
 法隆寺と法起寺の「聖徳太子2才像」と「聖徳太子立像@重文」が展示。立像は16才像とされており、父・用明天皇の病気回復を願っているときの姿とされる。
 「聖徳太子坐像@国宝」は聖霊院の秘仏で1122年の太子没後500年で造られたそうな。
 金箔が綺麗に残っている「如意輪観音菩薩半跏像@重文」は中宮寺ではなく醍醐寺にいそうな顔で体は京都・太秦にある広隆寺を思い出させる仏像。 
 「地蔵菩薩立像@重文」は室生寺、矢田寺などでもよく見る頭でっかち系地蔵菩薩である。

◆第五章
法隆寺金堂と五重塔となっている。東京国立博物館に大量に展示されている金銅仏がズラリと並ぶ。
 注目は金堂の四天王@国宝から多聞天と広目天が展示されていた。法隆寺の金堂は薄暗く、太陽の位置によっては見にくいのだが、今回の法隆寺展では近くで良く見える。

六観音が展示されていた。六観音と言えば聖観音・千手観音・馬頭観音・十一面観音・准抵観音(虚空蔵)・如意輪観音と思いがちだが、これは六道で、こちらは観音・勢至・文殊・普賢・日光・月光となっており、所謂、釈迦・阿弥陀・薬師如来の脇侍たちというくくりになっている。文殊と勢至が立像なのも珍しい!

ラストは五重塔で釈迦がなくなるシーンで周りで悲しんでいる羅漢たちで国宝祭りになる。この像は取り外せるんだと初めて知った。。しかし、鎌倉時代の運慶・快慶に続くリアリズムな仏像の先駆けはここじゃないかと感じてしまう完璧な表情。

▽2021年大阪市立美術館「聖徳太子展」

▽2023年:★仏像展★親鸞聖人御誕生850年「真宗と聖徳太子」立教開宗800年記念 春季特別展



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