スーツを纏っても大人にはなれない

小さい頃、私が見ている世界と他の人が見ている世界は本当に同じなのだろうかということをよく考えていた。
あの看板の青は本当は何色で、私の隣にいる人は私と同じようにあの青が見えているのだろうか。それを確かめられないことが不安で仕方がなかった。
でも、成長するにつれてその疑問は忘れられた。そんなことよりも人間関係やテスト範囲について心を砕くことの方が多くなったからだろう。

行きたいと思っていたそれなりの大学は無事に卒業したが、人と同じ速さでは就職活動をしなかった。スーツを着て髪を染め、ヒールのついた靴を履いたからって大人になれるとは思えなかった。常識や時間に押し流されるようにして”社会人”にされるのが嫌だったのかもしれない。とにかく、みんな同じ様な格好をして必死に社会に居場所を求めるような流れに反発を覚えた。

本当に行きたい会社など片手で数えるほどあれば多い方だ。
ここなら働いてみたいかもしれないと思う会社を2社受けた。どちらも落ちた。
”落とされた”ということに対してはそれなりに悲しい気持ちになったけれど、今その会社に行けなかったことを後悔しているか?残念に思うか?と聞かれても「そうは思わない」と答える。
それは、今の私に仕事を通してやりたいことがないからかもしれない。

私は何のために生きているのだろう。楽しいと思って生きていきたい。幸せになりたい。大切な人と自分の楽しいことと相手の楽しいことと、お互いの人生を共有していきたい。色んな場所に旅行したい。知らないことを知りたい。胸を打たれる芸術に出会いたい。涙が溢れるような景色をみたい。誰かと何かを作りたい。

まだまだやりたいことは沢山ある。
仕事は、私の人生のどんなパーツになってくれるのだろう。
会社の批評サイトを見ていると”社会貢献度”というものがある。この項目を見ると、いつも少し”もやっ”とする。「社会貢献」という言葉はとても曖昧なものに思える。つまり、社会に存在する不特定多数の誰かにどのくらい貢献したか、ということなのだろう。私の中ではそんなイメージだ。

しかし、その集団の社会を作り上げているのは「個人」で彼ら一人ひとりに人生があり、世界がある。私は、会社に所属すること、働くことが個人にとっての幸せであってもいいのではないかと思う。”社会貢献度”なんて不確かなものよりも、その会社に所属することで私はどれだけ幸せになれるのか、人生を豊にすることができるのかということの方が知りたい。
社会貢献度を声高に謳う会社は何だか胡散臭い。

もし、全ての会社が社員の人生を思い、金銭的にだけでなく人としての豊かな人生を歩むことを尊重するような会社であれば、それは結果的に豊かで幸福度の高い社会を生み出すことになるのではないだろうか?そして、働いている人たちが自身の仕事が他の人の人生にどう関わるのか、何を与えられるのかということを考えるゆとりが生まれれば、「自分は社会に必要とされない人間だ」と思い悩む必要もなくなるのではないだろうか。誰かが自分の人生を思ってくれるように、自分もまた誰かの人生を思う、仕事がそんなものになったらいいと思う。そこには労働に対する”敬意”と同時に人に対する”敬意”がある。

誰かの仕事に対して”代わりがいる”とか、”誰でもいい”という人がいるなら、その人がやればいい。その「誰か」の必要性は小中高大の色々な場面で実感してきたはずだ。
「誰か」がいなくて学級会が長引き、「誰か」がいなくて帰宅が遅くなったりしただろう。そして、ありがたい「誰か」が名乗りをあげたとき開放感に浸ったり、胸を撫で下ろした経験が誰しも一度はあるだろう。その他大勢の人たちは、「誰か」を支える立場にこそあっても「誰か」を見下したり、蔑ろにする立場にはない。そして「誰か」はその他大勢の人たちを頼っていい。

私が言っていることは理想かもしれない。それでも、日本の就活や企業体制はどこか常軌を逸している気がしてならない。

先日、人事のパワハラで入社前に自殺してしまったという新卒のニュースを目にした。

 就職が内定している企業の人事課長からパワーハラスメントを受け、大学4年の男子学生(22)が入社2カ月前にみずから命を絶ったとして、遺族の代理人弁護士らが9日、記者会見した。人事課長は、入社時の配属への決定権をちらつかせながら、内定者でつくるSNS交流サイトに毎日書き込むよう強要していたという。会社側も取材に「行き過ぎた行為があった」と認めた。
『内定者にSNSで「辞退して。邪魔です」 入社前に自殺』
2020年4月9日 朝日新聞デジタル

私の親友も新卒で4月から働き始めたが、もともとやりたいと思っていた仕事でもなく、職場環境が辛いということも相まって、毎晩泣いているという。
3年は我慢しようと思っていたが、このままだと死にたくなってしまうので1年以内には転職したいと話していた。

学校という、ぬくぬくとした青春を抜けてからは、何十年も、ずっと生きていくために働かなければならない。
今いる場所で?人事や上司に怯えて?会社を辞めたら周りから浮いてしまうのでは?社会のはみ出しものでは?そんな風に考え始めたら死にたくなってしまうのかもしれない。
違う、違うよ。逃げ場は沢山あるし、世界は広い。会社は山ほどあるし、その気になれば起業もできる。今いる場所を離れてもあなたはあなたでいられる。

社会のはみ出しもの?落ちこぼれ?私は就活で2社しか受けてない。
何になりたいかもまだわからない。耳障りの良い言い方をすれば何にでもなれる。
でも、私が私を殺してしまったら何にもなれないしもう何にも感動できなくなってしまう。

私は、自殺が遺された人や周囲の人生を変えてしまうこと、彼らがどれだけ辛いかということを身近に知っているから自殺には反対だ。私自身、その辛さの影響を受けて生きてきたから。

でも、あなたの”消えたい””死にたい”という気持ちを否定するつもりはない。
「死にたい」と言うだけで楽になれるかもしれないのに、それを誰にも言えない辛さを知っているから。あなたと同じではないかもしれないけど、辛い気持ちに寄り添うことはできると思う。一晩中「皆んなの記憶を消して死んでしまえたら」「シャボン玉が弾けるように消えることができたら」と考えたり、怖くて刃を引けなかったけど、カッターを握ったことがあるから。

でも同時に、不安だし苦しいけれど、能動的でいれば何かに出会えるし、何かになれると思っている。立ち止まって、少し休んで動けそうかもしれないと思ったら動き出せばいい。だから、どうか死なないで欲しい。

少しだけ私の就活の話をすると、上記のように私はあんまり真面目に就活をしてこなかった。会社説明会をすっぽかして映画を観に行ったこともある。

私は就活を始めてからずっと"人事なんて"と斜に構えていた。それでもやる気の起きた日に行った就活イベントの中で、素敵な大人に出会えた。
その人は、どこかのIT企業の人だった。私はみんながスーツを着てキチッとした格好をしている中、大好きなBUMP OF CHICKENのリュックを背負って私服でうろうろしていた。
イケオジ、というほど年上には見えなかったがダンディな雰囲気の人だった。
「ライブとかよくいくの?」「BUMP好きなの?」といった何気ない会話の中で多分こんなことがしてみたい、といった話を少ししたのだろう。
その人は、「やりたいことがあるならやってみたらいい。」と言った。それから「歳をとると、失敗したときのダメージが大きい。だから若いうちにやっておいた方がいい。大人は2年後、3年後のことを考えろっていうけどそんなものは分からないよ。俺にも分からなかったしね。それにそんなものは考えても大体外れるから。」
なぜだかその言葉がひどく嬉しくて、会場を出たあと、思い返して涙ぐんだ。
就活文化は嫌いだが、この人に出会えただけで就活をして良かったとも思える。
何事も行動して、触れ合ってみなければ分からない。

そのあとウェブデザインに興味を持ち、今はその勉強をしている。そろそろ卒業制作に入るのでポートフォリオができたら、職探しをしなければならない。

余談だが、私が就活をちゃんとしていないことを知ったバイト先のエリアマネージャーは、飲みの席で冗談めかして「みんなが内定を取り始めた頃に不安になるよ〜」と言った。
あれから1年ほど経ったが、就職をしていないことに関して不安も後悔もない。それよりも、情熱を傾けられるものが見つからないことの方が不安だ。やりたいことは何となく見つかっても、夢や目標はなかなか見つからない。それはちょっと不安だ。

最後に、就活や就職に不安になって焦っている人がもしこの文章を読んでくれているなら、私が大学の先生にもらった言葉をお裾分けしたい。
卒論発表で卒論の副査読を担当してくださった先生に、将来について聞かれた時のことだ。
その先生とは1、2度授業を受けたくらいの関係で、とても親しいという仲ではなかった。世の中のレールに乗っていないという罪悪感を少しだけ感じながら、就職をしないこととウェブデザインの勉強をしていることを話した。
先生は頷きながらゆっくりと言葉を紡いだ。

「あのね、ゆっくりでいいんですよ。今の若い人はどこか焦ってるからね。でもね、そんなに焦らなくていいんです、ゆっくり探していけばいいんですよ。」

ああ、私が将来について一人であわあわしていることを許容してくれて、それを見守ってくれる大人もいるんだなと胸が暖かくなった。

この記事が参加している募集

#就活体験記

11,840件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?