伏流水
超久しぶりっす。 久しぶりにCLANNADの話ができたのでここに書きます。 18話。汐が花畑でずっとおもちゃ探してて、朋也が祖母とお話して帰ってきたところ。 朋也は何にハッとしたんだ。 汐の「パパが」って言葉に反応しましたね。 朋也が父親として生きると決意した瞬間でした。 パパは1つだけ。汐の気持ちも1つだけ。 汐にとっての気持ちがパパと反応する相手も朋也一人だけ。 あなたがあなたである意味、というか、自分が汐にとって何を与えればいいのか、自分がどんな存在なのか知り、
狂ってる、とか、頭がおかしいという言葉は、全くおかしくない。 ある程度おかしい人はいるけども、そういう人は決まって「対話」ができない。 「対話」は、自分なりに言い換えれば、自身の価値観を限りなくなくしてできるだけフラットに、相手を受け入れる姿勢を持ちながらも、自分の意見を限りなく自由に話すことだと思う。 資本主義社会とか、現代社会とか、合理的なものとか、社会性とか、自己責任とか、社会がどういうものか、一概に言えず、そこに存在する人間の問題によって、多様性に飲まれていて一概に
物騒ではなかった。 私は文字通りお母さんに殺された。 小学三年生の初夏。 僕は母に幸せを奪われた。 いや、奪われたのではない。 あの日、僕は一生幸せなど感じないと誓ったのだった。 僕は散々母の加害をあげつらった。 二五歳になる今年まで。 僕は、母にとってもともと何もしゃべらない息子だった。 でも面白い動きをして、面白い顔をして、母を笑わせるのが好きな息子だった。 変だから絶対に人前ではしなくても、自分の踊りで人を笑わせるのが好きな息子だった。 僕は発達障害かもしれない。
僕は常に手首を、いや、手を輪切りにしたくなる。 手を、指を 自分のこの小さな手を 男性にしては小さくて女性にすら負けるこの手を。 僕は支配から逃げてでも逃げた先はまた違った形の支配。僕は自分が否定した自分を埋めるためのこの支配を好んだ。 何もできなくなった。 ボッジというキャラは、耳と口が不自由だ。 言葉が話せない。 僕は手首を傷つけるのではなく、手首から後に生えた器を切り刻みたくなる。 刻んでシュレッダーにかけるイメージだ。 そうしたら次々に、自分が消えていって、段階を
アニメを見ていて、眼前でどたばたコメディが繰り広げられる時、それを信じてもいいかな、という、信念とか無意識の大きさが、めちょめちょそこにある気がしてとても好です。 現実は一つじゃないということを教えてくれているような気がして。 生きるとは、自分の現実を生きることであって、他人の人生を生きることじゃない。 でも、それを決めるということは、人を愛せないのかもしれないという恐怖に繋がっていました。 でもそんなことないと強く信じなきゃ、やってられません。 いつまでもこのまま
胸に刺さったナイフを抜けずにいるの 抜いたその瞬間飛沫を上げて涙が噴き出すでしょう? 封じ込められていた感情の良い比喩だと思った。 我慢しすぎて噴火してしまう感触や、その様子をもう自分ではどうしようもないってことをわからせるような言葉だと思った。 * 明日になれば治まるような胸に突き刺さる棘の行方 知らんふりして見ないようにして気付いたら戻れないような気がした 昨日も同じこと考えて結局こんな夜過ごして それでも嫌な感じじゃなくて きっと誰も知らない言葉が今僕の中で渦を
何に執着するかというと、恨みなのだと思う。怨みだ。 苦しめたい。苦しめたくて仕方がない。 なぜ自分が強いられた不公平感を不公平で返さなくてはならないのか。 自由にはなりたくても許せん。絶対に。 という考えから、もし自分が自由になるなら、俺は人を殺すのだと思う。 もちろん殺したくはないけど、本当に加害したい。 それは文章だから言えることが許されるような話で、本当は書いてもいけないと思う。 でも実際はそんな話にはならない。 ちゃんと許すか和解するか、復讐という名の和解でもいいのだ
そういえば、お母さんのお母さん、つまり僕のおばあちゃんは、戦争中に生まれた。お母さんのおばあちゃんは、戦争の真っ最中に生きた。 そう考えると、家族間の連鎖、考え方、育て方の変遷は、これで当たり前のように思える。 むしろ、俺はなんて酷いことを言ってしまっていたのだろうとさえ思う。これは恥ずべき罪悪感で、正当なものだと思う。苦しくない罪悪感など、洗脳の最たるものだけど、それでも、僕が母を責める理由にはならないんじゃないかと思う。 僕は、僕と同様に生きる仲間たちと、時代を作ってい
早稲田メンタルクリニックの益田祐介さんがすごく先進的だと思いまして紹介させて頂く運びとなりました。 紹介したいのはこのツイート。↓↓↓↓ この方は、自衛隊にいた経験をもたれていらっしゃる精神科医さんなのですが、YouTubeで様々なメンタルの情報を発信していらっしゃいます。 とても包括的な視座をお持ちで、語られる情報の筋がとても安心信頼できるものとなっております。 メンタルの疾患は、様々な問題が複雑に絡み合い、今すぐ変えることは難しいです。 でも、人の優しさを心で感
リプロダクティブ・ヘルスの意思に基づいて。 考え直してみようと思う。 非モテの備忘録。 僕たちは誰のために性器を持っているのか。 誰が性的魅力をジャッジするのか。
僕()はイケメンだ。 そう言われることに自身がつくくらいイケメンと褒められ喜ばれてきた。 では、なんでもしていいのか、そういうことではない。 その備忘録。
岡田尊司先生によるこの本から、患者の一例と勝手な考察を紹介。 ※p14ケースで見る境界性パーソナリティ障害②より B菜さんの症例。 1歳の頃両親が離別。 祖母に預けて働く母 生活苦 祖母から母への文句が苦 3歳の頃旅館の仲居で住み込み勤務 若い母は酔って帰宅、一晩帰らず、B菜は帰ってこないかもしれない母という存在で不安で泣きながら寝る B菜小学校 職場近くのアパート賃貸。母親の彼氏来る。 父親知らないB菜 「おじさん」になつく。 b菜小5。おじさんによる性
全然紙に自分の気持を書き殴ることがなくなった。 以前との変化はそれだけど、それが変わったのは”それ”が変わったからで。 うーん。良い面の変化として捉えるんだけど、なんか自分らしくないような。 面白いのは、きっと吐き出し続けている自分なのではないだろうか。 何に?何を吐き出しているのかは知らんが、なんか、出して気持ちよくなりたいという欲求が根根にあるから僕は変態なんだと思う。変態でいいむしろ変態といけ好かない奴らの間をうろうろしていることが。
神経症という言葉が自分に当てはまるのだ。 すごく腑に落ちているような。 なんかね、それがすごく、苦しいことなんだってわかって、たぶん、これさえ、楽にしてしまえば、あとは自分の人生がどーたらこーたらいえい!って感じになるんだと考えてる。 上手くいくし、余計なこと気にしたらひどい目に合わされる。逆にここには以前なかったものがあると思う。 幸せとは何かわかりきっていると思う。
ずるい…人をだしぬいて自分が得をするような、正しくないやりかただ。わるがしこい。こすい。(Oxford languegeより) 「人をだしぬいて」って点にすごく苦しめられた。 なぜなら、それが、生き方そのもののような気がして。 今までで気づかなかったことに嬉しさを。でもそれ以上に気にしているのは、その言葉一つで、何かも、いや、何もかも移ろってしまうような気がして。 「ずるい」から抜け出すことが、今後の自分の辛さと葛藤の種になることを祈っている。 人を愛そう。 人、
非行に走る少年になるのはなぜ…そっから大人になるためにはどうすればいい非行に走る子供がいる。それはなぜなのだろう。 大人になるにあたって、いや、人はなぜ成長するのだろう。 何もせずに育てられた子がなるのは、世間のイメージするような”大人”ではない。 世間がイメージするようなイメージ像から外れた大人なんて五万といる。 それは―引きこもり―と名付けられたり、―ニート―と名付けられたり、「犯罪者」と区切られたりする。 じゃあ、大人って何? つまりは、年をとっただけじゃ大人