では何が憎い

何に執着するかというと、恨みなのだと思う。怨みだ。
苦しめたい。苦しめたくて仕方がない。
なぜ自分が強いられた不公平感を不公平で返さなくてはならないのか。
自由にはなりたくても許せん。絶対に。
という考えから、もし自分が自由になるなら、俺は人を殺すのだと思う。
もちろん殺したくはないけど、本当に加害したい。
それは文章だから言えることが許されるような話で、本当は書いてもいけないと思う。
でも実際はそんな話にはならない。
ちゃんと許すか和解するか、復讐という名の和解でもいいのだと思う。でも、ダメだと思う。ではどうするんだろう。
例えば、子供だから不適切な養育が許されて、虐待されたとしても、許して自分の人生を生きるのは大変だ。でもできないことじゃない。もしできないなら、自分の生殺与奪の権をまだ与えている。
でも、身体的虐待ならそいつを殺すことで次に行けるんじゃないかと思ってしまう。
俺は殺すという言葉を使う時、何を思っているんだろう。
殺すことに含まれる暴力性は、俺の場間例えば、踏み躙りたい、倒れた相手を蹴りたい、ボコボコにしたい、自分の被害をを体験させたいのだと思う。本当に嫌だったから。
でもそいつは忘れているから、今更責めたところで本当の気持ちにはならない。ならば、それを分からせるためには、成長して力関係が逆転した今俺がこの手で解らせてやろうと思わないまでもはないのだ。
わかってほしい。
気にしないこともできる。
ただ、それが親というものだろうか。
親ならばしっかり愛して欲しかった。
この場合の愛は、気持ちに嘘をつかず真実として受け入れ、向き合うことだ。

例えば、子供が転んだ時、痛かったねと寄り添う。そんなものだ。

たったそれだけが、それは与えられないものと諦めて死ぬことが是だろうか。

もし諦めるなら、どんな利益が自分にあるのだろうか。報いがあるのだろうか。
最も辛いものを受け入れたら大人になれるだろうか。

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