見出し画像

21歳の誕生日に


いつからだろう。人が怖くなったのは。
いつの間にか前を向けなくなった。歩いている時も、自転車に乗るときも、足元しか見られなくなった。人の家に行っても、地べたに座布団と机があったことしか覚えられなかった。外にいるときも、家で食卓を囲むときでさえ、人の視線が怖くてスマホから目が離せなくなった。病院の待ち時間や電車に乗る時には目を閉じてしまわずにはいられなくなった。普段はメガネの枠で視界を狭めるか、近くばかり見る所為で落ちた視力0.1もない裸眼じゃないと落ち着かなくなってしまった。人と話すときにはメガネをかけていようがいまいが、いつもメガネをかけ直す仕草で人の視線を遮る癖が付いてしまった。相手の顔が見られなくなって、顔を見てはいけないと潜在的に思ってしまって、人の名前と顔を一致させるのが病的に苦手になった。

もう一つ。いつの間にか他人に嫌われることに異常なほどの恐怖を感じるようになっていた。人の言うことには従順でなければならないと、私の中の何かが命令して何も断ることが出来なくなってしまった。今の気まずい空気感を抜け出せるのなら手段は厭わず、思考が停止したまま相手に従うようになってしまった。あるときは自分の2倍の年齢のおじさんに“同意あり”で襲われた。別にお金をもらった訳じゃない。その様子を動画にも撮られた。あるときは明らかにガラの悪そうな人に防犯カメラのない暗いところで、わざわざ手数料220円をかけて引き出した40万円を“自ら”手渡した。後から考えるとアホらしいことだが、そのときは相手に嫌われないでいることに必死だった。たとえどんなに自分がその人に対して嫌悪感を抱いていても。


これから私が二十歳になってから今に至るまでの経緯を綴る。


きっかけはただの失恋だった。二年間、片思いを続けてきた人だった。
「少しでも自分を肯定してくれる人に出会うとすぐに依存してしまう。」
こんな今の私を思うと、その人は本当に純粋に好きになった唯一の人だったのかもしれない。彼のことは、ちゃんと性格で好きになった。彼がイケメンだからか周りには顔で好きになったんでしょとか言われるけれど、本当は顔はそれほどタイプじゃなかった。彼の他者への気遣いや優しさに惹かれていたのだ。私のことを受け入れてくれるからじゃない。人として尊敬していたし、彼のようになりたいと思っていた。そんな彼に彼女が出来たことから私の地獄は始まった。

やけになった私は男遊びに走った。彼に最後に会った時に言われた「彼氏が欲しいなら自分から行動しないと」がどうも引っ掛かって、マッチングアプリを始めた。そこでファーストキスと処女を捨てた。その代わり、そこで出会い、失恋の反動でどっぷり依存していたセフレに捨てられた。今までの人生、そこまで距離が近くなった人に振られたことなんてなかったから、どん底に落とされたような気分だった。短期間で二度も失恋をした。
それでも負けたくなかった。泣いてしまったらもう立ち直れない気がした。だから気分転換に散歩をしたりして、出来るだけポジティブでいようと努めた。

そのわずか10日後のことだった。母が台所でその小さな背中を震わせていたのは。普段は夫婦喧嘩するところなんかほとんど見ないのに、母の父への不満が爆発したみたいだった。そこで「二十歳になったら私の秘密、教えてあげるって言ったよね」と言われた。うん、なに?そう聞き返すと、母の過去を打ち明けられた。衝撃的だった。外国人の母は11歳で医療専門学校に飛び級入学、15歳から4年間医師として勤め、給料をもらえたことは一度もなかった。それにはどうも政府が関わっているらしいが「あなたにはまだ早いわ」と言って詳しくは教えてくれなかった。葛藤を抱えた母は、国も、大好きだった医学も捨てて19歳のときに渡日した。医学に関して選択的に記憶喪失になってしまった母は、日本に来てキャリアウーマンになろうと決意した。しかし私という子供が出来て、その夢さえも諦めることとなった。父と結婚して、それがこの有様だということだ。いつも母は医学に対する憧れを口にしていたが、医師になる努力をしなかったのではなく、医師という道を諦めざるを得なかったのだということをここで初めて知った。これを聞いて私は「私なんかが父との間にできた所為だ」と、母の過去に重い責任を感じるようになってしまった。

――自分がこの世界に存在するべきではないことを自覚しながら毎日を生きるのがどれだけ辛いかわかりますか。私が生まれてきたせいで不幸になってしまった、いや、現在進行形で不幸な人がそばにいるのを見ていて、普通に生活出来ると思いますか。自分を不幸にした私を、ここまで愛情を込めて立派に育ててくれたことを知りながら、頭が上がると思いますか。――

これに元からあった、容姿、性格、勉強に関する劣等感も相まって私は鬱の闇に落ちることとなった。
それからはほとんど毎日泣いてばかりだった。母に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。母の感情のはけ口になったり、八つ当たり先になったりすることも増えた。本当は昔から人の悪口を聞くことに拒否反応が出るのに、身内に対する悪口を聞き続けた。でも「私がいないとこの人はダメになってしまう」という共依存的な考えで、私は逃げたくても逃げられない状況下にあった。いつしか母のために生きるようになった。母のことだけ考えて、自分の生活は最低限のものにして、私の世界は母中心で回るようになった。友達とはほとんど遊ばないし、母との旅行ばかり計画して、そのためにわざわざ大学と部活の休みをとらせてもらった。

さらにその時はまだセフレへの未練もあった。ケジメをつけようと思って一度彼の家に行った。そしたら避妊具なしで襲われて必死に抵抗した。何とか止めたが、まだそこまで経験がなかった私は、相手が経験豊富だったり、学校の授業で丁度その時期に学んでいたのもあったりで性病やら子宮頸がんやらが怖かった。怖くてそれからしばらくはトラウマや不安でいっぱいだった。

おまけに、周囲とのギャップに耐えられなかった。私は恋も人間関係も家庭も、何一つとして上手くいっていないのに、周りの子たちは自分を愛してくれる彼氏もいるし、学校に行けば話せる友達もいるし、(表面上だけでも)幸せそうに見えた。なぜ私だけがこんな辛い思いをしているのかがわからなかった。私は何か悪いことをしたのだろうか。そう天に問いかけ、とりあえずインスタグラムのアプリを消した。

その後度々夫婦喧嘩は起こった。ついこの間までは腕を組んで歩く程にラブラブだったのに、二人の共通の趣味がきっかけでお互いを蹴落とすような発言ばかりになった。今では受験生の妹がいるときでさえ言い合い、殴り合いをしている。私はいつもどんなに忙しくても喧嘩を止めに入った。睡眠不足の状態で学校の課題とバイトの予習に追われていた上、翌朝早くから授業があった日だって19時から夜中の3時まで母親のそばでその潰れてしまいそうなくらい華奢な身体を抱きしめた。
母親はストレスで精神病になった。同じ言葉を繰り返したり、幻覚の中の何かを探し出したり、突然凶器をもって暴れ出したり。手首には自傷の痕が何本もある。私には絶対に手を出してこないのはわかっていたから、大体そういう時は私が凶器を取り上げて抱きしめてなだめた。とはいえ、「来んな!」と目を見開いて凶器を向けられたときの光景が今でも目の奥に焼き付いて離れない。

そんなわけで私は家にいると常に母の顔色を窺っていた。そのせいか、少しでも無口になったり真顔になったりすると、とりあえず機嫌を取った後部屋に駆け込んで泣き出してしまうくらいに人の怒った顔、不機嫌な顔が怖くなった。
他の人に対してもそうだった。ちょうどその時期、部活では幹部になった。私はどうしても人を怒れない。体育会系であるうちの部活には、理不尽にでも後輩を怒らなければならないという慣習があった。それが出来なかった。ある日マルチタスクで頭がいっぱいいっぱいだった時、幹部として怒っていないという理由で部長に物凄い剣幕で怒鳴られた。人が少しでも機嫌の悪そうな顔をしているだけでも怖くて怖くてたまらない私に、直接怒りが向けられただなんて耐えられるはずがなかった。睡眠不足と日ごろの鬱状態が続いていた私のメンタルはそこで崩壊した。混乱して目から溢れ出たものを止めることはものの数時間では不可能だった。翌日には先生たちも皆気づく程に目が腫れていた。これが、私が部活を潜在的に拒否するようになってしまった原因だ。

私は妹のことも心配だった。受験生であり、反抗期でもあった。母との対立の度に部屋の壁は落書きだらけになった。「お前のせいで」「何も知らないくせに」「普通の人生を送りたかった」そういった言葉が並べられていた。それを見た母も当然気に病まないわけがなかった。だから、母は「彼女を信じる」と言う癖に「あの子はスマホばっかりで勉強なんてしてないでしょ」とよく本人がいるときさえも言うようになった。
妹の勉強については責任感を持たずにはいられなかった。塾の先生(私もその塾で働いている)も友達も、妹が宿題をこなさないことを私に言って咎めた。私にばかり何度も言うものだから、だんだん自分がしっかり管理してあげないせいなのだと思うようになった。妹だけでなく私のことも否定されているように感じた。と同時に、愛する家族の悪口を言われ続けたことで全員が敵のようにも感じた。母にも妹の勉強の管理を暗黙的に押し付けられていた。「もう私は何を言っても彼女は言うこと聞かないから」と言って、私が口を出すように促した。私は受験のとき自分で何でもやっていたのに。妹への過保護に疑問を抱いていた。いや、過干渉とでもいうべきか。妹にみな期待しすぎて逆に負担を生み出していた。妹にとって勉強とは、ただの苦痛に成り代わってしまっていた。
ある日、普段は泣かない妹が泣いた。初めて胸の内を明かされた。
「中学受験の時にお姉ちゃんより上のレベルだったからって『あなたはお姉ちゃんより賢いんだから』っていつもみんなに期待されるのが嫌だ」
「誰でも〇大いけるわけじゃない、頑張っても無理なんだもん」
中学1年生の時からそうだった。親も私も、妹に期待しすぎていた。『あなたは賢いんだから』そう、それが口癖だった。賢いのに努力をしようとしない。そういつも責めた。自分が頑張ろうとしているときにもっと頑張りなさいと言われることがどれだけやる気のそがれることか私は知っているのに、勝手に私と同じ大学学部に入れるように勉強しなさいと、親に加担して妹の負担を増やしていたことを物凄く後悔した。
それに夜中の両親の喧嘩も加わった。大人の私でさえそれは泣くほど辛いものなのに、高校生の、それも昔から家族のかすがいのような役割をしていた妹にはどれだけ心に穴をあけるものだったのだろうか。二階で両親が喧嘩をしている時は、たまに一階に降りてきてテレビを見ていた。それは、いつも決まってジブリの『魔女の宅急便』だった。

私は父の心も気にかけていた。毎回母に同じことで責められて、でも解決できなくて、またボロクソに言われる。確かに父は自分のことしか考えていないような性格だ。でもそれは思うに祖母の遺伝と教育のせいなのだ。純粋に人の気持ちがわからない。はたから見たらただの悪者に見えるが、本人は無自覚なのだ。そんな人を責めて、自分はなかなか言い返せなくて溜め込んで、いつか壊れてしまわないかが心配だった。それだけじゃなかった。私にはどうしても母の味方をしなければならないという使命感があった。だから私は、心の中ではごめん。といいながら、彼に冷たい言葉を投げ掛けたことが何度もあった。その罪悪感で何度泣いたかは覚えていない。

大学でも大して友達はいなかった。おまけに、精神ズタボロだったために人と話す気力もなく、みんなと離れて一人で行動している時期もあった。誰とも話さず帰ることが多かった。私にわざわざ話しかけに来てくれるような友達はいない。明るく振舞ったつもりだったのに、大学デビューには失敗した。小学生のときからそうだった。結局頑張っても私と関わってくれる人なんていない。みんなすぐに仲良くなってグループを作っていくのに、どこにも属せない。ある程度全員と楽しく話せるような仲ではあるのに、いざ暇になったとき気軽に誘える程仲の良い友達は一人もいない。どうして私は普通の人が出来るようなことが出来ないんだろう。
部活でもそうだった。どんなに気を遣っても先輩にも後輩にも同期にも好かれなかった。私は存在していないかのように時が流れていくのはいつものことだ。誰も私を気にかけてくれる人はいなかった。この疎外感に加えて、あの事件から無条件に拒否反応が出るようになってしまった。訳も分からず話し合いの最中に涙が出てくることや、部活直前に過呼吸になって道端に倒れ込んだこともあった。でもそんなに部活に嫌な部分はないと思っている。それなのに、怒鳴られてからどうしても抵抗が感じられてしまうらしい。これに関しては自分でも自分が理解できない。
こんなわけで、私にはどこにも居場所はなかった。

おまけに、長年抱いてきた周りへの劣等感がもう限界に達していた。自分の存在価値が見出せなかった。勉強がちょっとできるぐらいしか取り柄がなくて、容姿も性格も、何もかも下の下の私には。誰にも愛されたことなんてない私には。分かんないんだろうな。普通に生活しててもまともに恋愛できる子たちには。可愛くて、性格も明るくて、男子と自然にコミュニケーションが取れるようなあの子たちには。何も心配しなくても自然に恋愛が出来て、別れてもまた次の彼氏が出来て。一生幸せな恋愛が出来ないかも知れない、なんて焦る私の気持ちなんてわかんないんだろうな。さっぱりしてるあの子たちには、人一倍、いや何倍も恋愛欲が強い私の気持ちなんて。
恋愛だけじゃない。私は何をするにも人の3倍ほど時間がかかる。代表的でわかりやすいのが食事とお風呂。私より食べるのが遅い人は見たことがないし、お風呂は2時間かかる。でもなぜこんなに時間がかかってしまうのか分からなかったが、最近気づいたのは、ご飯は食べるときの音を気にしすぎてしまうから。お風呂やその他諸々は、他のいくつものことに気が散ってしまうから。遅いのは理解もだ。周りは一瞬で理解するようなことが私には何度も繰り返し説明してもらわないと分からない。
私は勉強に関する劣等感も甚だしかった。私は使う言葉が稚拙だし自分の考えなんてないから、授業での発表など先生がいるときの発言が本当に苦手だ。
どれだけ親孝行をしようと頑張っても、家事をこなしたり料理を頑張って覚えたりしても、いつも怒られるのは私で、いつもまず一番に構ってもらえるのは妹だ。私のことなんて見えているのか分からない。私のことを、良い大学に行ったから誇りに思っていると度々言ってくれるけれど、私の学歴を取り除いたら何も残らないんじゃないかとすら思ってしまう。友達に関してもそう。私の学歴を見ている子と、コミュニティ的に関わらなきゃいけないから仕方なく関わってくれている子が大半なようにさえ思えてしまう。飲み会や遊びに行っても私は空気扱いだ。目上の人にだって、いつも自分なりに気を遣っているつもりなのに、愛嬌がないから嫌われてばかり。

“私の存在価値はあるのだろうか”

何度考えたことか。誰にも必要とされていないじゃないか。確かに私がいなくなったら悲しむ人は一定数居てはくれると思うが、初めから私がいなかったら?私がいなくても世界は何も変わらなかっただろう。ちょっとこの面倒くさい女に関わる機会が減った、ぐらいの影響しかなかったんじゃないだろうか。

その劣等感は母と比べることによっても増幅された。
母と私は正反対だ。私にはどうしても努力が出来ない。昔、塾に行っていたときの宿題は、わざとじゃないのにどうしても終わらなかった。ダイエットだって、続いたと思っても半年、またすぐにリバウンド、が何度あったことか。今の部活だってそうだ。同期のみんなは毎日のように練習をして、それでも足りないと言っているのに、私は忙しいからと理由をつけて自主練なんてせず、初心者の後輩なんかよりも弱くて、でもそれでいいかな、とか勝手に満足している。いつだって、本当はダメなことに気づいているのに、改善しようと努力することが、どうしても出来ない。母はこの上なく努力をする人だ。私は母以上に努力に忠実な人を見たことがない。なんだって、やると決めたことは徹底的にやる。学生時代から常に真面目に勉強に取り組んでいた。日本語の勉強だって、大学受験の勉強だって、バイトが深夜まであるのに、中高に通っていないから中学の数学から分からないはずなのに、たった1年で日本語検定1級とそこそこ有名な日本の私立大学の合格を手に入れた。常に成績はトップで給付奨学金をもらいながら即就職、私が生まれる直前、まだ20代前半にとある会社の子会社の社長を任せられようとしていた(私がお腹に宿ったことで、母はこの仕事を断ったのだが)。それからいくつか点々とした仕事や今の仕事は大学の専門とは関係のないものだが、毎日本を読んで、YouTubeで動画を見て、必死に勉強している。スマホを勉強以外の娯楽目的で使っているのをほとんど見たことがない。せいぜい友人と連絡をとるぐらいか。スポーツ(テニス)だってそうだ。私より始めたのは10年ほど遅かった。しかし毎日、仕事がない時間は昼ご飯も食べずテニスに明け暮れている。毎日YouTubeでテニスのコツを学んでいる。そのおかげで最近はものすごく上達しているらしい。それでも、もっともっと上手くなりたいと、努力は増していく一方だ。他にも言語学習など、様々なことに対して努力を惜しまない母だが、正直、どこからこのモチベーションが湧き上がってきているのか全然理解できない。
このように書くと、真面目なメガネの優等生っぽい姿を想像したんじゃなかろうか。でも実際は違う。母はこの上なく明るい。いつも元気で周りを笑顔にする。人当たりも良くて、よく好かれている噂を他の人から聞く。決して人前で気分の悪くなるような話をしないし、純粋に人を褒め、尊敬する。嫉妬心がどこにもない。その天真爛漫な性格と、純粋な心を、私は手に入れたかった。私はというと、誰かに話しかけられなければ自分の殻に閉じこもっている。変にプライドが高くて、出来る人、幸せそうな人を羨ましいなと妬んだりすることだってある、ドロドロな心の持ち主だ。
考えていることだって、一枚、いや、何百枚も上手だ。いつも悩んでいる人(私や妹)を慰めるとき、話が上手すぎる。全て理にかなっていて、例えも上手くて、まるで本からとってきたかのような解答を毎回くれる。とはいえ聞いている限りもちろん母自身が考えていることだ。この人の聡明さを私も兼ね備えてみたいと何度か願ったことがあるほどに、彼女は賢く、優しい考えを持った人である。
見た目だってそう。自慢になるかも知れないが母は年の割に若くて、二重もぱっちりしていて、鼻も口も輪郭も、すべてそこそこ整っている。運動のおかげもあって筋肉は十分にありながら痩せているし、私の理想のスタイルだ。それに対して私は、頭の形も、鼻の形も変だし、太っているし、一重だ。
なぜこのような母親から私みたいな出来損ないが生まれてきたのかと思ったが、全部生まれてからの私自身の行動が良くないんだと結論づいた。私の母は良く世話をしてくれる人だった。それに私は甘えてしまった。結果、自分の意見のない、教科書の答えを並べることしか出来ない薄っぺらい人間が作り上げられてしまった。こんな自分になったのも、甘えてしまった自分の責任なのだ。

そんな心の疲労は身体の方にも影響した。色んな病気にかかった。病院なんて一年に一回行くか行かないかぐらいの健康体だった私が、今年は毎月のように違う科の病院にかかっていた。どれもストレスからくる病気ばかりだった。途中から本当に飽き飽きしていた。症状は辛いし、医療費だって沢山かかる。時間も取られる。元気だった頃が羨ましかった。
例えば、突発性難聴や日和見感染症、睡眠障害に苦しめられた。
難聴になった時はびっくりした。身の回りのすべての音が増幅して聞こえた。聞こえ過ぎるからはっきりとした音として聞こえないのだ。特にひどかったのが人の喋り声だった。お盆で大きな病院しかあいていなかったから、高い医療費を払って検査してもらいに行ったものの、長い待ち時間の中看護師さんが患者さんを呼ぶ声や周りの話し声が苦痛だった。その日は繁華街に行く予定があったが、交差点で待っていると沢山の人の声がコンピューター音のようにピコピコ爆音で再生され、耳をふさぎたかった。考えてみれば、街中には見た目は周りと変わらない人でも、難聴や他のもっと重い病気を患っていながら何ともない顔をして頑張って生きている人たちもいる。そんなことを知ることができた。
日和見感染症は薬でもなかなか治らないし治っても一週間で再発した。日和見感染症は免疫力が低下していないと起こらない。その間、周りには感染者は誰もいないし大して出掛けてもいないのにコロナにも感染した。
日中突然あり得ないほどの眠気に襲われることが増えた。ひどいときは膝から崩れ落ちて手足に力が入らなくなり、20分程そのまま動けなくなるという状態が続いた。金縛りは日常茶飯事。その度に息が出来なくて死んでしまうんじゃないかと苦しみもがいている。

いい子だね、ってよく言われる。私はいい子なんかじゃない。典型的ないい子を演じている。いい子だねってわかって欲しい。純粋で、守ってあげないと心配だって思って欲しい。こんなにいい子いないよって認めて欲しい。誰かの一番になりたい。そう、私は自分を肯定してもらうだけのために自分をすり減らして“ピュアないい子”の猫をかぶっている。勉強を頑張ること、みんなのために色々企画したり雑用を引き受けたりすること、全部全部、よく頑張ってるね、いい子だねって認められたくてやっている。
真面目だ、と常に言われてきた。でも本当は真面目なんかじゃなかった。誰かに認められたくて優等生を演じていた。だから道を踏み外したりなんかして、誰かに心配してもらいたかった。気づいてほしかった。誰かに私の、私自身のことをちゃんと見てほしかった。“誰か”の視線を独り占めしたかった。

結局私は私のことしか考えてはいないのかもしれない。自分を見て欲しい、承認欲求の塊のただの自己中な人間だ。親孝行するのだって、そうすれば私は“親孝行な娘”として認めてもらえるからだ。優等生を演じるのだって、そうすれば私を何らかの利益の対象として見てくれるからだ。変な子のふりをするのだって、そうすれば個性のある人間としてみんなが注目してくれるからだ。理由は何だっていい。とにかく私だけを見てくれる人が欲しかった。でもそんなことをしても、作り笑いの裏にある私を見つけてくれる人も、辛いときに助けてくれる彼氏もいなかった。真面目だね、優しいねって、口では言ってくれても誰もそばにはいてくれなかった。

わたしは恐らくHSPという性質を抱えている。人の怒った顔が怖い。それで母親に振り回されている。母親の顔色を窺って、少しでも顔がこわばっていたら、わたしのせいだと思いながら何とか機嫌を取る。大丈夫だと安心できる状態になれば、自分の部屋に駆け込んで声を押し殺して泣いている。いつも自分の意思に反して人を傷つける言葉を放つ。ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で連呼しながら。どれだけの罪悪感に襲われていることか。それでもわたしはどんなときも母親の味方でいないといけないから、母親の望む暴言を家族に吐いている。いつも急いでお風呂を出たり、急いで早朝に起きたりして両親の喧嘩を止める。でもいつも愛されるのは自分勝手でわがままで、家族のことに無関心な妹だけ。妹にはどんな時でも優しく接するのに、わたしはいつも八つ当たり先になるだけ。中3のときも、高3のときもそうだった。わたしはお姉ちゃんだから。わたしがしっかり母親の愚痴を聞いて、母親の重荷を背負ってあげないと。受験期だってそう思ってずっと、ずっと、わたしの肩に荷物を増やしてきた。今は、精神病を、鬱病を抱えているのに、それすらも許してもらえない。「私はあいつのことで精一杯なのにあなたまで私に心配かけさせないで。あなたは未熟すぎる。大人なんだから泣いちゃダメでしょう。我慢しなさい。私なんてあなたの年には親に心配なんて絶対にかけないようにしてたよ。」そう責められてしまった。こう言われて、わたしが鬱だったからこんなに家庭が荒れたのかもしれない、と自分を責めずにはいられなかった。わたしは家族の前では鬱状態を悟られないように、いつも元気なふりをしていたが。母親は、私がどうしても泣いてしまったときは全て父親のせいにして「気にしないで、こいつが悪いだけだから、負けちゃダメ、強くなりなさい」と一時間以上も大声で私に父親の悪口を言う。何故そんなことをするんだと訴えかけてくる。私は父親じゃないのに。私が泣きそうになる原因は、いつも心が壊れる原因はあなたなのに。

家庭環境の変化と周囲に対する孤独から、わたしは売春という名の自傷でしか自分を救うことが出来なかった。それは寂しいわたしを助けてくれるものであり、同時にわたしの心を蝕んでいくものなのだ。
売春をやっている理由をよく聞かれる。学費を払ってて生活費が足りないのと、豊富な人生経験を積んでいる人生の先輩に様々な話を聴けるから。と、建前では答えている。向こうも、これがたとえ嘘だとわかっていても、ブランド物を買うためにお金がいるんだろうとぐらいに思っているんだろう。でも違う。私はお金をもらって生活費に回すわけでも、物を買うためのお金に使うわけでもない。私はお金を払ってもらえるような価値がちゃんとあるんだって、私にもリピートしてもらえるだけの話し方や振舞い方が出来るんだって、認められたんだって、それだけを理由に男と金に執着している。Tinderをしていた時に、可愛い友達に話を聞いた。その子はたくさんのイケメン、それも同じ大学で出会った人たちにデートに誘われて、ご飯も奢ってもらえて、紳士な対応をしてもらっている。それに対して私は、相手をアプリで探して、こんなにオシャレして、こんなに気を遣って機嫌をとって、体だって浪費して、それでもお金をもらえるどころかちょっとしたご飯でも誰も奢ってくれない。それほど価値のない人間なのかと思ってしまうのに耐えられなかった。だから、お金がもらえる保障がある売春を始めた。わたしなんかを可愛いと言ってくれる。わたしなんかでもわざわざお金を出して買ってくれる。自分の承認欲求を存分に満たすのにちょうどよかった。
一方で、わたしはどうしてこんな親よりも年のいったおじさん達と寝てるんだろうとか、みんなが青春している間にわたしはこんな世間に批判されるようなことをしていていいのだろうかとか、度々虚無感に苛まれる。バレたら人生終わりだというリスクで将来の私の首を絞めていることもわかっている。きっとこれから何年何十年後、ふとした瞬間に思い出して後悔することになる。売春をしている時は日常を忘れて自分の精神を回復させてくれるけど、じわじわとわたし自身を傷つけているのは間違いない。
それだけじゃない。わたしは男性依存症だから、今までの恋愛ではいつも勝手に執着して振り向いてもらえず病むことが多かった。年上はタイプじゃないし、流石におじさんなら大丈夫だろうと思っていた。だが、わたしの依存症はもう異常なまでのレベルに達していた。こんな人たちにまで過度に依存してしまっている。今は好きだと言ってくれるがすぐに飽きて捨てられちゃうんじゃないかと不安でしょうがなくなる。「捨てないで。」いつもいつも叫んでいる。親にもらえなかったと感じてしまった分の愛情を、男性に求めて、捨てられることを恐れて毎日生きている。ここにいてもいいんだよ、って私の存在を許してくれる人がいてくれたらなんて、無駄な期待をしてしまう。本当にバカだ。大バカ者だ。そう毎日自分を責めてはこの脳内報酬系の狂いを止められずにいる。

いつか私が母親の呪縛から解き放たれる日はくるのだろうか。劣等感を取っ払った人間になれるだろうか。男性に対する依存性を治すことは出来るのだろうか。

そう、これは私か20歳になってから、母親に叩かれ父親に捨てられそうになる21歳の最悪な誕生日を迎えるまでに、辛いことがあった夜に眠い目をこすって書き留めてきた日記である。途中で話が飛んでいるかも知れない。同じことを繰り返しているかも知れない。未完成なままでも私のこの一年の苦しみを誰かに聞いて欲しかった。

ここまで読んでくれたあなたに助けられています。ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?