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「悲しかった自分」と向き合うとき

大切な誰かが喜んでいると嬉しくなる。

大切な誰かが悲しんでいると辛くなる。

物事は本当にシンプルであり、シンプルな心でできているとわかっているはずなのに、私はすぐそれを忘れてしまう。

すぐに目の前の出来事や相手から目を逸らし、「悲しかった自分」に目を向けてしまうのだ。


「悲しい・苦しい・悔しい・遣る瀬無い・虚しい・寂しい」
こういうできれば避けたいと思ってしまうような感情と、親の愛情の記憶が私の中で結びついてしまっている。

私の親は私にかなり無関心で、子供の自分はネグレクトを受けたようなものだった。
だからこそ、親と繋がれたのは「悲しい・苦しい・悔しい・遣る瀬無い・虚しい・寂しい」という感情が巻き起こるような出来事ばかりだった。

大人になった今でも、傷は癒えていない。

それでも悲しんだり寂しがっている場合ではなく、時間もない。

過去を見つめ直すこと、ネガティブな感情と向き合うこと、ネガティブな感情に寄り添うこと、自分のものとして捉え直すこと。

ものすごくエネルギーが必要なことで、一人だと怯んでしまう、諦めてしまいそうになるけれど、それでも、どうやっても自分に必要なことだと強く感じる。

自分を悲しみの中にずっと居させたり、悲しみの中にしか居られない人間だと思って扱うと、大切な人の喜びに関わることができなくなってしまうからだ。

大切な人が幸せになると、自分の幸せが減るわけでもない。
大切な人が幸せになると、自分が我慢しないといけないわけでもない。
大切な人が幸せになると、自分から離れていってしまうわけでもない。

悲しさや寂しさに人は引き寄せられないし、一時的に引き寄せられたって、辛くなるのは目に見えている。

大切な誰かにも、自分にも、好きなものを愛おしむエネルギーや好きなものに向かうエネルギーがあり、嫌いなものや嫌なものをバネにして前に進むエネルギーがある。

親にも誰にも邪魔する権利は、当たり前だけどない。

歪んでいる家族や社会は、すぐにこのシンプルなエネルギーを捻じ曲げてくる。

序列や、お金や、学歴や、IQ や、性別や、地域や、年齢や、色んな形で順番や制限を指し示してくる。
そうして奪われた心の自由が、また誰かの心の自由を奪っていく。

もっとシンプルに、もっと自由に、大切なひとの大切な気持ちを、自分の大切な気持ちを尊重できるように、一つ一つ自分の気持ちと向き合っていかないといけない。


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