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呼吸とは生命の営みであり、そして世界を開示する──テッド・チャン「息吹」から

このページを目にした「あなた」も(つまりこのページを読もうと意識した人だけでなくタイムラインで一瞬このページを目にした人も)、この記事を書く僕にも、現にいま、ある場所で必ず呼吸をしている。人間の生には、不可避的に呼吸という運動が含まれる。

人間は、意識的存在者ないし理性的存在者である前に、呼吸する存在としてまず存在していなければならない(眠っている間、物心つく前などは、自己意識がなくとも呼吸する存在者として存在しているだろう)。

けれども、おそらく多くの人は「呼吸」をふだん表立って考えることはない(1)。

以上の短い推論から、根本的な事実が明かされた。すなわち、生にとって最も根源的・基礎的な運動である呼吸を、ふだん僕たちはまったく問題にしていないということだ。まるで呼吸などなくても問題でないようなほどに自明なものとして。

周りの人におもしろいと紹介され、テッド・チャン「息吹」という小品を読んだ。(テッド・チャン『息吹』にはタイトルの「息吹」も含め、9篇が収録されている。)

息吹の原語はexhalationで、これは(息などを)吐き出すこと、呼吸、発散、蒸発を意味する語である。

本記事では、テッド・チャン「息吹」から僕が思索したことを書き留めようと思う。よって、「息吹」のあらすじ等は記さない。(訳で20頁ほどのとても短い作品だから、みなさんにはぜひ読んでいただきたいです。)


(注1)とはいえ、「仕事柄」あるいは「趣味として」呼吸を意識的に主題化する人もいるだろう。例えば、職業で言えば住職、声楽家、声優、アスリートなど。僕は趣味がランニングとヨガだから、ふつうの人よりは呼吸に注目している部類だと思う。


呼吸は生命を根底から支える

古代ギリシア語でを意味するプシュケーという語がある。これは、もともと息や呼吸を意味していた。

日本語でも、いのちと息が連関している。例えば人身事故の際、人が存命か確認し、生きている場合には場合には「息がある」と言う。また人が亡くなることを「息を引き取る」と表現する。

息、呼吸、いのち、魂——これらの密接なつながりを、現代のような高度な医学の発展の前から人は観取していたのである。

ここまで重要な息ないし呼吸はしかし、ふだんの日常生活においては全くと言ってよいほど省みられることはない。そして、呼吸がうまくなしえないときに初めて、呼吸の有難さに気づくのである。

このような呼吸の意識のされなさは、”健康”と似ている(というか、そもそも健康を呼吸が支えている)。

健康な状態のとき、ひとは健康を問題にしない。健康でなくなったとき初めて、あるいは健康でなくなるかもしれないと案じて初めて、問題とみなされるのだ。

ふだんあまりにもその根底から生を支えるがゆえに、呼吸は主題化されない。めまぐるしく移ろう世界に巻き込まれている人間にとっては、呼吸という活動はその背後に退いている

呼吸することによって初めて、世界が開示される

人間は、まず身体的に存在する。当然である。身体という基盤がなければ、意識は生じえないし、様々な活動も遂行しえないからである。

身体を維持し続けるためには、呼吸をしなければならない。人は各自、他ならぬ自らの存在において、自らの存在のために、呼吸するのだ。

そうすることによって、世界が開示される

ここでの「世界」とは、客観的な(自然科学的な)世界のみを意味しない。人それぞれ、自らのパースペクティブ(視点)から、開示されるのが世界だからである。「自然科学的が想定する世界」も、人間の存在に現れる一つの世界にすぎない。地学の教科書が提示する世界も、日常生活で現れてくる世界も、ファンタジーが描く世界も、等しく「己に開示される世界」である。

原理的に、自分には自分の世界しか開示されない

呼吸しつつ存在することで、自己意識に世界が開かれてくるのだ

(少しスピリチュアルな感じもするが、)いま目を閉じて10秒経った後にゆっくりと目を開けてほしい。そうすれば、「世界の開かれ」を改めて経験できるだろう。

その息吹が終わるまで

呼吸が、自分の存在において、自分の存在のためになされるものだということが明らかになった。ひょっとすると、この表現から「自己中心的な」匂いを感じ取る人もいるかもしれない。けれども、必ずしもそうではないのだ。なぜなら、呼吸するためには「他者」がいなくてはならないからだ。

他者とは、ヒトだけでなく、他の動物、植物、無機物も含む。物質循環・生命循環において、自己は他者と繋がっているのだ。

だが、呼吸をするのは「他ならぬこの私」に他ならない。その息吹が終わるとき、「一つの世界」が閉じる


呼吸の停止という「死」がその存在に組み込まれている人間にとって、呼吸を続ける意味などあるのだろうか。いつか世界が閉じ、「無」になってしまうというなら、今すぐ呼吸を止めてしまったもいいのではないか?

この問いは切実である。この問いに対し応答することは、今の僕にはできない(2)。

ただ、以下のことだけは明言できる。

その呼吸が止まるまで、呼吸をしていたという「事実」は揺るがない。「他ならぬあなた」が呼吸をし、その生を生きたという「事実」は、たとえあなたの「世界」が「閉じる」ものであっても、なかったことにはならないのである

あなたの息吹が絶えるまで、世界はあなたに開かれている


(注2)今後noteにおいて、その応答を試みる。


思考の材料

↑ 生物が生きる目的を、自己保存ではなく時間と共に在り続ける事自体に見出すと、淘汰される個体にも救いが生じるということ

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