太陽のカヌーにのる -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(63_『神話論理3 食卓作法の起源』-14,M405 太陽のカヌー)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第63回目です。今回から『神話論理3 食卓作法の起源』の第三部「カヌーに乗った月と太陽の旅」を読みます。
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ここしばらく中沢新一氏の『精神の考古学』を取り上げてきましたが、『神話論理』の方も黙々と読んでいるのであります。
『神話論理』を読む。これまでの記事は下記にてまとめて読むことができますが、これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。
神話論理ー経験的区別を概念の道具とする
レヴィ=ストロース氏は『神話論理』の冒頭、次のように書いている。
経験的区別が、概念の道具となる。
経験的区別が、概念の道具となる!
概念の道具となった経験的区別が、抽象的観念の抽出に使われる。
そして抽象的観念たちをつなぎ合わせて、命題へ。
命題。
AはBである。
CはAではない。
いろいろな「命題」を並べて分類したくなる心をちょっと置いて、この命題の手前に、「つなぎ合わせること」と「つなぎ合わせること」それ自体と異なることのない「経験的区別」がある。
いや、「ある」などと断言するのは不粋である。
「ある」とか、”あるとかないとか”いうことも、これまた抽象的観念のつなぎ合わせ可能なパーツのようなものであって、それは経験的区別から、区切り出されつつあったりなかったりする。
ある / ない
「ある」とは、「ないではない」であり、つまり「あるーではないーではない」である。「ない」とは「あるではない」であり、つまり「ないーではないーではない」である。
+ +
経験的区別は、その名の通り、きわめて経験的な区別である。
ひどいトートロジーであるが、この”経験的区別”が、区別されるでも区別されないでもない、分かれるでもなく分かれないでもない”振れ幅”の”あわい”に、徹底して止まり続けるということが、おもしろくて仕方がないのである。
+ + +
カヌーは神話では
「カヌー」といえば、ご存知、水に浮かぶ”あれ”である。
そのカヌーという「経験的」な事物が、水の流れと空気の流れの「あわい」で揺れたり(つまり水界という人間が生きることのできない世界と地上界という人間が生きることのできる世界のあわいでゆれたり)、上流から下流に流されたり、ある地点と別の地点を分離したまま結合したり、ひっくり返って裏返ったりまたぐるりと回って元に戻ったりする…、という、その経験的な動き方が「区別」を、”所与の二項の二次的な結合関係”としてではなく、分かれているでも分かれていないでもないところから、つながりながらも分かれ、分かれながらもつながりっぱなしになっている、というような微妙な振動状態として「概念」化するための「道具」となる。
カヌーはいわば、”区別をするようなしないような”動き方をする、おもしろい経験的事柄なのである。
+ +
命題からその”つなぎ合わさり方”へ、
命題の”つなぎ合わさり方”から、概念の道具としての「区別」へ、
概念の道具としての「区別」から、その”経験的”な感触へ。
ここに、言葉が、言語的思考が生まれはじめようとする瞬間がひらけてくる。そこは意味が生まれる場所であり、意味が消えていく場所であり、無量無尽の”わかり方”の可能性が潜在し充満する、なんというか仮に仏教の言葉を借りるなら「法界」であるが、どのような名も仮、つまり"ここ"から生まれた何かの痕跡である。
+ +
太陽とのカヌーの旅
カヌーの旅の神話をひとつ引用してみよう。
『神話論理3 食卓作法の起源』pp.152-153に掲載された「M405 トゥクナ 太陽のカヌー」である。
カヌーにおいて、いくつもの”経験的区別”、例えば「あちらとこちら」とか「天と地」とか、「優位な者と劣った者」、とか、「生と死」とか、さまざまな経験的に「ああ、対立しているよね」という二極が結び合わされたり、分離されたりしている様子に注目していただきたい。
神話の論理は、仮に以下に示す図で説明すると、
Δ1/Δ2
|| ||
Δ3/Δ4
というような二項対立関係の組み合わせ(二つの二項対立関係を、別々に異なりながらも同じものとしてつなぐ)を分けつつつなぎ続けるためには、β1〜β4で示した四つの項がΔとΔの間を分けつつ繋ぐような作用をしないといけない(するといい)と考える。
ここでβ1〜β4による”分けつつ繋ぐ”動きの具体的な姿として、例えば経験的感覚的にはっきりと分離されているはずの二極の間が過度に結合したり、逆に経験的感覚的にはいつも一緒にペアになっているようなことが過度に分離したりすること、さらにはある対立関係において結合から分離に振れたひとつの項が、別の対立関係の一方の項と過度に結合したりという、分離したり結合したり、分離と結合を両極とする振幅を描く脈動と呼べるようなことがある。
仲間から”分離”し、ひとりで釣りに
上の神話の場合、まず若者が「ひとりで」居る。これはつまり人間たちの仲間・集団・社会から”分離”しているということであろう。
人間たちから分離した若者は、釣り糸を水中に垂らすことにより、地上界と水界、あるいは狩猟者と獲物という分離された二極の間を結合しようとしている。
第一の未分離からは分離し、第二の分離を未分離に繋ごうとする。
あちらで分離し、こちらで結合し。
バラバラにならずに、餅つきのようなことになっている。
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ただし、この場合の、若者と魚の結合は未達成である。
というか失敗している。
若者は釣果に恵まれない。
おそらく、村の仲間たちからちょっとばかり距離を置いたくらいでは、未分離からの分離が十分に開いていない(振幅が小さい)のであろう。であるからして水界の魚との結合もいまいち届かない。
太陽からの大量への誘い
そこに太陽がやってくる。
そして自分と組めば大漁になるという。
太陽は天界の存在である。
水界との結合に失敗した若者が、今度は天界の太陽と接近する。
こちらで分離しているなら、あちらで結合しよう、という。
しかし、太陽とベッタリひとつになるわけではなく(そんなことをしたら、ピラルクのように焼かれてしまうだろう)、若者と太陽は、ひとつのカヌーの頭と尻尾の両極に分かれる。
つまり若者と太陽は”付かず離れず”になっている。これは言い換えると、”分離するでもなく結合するでもなく”ということになる。
細かいところだが、当初若者は、漁に誘ってきた人物が「太陽」であるとは気づかないが、会話をするうちに気づく、というところがポイントである。ある状態から次なる状態へ(分離から結合へ、結合から分離へ)と、一挙に振り切れるのではなくて、少しづつずれていく。この振幅は低周波なのである。
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そしてこの緩やかな振幅を振る際の鍵になっているのが”ことば”である。
太陽は「これから大漁になる」と若者と誘う。
この時点ではこれは予言である。
実際にそうなるかどうかは、まったくわからない。
しかし、若者は大漁の可能性にかける。つまり太陽の言うことを信じるのである。
信じること。
言っていることが本当だろうと信じること。
あるいは、本当かウソかわからない(不可得)、半信半疑。
これこそが、”意味する記号”と”意味される事柄”とを非同非異、二即一にして一即二で分離したまま結合する言語の力である。
言葉は、目の前に転がっている感覚的に「ある」事柄をその場で指差して名づけることもできるし、目の前には存在しない見たり触れたりすることができない事柄のことを想像させることもできる。
この後者こそが、「半信半疑ながら、まだ見ぬ未来に向けて現在の行動を調整してみる」という人間的な営みを可能にするのである。
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”意味する記号”と”意味される事柄”とを、”分離するでもなく結合するでもない”という二項の関係は、さきほどのβ項の脈動と言ったこととおなじである。
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ピラルク
そして太陽がおおきなピラルクを捕まえて、熱で調理する。
たいそうな釣果に恵まれたものである。
ここで、この神話の冒頭で分離されたままだった釣り人である主人公(若者・狩猟者)と獲物とが、ついにひとつに結合されることになる。
水界では分離したが、天界では結合する。
あちらで分離すれば、こちらで結合する。
ここに神話の論理のβ脈動をみることができる。
・・
ピラルクといえば、下記の記事で取り上げた神話にも登場していた。
こちらはピラルク自体をβ化(カヌーのように経験的に対立する二極のどちらでもないあわいを行ったり来たりして振幅を描くものにする)ために、二匹セットにして、主人公たちが変身したものとして語る。
なお、下記の神話では、ピラルクは村人たちに釣られるものの、食われずに脱出することに成功する。
+ +
ここで若者は”悪い虫に取り憑かれていたせいで元気がない状態になっていた”というくだりになる。悪い虫と分離されたことで、若者は元気を取り戻す。これは獲物に恵まれない無気力な狩猟者が、なにか悪いものに取り憑かれていたせいでそうなっていただけで、憑き物をを落としたら狩がうまくいくようになった、という頻出するパターンである。
つまりこの虫が落ちることで、若者は、このあと地上世界に帰っても、ひきつづき釣りが上手な状態にありつづけられるということである。
狩猟者、Δ狩猟者、”狩猟者ではないものーではないもの”の分節・生成である。
ここで若者と水界の食べ物である魚との過度に分離されていた関係が、適度な結合へと組み変わったのである。
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食卓作法・魚たち
そして締めくくりに、太陽は若者に食事の作法を教えた。
すなわち、魚は可食部を残さず食べること。そして残った骨と鱗は、魚の形に戻して、川に帰すこと。そうすると魚はまた再生して、いずれまた獲物として釣り針にかかってくれることになるであろうこと。
獲物を食べた後の骨を、礼儀正しく扱うこと。
そうすることで、人間に捕まり食べられた動物たちの霊は動物霊たちの世界へと納得して帰っていき、そしてまた次の機会にも肉をまとって人間のもとに戻ってきてくれる、という考え方につながるものがある。
この話はたしか、中沢新一氏の『カイエ・ソバージュ』第一巻でも紹介されていた。
狩猟者 / 獲物
この対立関係は、現世の日常で放っておくと、狩猟者の側が、獲物を、一方的に収奪する、という関係になる。実際、経験的事実として、獲物を捕りすぎたらいなくなってしまった、ということは多々あるはずである。
狩猟者 / 獲物
この二項対立関係は、不安定なのである。つまり後者がなくなってしまい、対立関係が成立しなくなる。そうすると狩猟者というポジションもまた、消えてなくなってしまう。
そこで、狩猟者と獲物の関係を一方向的な
奪うもの/奪われるもの
増強されていくもの/減衰していくもの
といった関係に重ねてしまうのではなくて、双方向的に分離しつつも結合し続けること、お互いに相手方を”自分ではないもの”として区切りだし続けるような動きを反復すること、そういう関係に組みなおすのである。
ここに出てくるのが鱗と骨を魚の形に戻して、川に帰す、という「食卓作法」である。魚は食べられてしまったが、消えてなくなったわけではなく、「鱗と骨」という姿でそのままちゃんと存在しており、その姿でもって川に帰る。そしてまた肉のついた魚へと復活し、釣り針にかかってくれるかもしれない。
「いやいや、骨を川に流したところで、魚には戻らないだろう!
非科学的である!」
と、言いたくなるところかもしれないが、よく考えてみよう。
問題は「また魚に戻ってきて欲しいか」ということであり「魚を食べる者としての人間でありつづけたいか」ということである。もし今後も魚を食べ続けたいのであれば、魚たちがまた、人間の釣り針に”よろこんで”かかってくれるように、魚たちがまた帰ってこられるようにするための配慮が必要なのである。
いにしえの時代であれば、それは「骨を川に帰す」という、現代の科学から考えると直接の因果関係を推定し難い話なるのであるが、これが現代ならどのようにできるだろうか?
例えば、
・乱獲をしない。
・海や川の環境を破壊しない。
魚たちが絶滅しないようにするために必要な条件を、昔の人よりもはるかに精密に科学的に知っているはずの現代人が、はたして、どこまで、その科学的な知識と技術を活かして、現代版の「骨を水界に帰す」食卓作法を実践できているだろうか?
ちなみに、こういうことをじっくり考えてみたい方には下記の『魚社会』がおすすめである。
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『神話論理3 食卓作法の起源』は、これまでアタマが転がってきて叫ぶなど、食事向きではない話が続いていたわけであるが、ここでようやく、食卓作法らしい話になる。アタマに追い回される話は例えば下記の記事に掲載しているのでご参考にどうぞ。
++
食卓作法。狩られ食べられた動物に対する礼儀、獲物と狩猟者の対立関係の分離と結合のあわいに配慮する、という思考が可能になる背景には、神話の論理の脈動を意識することがある。
水界から過激な方法で分離された獲物である魚を、丁重に水界に帰す。
分離されたものは、どこかでまた結合されないといけない。
こうすることで対立関係の対立関係である四項関係として存在させられているこの世界の有意味な領域あるいは有意味性は、消えてしまうことなく、再生され続ける。そして狩猟者であり捕食者であり、ものを喰らう存在としての人間もまた、あくまでもこの「世界の有意味な領域」のひとつとして区切り出されつつある限りでのみ「存在」しうるのであり、この領域の区切りだしが止まってしまうと、その存在もまた対立関係を組む相手方の消滅と同時に霧消していく。
付かず離れずになるための場所が重要
カヌーの神話について、レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。
旅人たちの占める場所、位置、ポジションを「入念」に語る神話たち。
単に「誰それがカヌーで移動しました」と言うだけではなくて、誰がカヌーのどの位置に座り(あるいは立ち)、どちらがどういう具合にカヌーを操船したか、と言ったことが「入念に」語られる。
例えば『神話論理3 食卓作法の起源』の基準神話に設定された神話には次のようなカヌーをめぐる一節がある。長い話なので途中、カヌーに関するところだけを取り出しておく。
この神話では、人間である主人公「モンマネキ」と、動物(鳥)であるコンゴウインコの娘が、出会い、結婚し、そして主人公の母親の無礼により、いったん別れることになるのだが、別れ際に妻(コンゴウインコの娘)が自分と再会するための方法を夫に伝えていく。
動物 / 人間
この経験的感覚的にははっきりと分離され対立する二極が、「結婚」と言う形で結合する。分離されているはずのところが結合する。しかし、この結合は長くは続かず、また分離するのであるが、再結合する方法も示される。そして夫の方は苦労して準備を整え、妻を探す旅に出る、つまり再度の結合に向けて動き出す。
分離 → 結合 → 分離 → 結合
二極が分離したり結合したり、分離と結合の間を規則正しく往復する。
カヌーは分離しつつ結合する
この、分離 → 結合 → 分離 → 結合の間で振幅を描くくだりで、分離状態を結合状態へと転換するための媒介となる物が「カヌー」である。
このカヌー、神話的なカヌーであって、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもない中間的な両義的媒介項の役割を一身に引き受ける。
根元が水に浸かっている月桂樹と言う特別な材料で作られる。
水界/陸界
人間が生きられない(呼吸できない)世界/人間が生きられる世界
この二極を短絡するものとしてのカヌー(β)カヌーを削り出さす際に出たおがくずは水に落とすと魚に変身する
食べられないもの/食べられるもの
この二極を短絡するものとしてのカヌーつくり(β)主人公の親族の男の不用意な”覗き見”で、おかくず→魚の魔法が消える。
→見てはいけないものを見てしまう
→分離されるべきところを結合してしまう
分離と結合のこの二極の短絡を引き起こすカヌーつくり(β)カヌーは”裏返され”川に落ちた親族の男に「蓋をする」容器にされる。
容器 / 蓋
水界から分離すること / 陸界から分離すること
この二極を短絡する(一身に背負った)ものとしてのカヌー(β)カヌーの前/後に主人公とトラブルの後に仲直り?した親族とが別々に座り、上流から下流へと流れていく(二人の漕ぎ手が二局に分離しつつワンセットになって、上流/下流の二極の間を中間領域を経て移動する)
分離/結合
この二極を結合するものとしての移動するカヌー(β)カヌーが垂直に立ち上がったまま、ひとりでに流れていく
水平/垂直・・この対立する両極をどちらか不可得にするカヌー?(β)カヌーが「魚の主」に変身する
人間の食べ物ではないもの/人間の食べ物
この両極を短絡するものとしてのカヌー?(β)
細かく見ていくと、実にさまざまな経験的な二項対立関係を短絡したり過度に結合したりするような動きがカヌーにおいて展開する。
カヌーは、神話の論理を動かす(β脈動)両義的媒介項の位置に収まりやすい、と言うことをまずは押さえてこう。
+ +
なお、この神話の全編は下記の記事で紹介しているので参考にどうぞ。
次に、同じく『神話論理3 食卓作法の起源』から、pp.154-155に掲載された神話M406をみてみよう。
長くなるので、まず前半を読もう。
この前半では、二人の男=若者と老人、叔父と甥が、大きな海をカヌーでわたる旅をする。
カヌーで旅をする二人の男は、老/若という対立関係においては両極に隔たり分離しているが、同じ一族であるという点ではひとつに結びついている。ふたりは、”あちらで分離し、こちらで結合し”という二つの対立関係を交差させる。
しかもこの二人が属する一族は、過度な分離と過度な結合が高速で切り替わるような脈動をしている。
叔母が甥に言い寄る(あわや過度な結合)。
甥が激しく叔母を拒絶する(過度な分離)。
夫は、妻が言い寄っている相手の男をそのまま家に置く(分離すべきところが結合したままに)。
自ら家を出た若い男を、わざわざ追いかけて、難癖をつける(分離したところを、わざわざ結合する)。
年長のおじと妻がたくさんいるような若々しい叔父(若者にとっては「同じ」おじだが、一方は年老いており、他方は若い。二人は老/若の二極に分離している)
この高速の脈動の共振・共鳴状態から突出して放り出される=飛び出すようにして、若者と年長のおじは大きな海の対岸へとわたる旅にでる。
美しい恋人たちの出会いと別れのせつないお話かと思って心温まる感じで聞いていると、いきなり頭が爆発するものだから、吃驚。
もちろん、この頭もβ項であるからして、経験的なΔ頭とはちがう。
八項分節/対立関係の対立関係の対立関係を区切り出す
一番重要なことは、この神話の最後に至るまで、ここで語られている世界には、まだ「昼間の暖かさ」と「太陽の熱」がなかった、ということである。
私たちが慣れ親しんだ、この経験的で感覚的な世界は、まだはじまっていなかったのである。
太陽が、ない。
つまり、未だ天/地の分別もはじまっていないところの物語だったのである。この神話は、太陽が存在し、過ごしやすく暖かかったり、過酷に暑かったりする経験的で感覚的なこの世界の起源を語ろうとしている。
ここで太陽は、
快適な=生を増進する太陽 / 快適ではない=死を呼び込む太陽
生 / 死
この両極を一身に重ね合わせた存在として躍り出てくる。
冒頭に示した図でいえば、この快適な=生を増進する太陽と、快適ではない=死を呼び込む太陽は、経験的感覚的に対立する二項であり、いずれか二つのΔ項である。そして”年長の叔父の爆発した頭である太陽”は、このふたつのΔ太陽の中間に位置をとるβ項といえよう。
そしてこのβ頭が爆発する老人は、β若者とβカヌー上でペアになって、付かず離れず、近い距離と遠い距離の間で振動している。
β老人とβ若者とのあいだの距離を引き離す働きをしたのが、β女神である。β女神とβ若者が過度に接近しているとき、β老人はそこから最大の距離をとって分離する。β四項の脈動がよく表現されている。
さらに、β女神とβ若者が結合から分離へと振れるつど、その二つのβ項のあいだに、人間の食べ物である作物や、人間が行う狩猟の獲物、そして壺と、壺に蓄えられた飲み物(発酵飲料?)に、楽器という、一連の人工物(Δ項)が発生してくる余地が開く。
・・
ここでおやっ?と思うのは、β老人とβ女神の関係があまり語られていないことである。「そんな細かいこと、どうでもいいじゃないか」という呆れの悲鳴が聞こえてくるが、ここはこだわりたいところである。
β四項は、すべてがたがいに一点に収縮するほど結合したり、また激しく反発して遠く距離を拡大する方向で分離したりする。そういうわけで、β老人とβ女神も分離したり結合したり、しなければならない。
故郷にもどった老人が「わしも若い頃はよく旅をしたが」と言っているところと、老人が、まよいなく大海を渡って女神のいる対岸に直行できているところから推察するに、老人は、若い頃に、この女神の世界を訪ねたことがあるのだ。そしておそらく、そこで今回の若者のように女神と出会っていたのであろう。
* *
こうして
βカヌー
||
β老人 =*= β若者
||
β女神
というβ四項が、一点に凝集したり、四極へと広がったりと、脈動するところから、βとβの間に、
Δ1暑すぎて危険な太陽(死)
Δ2暖かい太陽(生)
Δ3栽培作物(植物、肉)
Δ4人工物(楽器、酒)
この四つの経験的で感覚的に対立する対立関係の対立関係が収まるポジションが区切り出される。
こうしてついにやっと、人間にとっての現世の始まりになる。
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