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星は天空の魚/魚は水中の星 -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(52_『神話論理3 食卓作法の起源』-3)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』”創造的”に濫読する試み第52回目です。

これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。
これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。


この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えてきた。

即ち、神話的思考(野生の思考)とは、図1に示すΔ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立とを”異なるが同じ”ものとして結合する、と言うために、β1からβ4までの四つのβ項いずれかの二つのΔの間にその二Δの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出する。そして、この四つのβと四つのΔを図1に描いた八葉の形を描くようにシンタグマ軸上に繋いでいく=言い換えていくことなのではないだろうか、と。

図1

これにより神話の構造分析は、

  • Δ1を「非-非-Δ1」と見る。
    Δ1は非-Δ1と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ1に他ならない。

  • 同様に、Δ2を「非-非-Δ2」と見る。
    Δ2は非-Δ2と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ2に他ならない。

  • 同様に、Δ3を「非-非-Δ3」と見る。
    Δ3は非-Δ3と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ3に他ならない。

  • 同様に、Δ4を「非-非-Δ4」と見る。
    Δ4は非-Δ4と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ4に他ならない。

直接言明されたあるΔと他のΔとの置き換えは、顕在的には二つのΔを「異なるが、同じ」ものとして分けつつ結び二項関係をつくることであり、潜在的には二つのΔ二項対立関係同士を異なるが同じものとして分けつつ結び四項関係を作ることでもある。そしてこの四項関係は、それと”半分ずれた”β四項関係によって媒介されて=分離されつつ結合され結合されつつ分離されている。


というわけで、呪文はこのくらいにして、レヴィ=ストロース氏が『神話論理3 食卓作法の起源』で分析対象としている美しい神話をみてみよう。

月のふたりの娘

の神話である。

昔々
月はひとりの男だった。
月は、成人したふたりの娘とともに、地上で暮らしていた。

ある時、月は、かわいい男の子供に惚れ込み、その魂を盗んで裏がえした鍋の下閉じ込め



男の子の家族は、魂を探すよう呪術師に依頼する。
呪術師は月のところにやってきた。
月は、別の鍋を裏返してその下に隠れた
そしてふたりの娘に、自分の隠れ場所を言わないようにと言い含めた。

しかし、呪術師は全ての鍋を破壊し、男の子の魂を助け出し、
誘拐犯である月を引っ張り出した
月は、天空に引き篭もることにし、娘たちをひきつれて旅立った。
その際、娘たちに、魂の通り道を照らす仕事を託した。
魂の通り道とは天の川であり、娘たちは、金星と木星である。

『神話論理3 食卓作法の起源』pp.38-39
M360「タウリバン 月のふたりの娘」を要約

月が「男」である。

月 =/= 男

男というのはもちろん、人間の男である。
大人になった娘が二人もいるような、立派な人間の男である。

しかし、この男は月である。

彼は「人間」なのか、それとも「天体」なのか??
と、常識的な諸賢であれば問われることであろう。

人間 / 天体
地上のもの / 天空のもの

この問いに対して、人間か天体か、対立する二極のどちらか一方を選んで「答え」にすることが”できるようになるために”!!そのために必要な、分節システム=二項対立の対立の対立=脈動する構造が、どのように結ばれているとよいのか。これを考えるのが神話の思考である。

天体人間

この月=男は、人間/天体、地上のもの/天空のもの、この両極のどちらでもないし、どちらでもなくもない

なにを訳のわからないことを言っているんだと思われるかもしれないが、まさに「分からない〜分けられない」状態に励起されていることが重要である。

いま神話の論理は、およそ”わかる=わける”ということが可能になるための条件を考えようとしている。すなわち、二項対立関係の生成ということを観測記述しようとしている。

学校の試験や受験であれば「分からない」ことは端的にマイナスであり悪である、ということになるのかもしれないが、こと野生の思考の神話論理においては分からなさに宙ぶらりんになりつつブランコをこぐように振幅を描くことこそが最高善であるといえよう。

天地未分

神話は、このように通常経験的に二極に分離済みの項と項が、まだはっきりと分かれていない、分けられていない、分離していないところ、を言語でもって言うところから始まる。

「天地未だ分かれず〜」である。

未分節を、分節済みの言語で記述する

ここで厄介なことは、言語というのが、例えば、

私 が りんご を食べる。

という具合に、「私」とか「りんご」とか「食べる」といった語を一列に(シンタグマ軸上に)並べていくものである、という点にある。

ここで「私」は「”私ではないもの”ではないなにか」として「”私ではないもの”」とあらかじめ分けられ済みであるし、「りんご」もまた「”りんご”ではないもの、ではないもの」として「”りんご”ではないもの」とあらかじめ分けられ済み、という顔をしている。

こういう、すでに分離済みの、それぞれ独立自存しているかにみえる項たちを一列に並べていくのが人間の言葉だとすると、そのような言葉を使って「未だ分かれず」を語ろうとするためには、少し工夫が必要になる。

その工夫の一つが「変身」である。

変身について語る

月が、人間の男に変身している。

レヴィ=ストロース氏は次のように書いている。

「神話の冒頭では、主人公は純然たる狩人である。というのは、その時点では魚も、そしてそれゆえおのずと漁撈も、存在していないからである。[…]物語は、大河で釣り上げられた原初の魚がたちまちにして地を這う動物たちと人間たちに変身した時代に設定されている。」

『神話論理3 食卓作法の起源』p.28

経験的な世界で「魚が存在する」と言うことは、「魚が存在しないーではない」ということである。そして後者のトークンには「魚が存在しない」が含まれている。

魚が存在する / 魚が存在しない

神話は、魚が存在する / 魚が存在しない、この区別、この両極を切り結ぶ「/」の動きを、出来合いの語たちの線形配列である言語でもってシミュレートしようとする。

上の引用で言及されている神話は、前回の記事で分析した、第三巻の基準神話M354「トゥクナ 狩人モンマネキとその妻たち」である。

ある神話の語りの始まりでは、「魚」が川から釣りあげられるとたちまちにして「地を這う動物」に変身する、ということが言われる。

魚 / 地を這う動物

この二極は、経験的にははっきりと区別されていて、混じり合うことはない。しかし、神話の語りの冒頭では、この経験的に対立する二極が、あえて、強いて、一方から他方へ、自在に「変身」するということが言われる。

ここでもキーワードは変身である。

* *

変身といえば、”現世では冴えない人が、異世界に転生してチート・モードで無双する”といった異世界転生系の話がおもしろがられるのも、優/劣というきわめて経験的で、日常においては一度固定されたらもう逆転することがないように思われる二項対立の両極の間を一方から他方へと移動する、主人公の「変身」が起きるからである。

優/劣

通常経験的にはっきりと分かれ、混じり合ったり、区別できなくなったりすることがないように思われる二極の間で「変身」のようなことが起きるというありえないお話は、私たち人類の脳にセットアップされた野生の思考の回路を励起する

* * *

即身成仏

この変身。
おそらく、密教の「即身成仏」も、この神話論理的には同じ系譜に連なる。

生きる「身」が、そのままで「仏」に「成る」。

空海が「ここぞ」という時にしばしば言及する真言「アサンメイ チリサンメイ サンマエイソワカ」もこのことである。

”異なること”と、”(三項が)同じであること”とは”同じことである”

異なることと、同じであることが、同じである。
異なることと、異ならないことが、同じである。

非同非異

ちなみにこの真言については、『性霊集』に収められた「為亡弟子智泉達嚫文」で読まれると、ハッとされる方もいらっしゃるだろう。現代語訳もあるのでピンとくる方はどうぞ。

* * * *

未分離からはじまる分離

というわけで、月の神話を分析してみよう。

冒頭、月が地上に降りて、人間の姿で暮らしている。

と、このように言えるためには、前提として、地上と天上、天体と人間とのあいだに分節が区切られている必要がある。もともと分節されているから、あえてそこで分けられ対立している両極を結合させたり、一方を他方に変身させたりするという語りが可能に成る。

言い換えると、この神話は、地上と天上とが区別され、天体と人間とが区別され、それでいて、この両極がはっきりと分離しつつも完全に別々になってしまうことなく、微かなつながり=結合の回路が残る、という経験的事実の起源を語ろうとしているのである。

すなわち、地上と天上とが分かれているということは、地上と天上とが分離されたということであり、この分離の手前では、地上と天上とは未分離だった、ということになる。この未分離を言語でもって表現するためにこそ、分離された「後」の地上に属する者=人間と、天上に属するもの=月、という両者の間の変身を語るのである。

そしてこの際、地上と天上の二項の対立関係が付かず離れず、”くっつきすぎずはなれすぎず”になるためには、地上を”地上ではないものーではないもの”として”地上ではないもの”から分けつつ、しかし離れすぎないように繋いでおくという技が必要になる。

このΔ1 と Δ1”ではないもの”とを分けつつ繋いでおくために、他にいくつかの二項対立関係が必要になる。そして二項対立関係の対立関係の対立関係、最小構成で八つの項からなる関係を組むことで、任意の二項の対立関係を分けつつ繋いでおくことができるようになる。

この分かれつつ繋がれた任意の二項の関係こそが、人類にとって、言語的に意味ある世界の分節することを可能にする最初のアルゴリズムになる。

二項対立関係の、関係の、関係

例えば、月=男の神話であれば、Δ1を地上、Δ2を天上、とおいてみるとよい。ちなみに、この八項関係のどこにどの項を置くかは任意である。

重要なのはこの「構造」であって、個々のΔやβの位置に「何」が配置されるかは、うまく納まるならばどうにでも変えて良い。

振幅を描く動きがその振幅の最大値と最小値を示現させる

この月=男が事件を引き起こす。
月=男は、男の子の「魂」を誘拐し、「裏返した鍋」の内側閉じ込める

この話、常識的に読めば、不審な男が子供を攫って隠すという犯罪の話なのだが、ここは神話である。

  • 誘拐=もともと結合していたところから分離する
    結合から分離への転換

  • 裏返し= 裏/表 の二項対立を逆転 

  • 内側= 内/外 の二項対立

  • 閉じ込める= 出し/入れ、あるいは 可視/不可視

といった二項対立関係の間での、一方から他方への転換・逆転を凝縮しているのだとわかる。それにしても密度が濃い

この月=男による人間の子供の誘拐事件には、天体/人間、大人/子供、家族との結合/家族からの分離、身体/魂、内側/外側、見える/見えない(隠されていない/隠されれている)などなど、いくつもの二項関係を検知しうる。

ここでは特に、前回、前々回の記事でも取り上げた「振幅を描く」動きに注目してみよう。

このくだりで捉えることができる「振幅を描く動き」は、まず男の子の身体からその「魂」だけを引き離す=分離する動きである。通常はひとつにくっついている身体と魂を、二つに分離して、魂だけを遠くに運び去ってしまう。身体と魂の距離がゼロだったところから最大の幅にまで分離する。0→∞。

◇   ◇

ここでいろいろな二項対立関係が芋蔓式に取り出されるわけだが、特にこの神話で選び出されるのは身体と魂の分離である。

八項関係の構造は、神話を「分析する」あるいは「理解する」ための、ひとつの観測装置なのである。神話”そのもの”に即自的になにか単一の八項関係が紐づいているわけではなく、神話分析者がどの二項対立関係に焦点を合わせるかによって、”同じ”神話でも、”異なった”二項対立関係が、つまり八項関係が、その分析者の身体感覚・言語・イメージの領域に浮かび上がる。

この構造、八項が分かれつつ結ばれているという構造が”神話それ自体”の特性のようなものではない、ということに注意してほしい。

八項関係は、人間が、その日常的な線形に配列された言語的意識とそれに引きずられた身体的感覚とイマジネーションの壁を破り、その向こう側へと明晰に高めた状態の意識を保ちつつ入り込みつつ、それでいて具体的経験的感覚的な項たちの対立関係からなる世界にもしっかりと足場を固めておくための観測装置なのである。

だからこそ、この八項関係はつまり曼荼羅、特に金剛界曼荼羅、その成身会=羯磨会と異なるものではないと言える訳である。

イメージ1
イメージ2

このイメージ1とイメージ2は、異なるが異ならない。同じではないが同じことである。

両義的振動状態に励起された「鍋」 

次に、この魂を「裏返した鍋の中に隠す」という動きもまた「振幅を描く動き」と見て良いだろう。

鍋。

というのは、よく考えてみると、とんでもない呪物である。

この神話で、は、うち/そと、ある/ない(見えている/見えていない)の二重の二校対立の一方の辺から他方の辺へ、盗まれた魂を移行させる。

そと / うち
見えている / 見えない 
ある / ない

ここでは「鍋を裏返す」という動きが肝になっている。

鍋は、裏返すことができる。

通常、調理をする場合であれば、鍋は「内側」が「外」に「見えている」。内側が外に見えているから、われわれはそこに肉や野菜やスープなどを入れて保持しておくことができるのだ。

そういう鍋であるが、ひょいと手に持って裏返すこともできる。
裏返された鍋は、料理をしている状態での「内」が内側に=被せられた「内側」に隠れ=見えなくなる。逆に、料理をしている状態での「外」が外側に=被せられたものの「外側」に=見えるようになる。

「内側」がーー「外」にーー「見えている」
「外側」がーー「内」にーー「隠れて(見えなくなって)いる」

こうして、

そと / うち
見えている / 見えない 
ある / ない

といった経験的な二極の間の対立関係を、自在にひっくり返すことができる媒介項が「」なのである。

二つになった=振幅が増大した両義的媒介項

この鍋に、月=男自身も隠れる。
ただし、男の子の魂と同じ鍋ではない。別の鍋に隠れる
ここで鍋が二つになっている。

二つ並んだ、裏返しの鍋。
いかにも怪しい・・

いずれにしても、ここで両義的媒介項が二になる。

二即一にして一即二である両義的媒介項が「二」になっている状態というのは、二即一一即二のうち「二」の方がより強調されているということであり、つまり両義的媒介項の振動状態が高まり、二極への分離へと向かうエネルギーを充満させた状態になっているということである。

二人の娘

この際、月=男は「二人」の娘に対して、自分が隠れていることを秘密にするよう言い含める。娘と父というのは、親子という点では「一」に連なっているが、しかし男/女、親/子、老/若といった対立する二極の間ではっきりと二つに分かれている。

この「父」と対立する「娘」が、「二」になっている。この娘たち二人に、一即二・二即一の両義的振動状態が、より「二」の方へと分離する傾向が見られる。

秘密にしたのにすぐバレる

父である月=男は、娘たちに、秘密を守るように言い含めるが、呪術師が問答無用で鍋を壊してしまうことで、この秘密=言葉で言わないことは無意味になる。

秘密を守っているのに、話も聞かれずスルーされる二人の娘たち。

空気を読まない呪術師、おそるべし。

この問答無用の実力行使も、

言語的コミュニケーションの成立 / 不成立

という二項対立の両極の結合なのである。

両義的で曖昧な中間状態から、はっきりと分けられた状態へ

さて、鍋が割れることで、先ほどの、

うち/そと
ある/ない
見える/見えない

といった二極の間のあいまいな中間状態がすべて破棄される。「内」に隠されたもの=見えないようにされていた「ある」ものは、いまやはっきりとあるがままに見えるようになる。男の子の魂は「外」に出てその姿を現したのである。

そして、誘拐の罪を恥じたであろう月は、地上を離れ=地上から分離し、天空の位置に収まるよう、移動していく。

人間 / 天体
地上のもの / 天空のもの

この二項対立が、あいまいに区別がつかなくなっている状態から、はっきりと区別された状態へと移行する。

二項対立関係の両極の間での振動状態が止み、まるで静止しているかのように見える項たちだけが際立つようになる。

月が地上を離れて天空に収まるとともに、その二人の娘たちも、どうやら「金星」と「木星」になって、天空に収まる。

星だか人間だかどちらともいえない者たちだった三者が、いずれも星になる。

そして星になっても、この三者、月と金星と木星は、互いにはっきりと分離された独立した光点であると同時に、夜空でその距離を縮めたり広げたりする振幅を描きながら、いつも一緒に動いている

月と金星+木星のセットは、分かれつつ、結びついている。
分離しつつ、結合している。

魂の通り道-を-照らし出し、教える

そしてこの金星と木星は、人間の魂の「通り道」である「天の川」を「照し」出すことで、人間の魂にその通り道を教えるという。

つまり

生/死

の両極の間の媒介者である媒介項の二項関係がこの金星と木星なのである。

金星と木星は、地上を遠く離れても、地上の人々に見えるように、天の川を照らし出す存在として、地上の人間世界とつながり続けている。

そしてまた地上の人間たちも、星たちによって天の川の「道」、魂の道を示されることによって地上にありながら天上の世界と、その死後においてであれ、はっきりとつながり続けていることを教えられるのである。

地上の人間もまた、天上とはっきりと分けられていると同時に、むすび繋がれているのである。

* *

分離しつつも結合しているということが、二項の関係を象徴する。
なにとなにであれ、二つの項が完全に分離し切ってしまっては、もはやそこに「関係」があるとは言えない。

この分離しつつも分離し切っていない、ということを言語でもっていうために、「照らす」とか「通り道」とか、振幅を描く動きといったことが引き合いに出される。

AIが描いた「月のふたりの娘

これはどう見ても「◯ー◯ームーン」。

月、娘、といえば・・・これでしょ!という確率的推定なのであろう。
AIが描いた「月のふたりの娘」(その2)
もう少し神話風に描いて」というプロンプトにより生成されたもの。
ぴったりくっついているのがいい。二即一。
鳥や木の枝のようなものもいい。

月のふたりの妻

この「月のふたりの娘」の神話に続けて、レヴィ=ストロース氏は「月のふたりの妻」という神話を分析する。

さきほどは娘がふたりで、今度は妻がふたり。

神話においては、二項対立関係にあることが重要であり、対立関係が際立ちさえすればよいのであり、その項それぞれが「何であるか」は、ある意味なんでもいい

つまり

男 / 女
親 / 子
夫 / 妻

などなど、経験的に「ああ、あれね」とわかる二項対立関係で、たがいに経験的に交差しているものであれば、特にその個々の項が何であるかは入れ替え可能である。

さて、こちらの神話は”二極の間で振幅を描く動き”を、月の満ち欠けに託してえがく

月は名前をもつ人間の男で、ふたりの妻がいた。
ふたりの妻は同じ名前で、
ひとりは側に、もう一人は西側に住んでいた。

月=男は交代で妻たちと会っていた。

一方の妻は、月=男にたくさんの食べ物を与えた
月=男はこちらの妻といる時に丸々太った

他方の妻は、月=男に、ろくな食べ物を与えなかった
月=男はこちらの妻といる時には痩せ細った

月=男は、第一の妻のところで太っては、第二の妻のところで痩せこけるということを繰り返していた。

二人の妻は互いに嫉妬しあい憎しみ合っていた。
だからこそ、互いに遠く離れて暮らしていた。
料理上手な妻は月=男に、「ずっとこうして暮らしていくのです」と言った

『神話論理3 食卓作法の起源』p.39
M361「タウリバン 月のふたりの妻」を要約

丸々太った / 痩せ細った

この両極の間を月はいつまでもいつまでも、行ったり来たりする。

月の第一の妻と第二の妻は、互いに憎しみ合い、東と西に分離している。
その両者の間を、月=夫が、交代交代に往来する。

レヴィ=ストロース氏は、この神話が、前回、前々回の記事で分析した第三巻の基準神話M354「トゥクナ 狩人モンマネキとその妻たち」の第四の妻の話と似ていることを指摘する。

「消え去ろうとするひとりの超自然的人物の両肩に二羽の鳥がとまるという話は、三項配置を暗示するが、これはいくつかの北アメリカの神話が一貫して用いる配置と類似している。」

『神話論理3 食卓作法の起源』p.38

何が似ているかと言えば、どちらの神話も、鋭く対立し分離する二極と、そのあいだを振幅を描いて動き続ける媒介項からなる三項の関係を語ることである。すなわち「配置」である。

第四の妻の話というのは、主人公の狩人が5回の結婚を繰り返す神話の、4番目の妻である。この妻はコンゴウインコの娘が人間に変身した者であり、冒頭、主人公と超円滑にコミュニケーションを実現し、結婚にいたり、超自然的に大量の酒を生み出したりする。しかし、主人公の母が勘違いからコンゴウインコの娘をなじることがあり、憤慨した嫁はインコの姿に戻って夫のもとから去ってしまう。ただし、「愛しているなら追いかけて来るように」と言い残して。主人公は苦労してカヌーを作り、親族の男とともに旅をして、鳥たちの住む世界にやってくる。そしてこのふたりの男が鳥に変身、隠れて姿を見せない妻(この時はまた人間の姿をしている)を探し出し、その両肩にとまる。

ひとりの女性と、ふたりの男性
ひとりの男性と、ふたりの女性

男 / 女
×
一 / 二

この三者が、「親子」であったり「夫婦」であったり、「親族」であったりする。親子、夫婦、親族というのは、別々に異なる複数の個体が、同時に”同じひとつ(の家族)”である、という一即二・二即一の関係を象徴している。

この親子、夫婦のあいだで、分離から結合へ、結合から分離へ、そしてまた分離から結合へ、という振幅が描かれる。

◆過度に反発し分離しようとする二人の妻と、
 これをつなぐように移動する人の夫。

◆過度に分離してしまった一組の夫婦と、
 その間をつなぐように移動する羽になった夫。

この<分かれているところ>と、<二即一一即ニになっているところ>とが違うが、どちらも同じように三項をつかって分離ー結合のバランスを回復しようとしている。

さらに、基準神話と月の二人の妻の神話では、分離傾向にある二極を際立たせる上で、どちらも料理上手/料理下手という対立関係を利用している。

月の二人の妻の神話では、
第一の妻が、料理上手 / 第二の妻が、料理下手
であった。

基準神話では、二羽の鳥に変身する夫とその義弟は、
夫の方が、漁の名人 / 義弟の方が、漁を台無しにする者
であった。

* *

二項の分離は、放っておくと、どこまでも分離し遠ざかり、仕舞いには何と何が対立関係にあったのかすらわからないほどになる

◯/◯
◯    ←←←←←/→→→→     ◯

この分離しすぎ、過分離した二極を再び対立させつつ結びつけるために、両項の間を移動するものが必要になる。

三「項」もまた、振幅の極値である。

「三項配置」、魚と星の起源

この<はっきりと分かれつつもセットになって、しかも振幅を描くような反復的なパターンで動くもの三つのセット>として、この上なく好都合な経験的素材が天体の運行である。

「月と、金星と、木星」
「月の満ち欠け」

星座同士の関係や、星座と惑星の関係なども、<はっきりと分かれつつもセットになって、しかも振幅を描くような反復的なパターンで動くもの三つのセット>として好都合である。

『神話論理3 食卓作法の起源』から、M362「マクシ オリオン座三星、金星およびシリウス星の起源」を見てみよう。

三人兄弟がいた。
ひとりは結婚しており、あとのふたりは未婚だった。
未婚のふたりのうち、兄は美男子で、弟はひどく醜かった

未婚で美男の兄は、醜い弟を殺そうと企み、木の種を摘んできてほしいと無理に頼んで、弟を木に登らせた。
そして弟が枝に跨った瞬間に、槍の一撃で弟を刺し貫いた。
弟は木から落ちて死に、未婚で美男の兄は弟の両足を切り離して去った。



しばらく後、未婚で美男の兄がこの自分が犯人である殺人現場に戻ると、義理の姉妹(兄弟のうちで唯一結婚している男の妻)がいた。

兄は「この足を魚の餌にする」と言い、水中に放り込む。

すると、足は水中でオオナマズに変身した。

置き去りにされた足以外の部分から、まず魂が飛び出して、天に昇り、オリオン座になった。これは身体の中央部分と左右の脚の霊である。



そして殺人犯である美男の兄も、金星に変身させられ空に昇った。

さらに、既婚の兄まで星に変身した。それがシリウスである。

既婚の兄が変身した星と、殺された弟の星は、殺人犯である美男の兄の星を挟んで、罰としていつまでも睨み続けることにしたのである。

『神話論理3 食卓作法の起源』p.40
M362「マクシ オリオン座三星、金星およびシリウス星の起源」を要約

三人兄弟がいる。
この三人は、兄弟という点で「おなじ、ひとつ」である。
しかしそこに二つの軸で区別が入る。

まず

既婚 / 未婚

この両極へ三人が、一人と二人に切り分けられる。
つぎに、

美 / 醜

の二項対立の両極に、未婚の二人が振り分けられる。

しかし、このように分かれていても、三人はいまだ三人でワンセット、一である。この”分離し切っておらず結合し切ってもいない”状態にいくつかの分割線が切り込まれることで、人間の世界が開闢する、という話になる。

第一の分割線は、未婚の二人の兄弟を、樹上/樹下に分離する。
第二の分割線は、木から落ちた弟の体を三つに分離する。二本の脚と、脚以外の腰から上である。

この分割された=切り分けられた項たちは、今日の人間にとって経験的な世界を構成する存在者へと変身する。

まず両足は、水界に属する魚に変身する。
樹上=地表よりは「上」の半空中から落とされた脚が、束の間地上に止まって、そして水界へと降りていく。そうして水界で大きな魚に変身する

次に、腰から上の身体は「オリオン座」に変身する。
オリオン座といえば、中央の星が三つ並んで見える部分が特徴的であるが、ここにも三つが一セットになる、という関係をみることができる。

この「オリオン座」を”挟む”ように、残りの二人の兄弟が変身した「金星」と「シリウス」が配される。

オリオン座、金星、シリウス

この三項は、夜空で一緒に輝く様を見ることができるが、互いに区別ができなくなるということはない(人類が観測できている時間内では)、この三項は、たがいにはっきりと分かれながらも、完全に分離し切って無関係になってしまうことなく、また区別できなくなるほど無闇に結合することもない。

レヴィ=ストロース氏は次のように書く。

これらのギアナ神話が語り伝えているのは、脚を切断された男の主人公の物語で、彼は/木に登ったにもかかわらず、あるいは、カヌーに乗って遠ざかろうとしたにもかかわらず/義姉、妻、弟、あるいは義弟によって/分断されたのである。この身体切断の結果、直接にであれ間接にであれ水中の大量の魚が/そして、夜空には、オリオン座が現われる。

『神話論理3 食卓作法の起源』pp.45-46

半分になる主人公は、諸々の区別が未だはっきりしないどれが何だか不可得な状態で登場し、上/下や遠/近の軸上で振幅を描く様に動き始める。そしてその動きのあとに、彼自身が二つに分かれる。その分かれた先で、水中の魚と、天空の星になる。

水中 / 天空

この二項対立する両極のちょうど中間に、地上が、人間世界が広がる。

水中

<<地上世界>>

天空

そして「魚」は、水中に属する者でありながら、地上世界の人間が、釣り針や網などを使って、それを釣り上げたり捕まえたりすることができる。つまり魚は、水中から地上へと移動することができる、水中と地上の両方に存在することができる、水中と地上の二項に対する中間項の位置を占める。

同じく「」も、空虚な空において、人間がその視覚にとらえることができるものである。そして実際、稀にではあるが、星は隕石となって地上に落ちてくる(もちろん、隕石と、星座を構成する恒星たちとでは天体のあり方は違うのだが)。「星」もまた、魚と同じ様に、地上と天空との両方に存在することができる、地上と天空の二項に対する中間項の位置を占める。

水中

(魚)

<<地上世界>>

(星)

天空

レヴィ=ストロース氏は、さきほどの神話の続きとなる別の神話も合わせて紹介している。

殺された醜い弟には、妹がいた。
この妹はヒキガエルだった。

ヒキガエルの女はある人間の男と結婚したが、いつまでも「クア、クア、クア」と鳴き声をあげていたので、怒り出した夫に切り付けられ上半身と下半身が別々になってしまった。

下半身は水中に投げ込まれ、オオナマズに変身した。
残った上半身は天に昇り、
兄であるオリオン座三星のすぐ近くに
寄り添った。

『神話論理3 食卓作法の起源』p.41
M363「ある星々の起源」を要約

ここでも「カエルの娘」と人間の男という、経験的には遥かに遠く隔たった二者のあいだで「結婚」という結合が起きる。

過度に分離したものが、過度に結合するのである。

しかしその結合は、カエルの娘が「人間」に変身しきっていない(カエルのように鳴いている)ことによって分離へと転じる。その分離はまた「カエルでありながら人間と結婚する」という両義的媒介的に励起された状態の身体を「二つ」に分けることを伴う。

そうして二つに分かれた、図1でいう「β項」の身体は、これまた水中の魚と、天空の星になり、それぞれ安定した位置に収まりつつ、時に水中から地上に引っ張り上げられたり、天空から地上に落ちてくることで、天/地/水の三界をはっきり安定的に分離しつつ、結び合わせる

人間と結婚するカエル娘は、β項である。
このカエル娘は、二つのΔ項に分離することで、
この経験的で感覚的な世界の確かな構成要素になる。

三項関係を用いることで、経験的感覚的に対立関係にある二項が、所与の実態が二次的に並べられたものではなく、経験的感覚的に対立関係にある二項はある”ひとつ”の過度に分離したり過度に結合したりする振幅を描く脈動の二つの極値であるということが高らかに宣言されるのである。

レヴィ=ストロース氏は次のように書く。

「結局のところ、各集団ごとに用語が異なったり、メッセージ内容が逆になったりするものの、コードは変わらず同一なのである。」

『神話論理3 食卓作法の起源』p.48

このコードというのが、冒頭に記したものである。

図1
  • 構造分析は、Δ1を「非-非-Δ1」と見る。
    Δ1は非-Δ1と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ1に他ならない。

  • 同様に、Δ2を「非-非-Δ2」と見る。
    Δ2は非-Δ2と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ2に他ならない。

  • 同様に、Δ3を「非-非-Δ3」と見る。
    Δ3は非-Δ3と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ3に他ならない。

  • 同様に、Δ4を「非-非-Δ4」と見る。
    Δ4は非-Δ4と区別され分節される限りで、その姿を現す非-非-Δ4に他ならない。

  • これら四つのΔをはっきり分離しつつ安定的に結合しておくために、四つのβ項が分離したり結合したりする脈動が必要なのである

遠くへだった動物との結婚とか、身体が半分になる、といったエピソードは、このβ四項からなる円環を、未分即四分・四分即未分に収縮させたり拡大させたりする。

「きわめてへだたった諸地域に同じ神話のモチーフがあること[…]、コリヤーク、エスキモー、ツィムシアンおよびスカラメットといった諸部族は、ひとりの男がつぎつぎに各種の動物と結婚しては別れ、別れては結婚するという物語を、さまざまに異なる形式のもとで伝えているが、この離婚の原因は、しばしば人間とは異なる食物のとり方ゆえに生じた誤解にあったのである。」

『神話論理3 食卓作法の起源』p37

そしてこのβ四項の脈動を覆い隠して、Δ四項の安定した関係を際立たせる相の転換の鍵になるのが「誤解」のような、失敗したコミュニケーションなのである。

つづく

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